第10話 全ての出来事が偶然だとは限らず、どんな出来事も必然でないとは限らない
文字数 3,825文字
「おっはよー、リョウ君、桐音ちゃん」
次の日、朝のざわつく教室の中で櫻子は二人に挨拶する。
「おう、おはよう」
桐音は黙ったままだったが、未完成のロボットの様にぎこちない動きで、わずかに会釈した。少しでも反応できるようになっただけましなのだろうか。相変わらず表情は固いままであったのだが。
櫻子は、にこにことした表情で話し続ける。
「さあ、朝のトークをしようよ。モーニングトークだ」
「何を話すんだよ」
「うーん、そうだなぁ。朝ご飯は白米派か、玄米派か、とか」
「ご飯派である事は確定なのかよ」
「後は、さっきあった不思議な出来事とか」
「不思議なこと?」
遼太郎は聞き返す。
「いや、さっき登校中にね。一瞬、世界が白黒になっちゃったように見えたの。まるで世界が止まってしまったみたいな」
「――それってまさか」
そんな不可思議な出来事にはここ最近馴染みがある。
遼太郎は桐音の方を見る。すると、桐音はぼそりと呟いた。
「妖怪の『転界』かもしれない……」
「え?」
もし、櫻子も妖怪に狙われているというのであれば、放っておくわけにはいかない。
「……放課後、一緒に来て」
放課後、三人は櫻子が『転界』に囚われたと思われる場所を訪れていた。そこは、伸びきった雑草に覆われた町外れの小さな公園だった。遊具は錆びたブランコが一つだけ。ぼろぼろの木のベンチがどこか寂しさを醸し出している。
「ここを突っ切るのが学校への近道なんだけど、ここで周りの風景がモノクロになったの。この公園を出ると元に戻ったんだけど」
「妖怪の『転界』ね」
公園の入り口から中を覗き込みながら桐音は言った。
櫻子は怪訝な表情で尋ねる。
「えっと、妖怪っていうのは……?」
桐音は淡々と言った。
「貴方は今朝、妖怪に出会ったの。世界がモノクロになるのは妖怪が使う『転界』という術の特徴だから」
「………………」
「……まあ、信じられないとは思うけど」
彼女が体験したのは『転界』だけ。しかも、すぐに抜け出る事ができたのなら、何かの見間違いと思う方が自然だろう。化物に出会って居ないのであれば、妖怪が居るという事をすぐに信じるのは難しい。
――そう思ったのだが。
「わかった、信じるよ」
「え?」
これには遼太郎も驚いた。まさかここまであっさり信じるとは思わなかったからだ。遼太郎も、実際に妖怪に襲われていなければ、妖怪の存在など信じられなかっただろう。
「えらく簡単に信じるな」
「桐音ちゃんが嘘をついてるようには見えないし。それに――」
櫻子は当然のように言った。
「友達の言うことは信じたいから」
桐音はぷいと顔を明後日の方へ向け、やはり何も言わなかった。
桐音が今、どんなことを考えているのかは遼太郎にはわからない。しかし、櫻子が桐音を友達と言ってくれる事が、遼太郎には嬉しかった。
「さっさと蹴りをつける……」
桐音は公園へと足を踏み入れた。
入り口に櫻子を残し、桐音と遼太郎は公園の中に踏み込む。しかし、何も変わった様子はない。ここで『転界』が使われたと聞いていなければ、妖怪が居るなんて思いもしなかっただろう。
桐音は手の中に握った何かを眺めている。
「なんだそれ?」
遼太郎が覗き込むとそこにあったのは、古びた小さなコンパスのような物だった。小さな針がぷるぷると揺れている。
「……これは妖力を探る道具」
桐音は辺りをぐるぐると歩きまわりながら、コンパスを見つめている。
「妖怪は近くに居る様だけど、気配を上手く隠しているみたい」
「どうするんだ……?」
「仕方ない……」
桐音は入り口の方を振り返って言った。
「こっちに来て」
桐音は櫻子を公園の内部へと招き入れる。櫻子はびくびくしながら公園の中に入ってくる。
瞬間、世界が色を失う。
「『転界』?!」
「これ、今朝と同じ!」
まるで世界そのものが律動をやめ、時間が止まってしまったかの様だった。外界からの音も何も聞こえない静寂の世界。どこか寒々しく、不気味なモノクロの光景。
「やっぱり、この『転界』の主のターゲットは貴方ね」
遼太郎や桐音では『転界』は発動せず、櫻子が足を踏み入れたときに発動したのがその証拠。
「妖怪が無差別に人を襲う事は少ない。だから、貴方を連れてくれば引き摺り出せると思った」
それが櫻子を現場に連れてきて、事情を話した理由だった。
「私が何とかする。安心して」
遼太郎は櫻子を庇うようにして、前に立つ。桐音は公園の奥の方へと踏み込んでいく。
「……来る」
茂みの奥を指差し、桐音は言った。
また昨日までの様な化物が飛び出してくるかと思うと、遼太郎の身体は震えだす。しかし、今は自分がびびっている訳にはいかない。なぜなら、きっと櫻子の方がずっと不安だろうと思うからだ。
「大丈夫だ」
遼太郎は強がり、震えを無理矢理に止める。櫻子を勇気づけるために。
桐音はいつの間にか刀を握り、茂みに向かって構えている。
そのとき、茂みが動いた。
(来るっ!)
そうして、現れたのは――
「えっ?」
「はっ?」
「にゃあー」
猫だった。
「ねこっ!?」
遼太郎はすっとんきょうな声を上げる。
「……このネコ、妖怪よ」
桐音は何でもないことの様にぼそぼそと呟いた。
「嘘だろ、昨日までの化物みたいにでっかくないぞ!?」
「あんな妖怪ばかりじゃない。ビルの様に大きい妖怪も居れば、鼠くらいの大きさの者も居る」
桐音はひょいと猫を抱え上げる。そんな扱いをされると本当に普通の猫にしか見えない。
「そんな扱いで大丈夫なのかよ?」
「これは『猫又』。大人しい妖怪だから人に危害をくわえる事はない」
そして、桐音は猫の尻尾を指差す。
「尻尾が二本ある!」
白、黒、茶の三色の三毛猫の尻尾の先は二つに別れていた。
「これが猫又の特徴。せいぜい『転界』を張るくらいの力しかない大人しい妖怪」
「へえ……」
遼太郎はてっきり妖怪は全て邪悪な存在なのかと思っていた。しかし、今まで出会った妖怪が悪い奴だったからといって、全ての妖怪が悪だと決めつけるのは早計だったかもしれない。
「レ……イ……」
それは猫又の口から溢れた音だった。
「オ……レ……イ」
「もしかして、こいつ喋れるのか?」
「猫又は長く生きた猫か妖怪になったもの。知能は高いから、猫又になってから長いと人語を話せる者も居るのだけれど、この子はまだ拙いみたいね」
「もしかして、この子……」
櫻子は猫又の方に近付き、その額に顔を寄せて言った。
「この額の模様、きっとそうだ!」
「この猫を知ってるの?」
「この子、少し前に私の家の庭で足を引きずってるところを見つけて、手当してあげたの。すぐに元気になって、野良猫に戻って行ったみたいで、しばらく見てなかったんだけど……」
「その間に妖力を得て、猫又になっていたのね」
「オレイ……イウ」
「お礼って、言ってるのか!」
猫又は、低く途切れ途切れの声で続けて言った。
「ア……リガトウ」
「きっと、お礼を言うためにここに居たのね」
そのために『転界』を使って櫻子を待っていたのだ。
櫻子は桐音から猫又を受け取り、まるで赤ん坊を抱くように優しく抱きしめる。
「わざわざお礼を言いに来てくれて、ありがとう」
櫻子は花が咲くような満面の笑みで言った。
「貴方のおかげで、桐音ちゃんともっと仲良くなれた気がするよー」
櫻子は、猫を抱きながら踊るようにくるくると回って、「あはは」と笑っていた。
「ありがと、猫さん」
「………………」
桐音はやはり何も言わなかったが、その表情は少しだけ柔らかくなった。遼太郎には、そう思えた。
この日以来、桐音と櫻子の距離は少しだけ近くなったようだった。相変わらず桐音はむっつりと黙り混んでいたが、以前ほど櫻子を拒絶する様子は見せなくなった。二人が友人になれたことに遼太郎は純粋に喜んだ。
ストーカーからの手紙は相変わらずだった。「好き」とか「見ている」の様な言葉を便箋いっぱいに書き連ねている事もあれば、最近の遼太郎の行動を逐一報告してくる事もあった。また正体を明かせないことを謝りだしたこともあれば、こうして手紙を出し続けること自体を謝罪してくることもあった。手紙を出すことに罪悪感を覚えている節があるのに、それでも手紙を出すことをやめようとしない。それが逆に薄気味悪さを強めていた。不気味ではあったが、犯人が捕まえられない以上は放っておく以外にどうしようもなかった。
日常の問題は解決しても、非日常の問題は依然として残されていた。遼太郎は妖怪に襲われ続けていた。
毎日の様に襲われる事もあれば、しばらく間があることもあった。時間帯は放課後が主だったが、自宅に居るときや学校に居るときに襲われる事もあった。その度に桐音に助けを求め、何とか切り抜けていた。唯一の救いは桐音を手こずらせるほどの妖怪が襲ってこなかったことだろうか。
次の日、朝のざわつく教室の中で櫻子は二人に挨拶する。
「おう、おはよう」
桐音は黙ったままだったが、未完成のロボットの様にぎこちない動きで、わずかに会釈した。少しでも反応できるようになっただけましなのだろうか。相変わらず表情は固いままであったのだが。
櫻子は、にこにことした表情で話し続ける。
「さあ、朝のトークをしようよ。モーニングトークだ」
「何を話すんだよ」
「うーん、そうだなぁ。朝ご飯は白米派か、玄米派か、とか」
「ご飯派である事は確定なのかよ」
「後は、さっきあった不思議な出来事とか」
「不思議なこと?」
遼太郎は聞き返す。
「いや、さっき登校中にね。一瞬、世界が白黒になっちゃったように見えたの。まるで世界が止まってしまったみたいな」
「――それってまさか」
そんな不可思議な出来事にはここ最近馴染みがある。
遼太郎は桐音の方を見る。すると、桐音はぼそりと呟いた。
「妖怪の『転界』かもしれない……」
「え?」
もし、櫻子も妖怪に狙われているというのであれば、放っておくわけにはいかない。
「……放課後、一緒に来て」
放課後、三人は櫻子が『転界』に囚われたと思われる場所を訪れていた。そこは、伸びきった雑草に覆われた町外れの小さな公園だった。遊具は錆びたブランコが一つだけ。ぼろぼろの木のベンチがどこか寂しさを醸し出している。
「ここを突っ切るのが学校への近道なんだけど、ここで周りの風景がモノクロになったの。この公園を出ると元に戻ったんだけど」
「妖怪の『転界』ね」
公園の入り口から中を覗き込みながら桐音は言った。
櫻子は怪訝な表情で尋ねる。
「えっと、妖怪っていうのは……?」
桐音は淡々と言った。
「貴方は今朝、妖怪に出会ったの。世界がモノクロになるのは妖怪が使う『転界』という術の特徴だから」
「………………」
「……まあ、信じられないとは思うけど」
彼女が体験したのは『転界』だけ。しかも、すぐに抜け出る事ができたのなら、何かの見間違いと思う方が自然だろう。化物に出会って居ないのであれば、妖怪が居るという事をすぐに信じるのは難しい。
――そう思ったのだが。
「わかった、信じるよ」
「え?」
これには遼太郎も驚いた。まさかここまであっさり信じるとは思わなかったからだ。遼太郎も、実際に妖怪に襲われていなければ、妖怪の存在など信じられなかっただろう。
「えらく簡単に信じるな」
「桐音ちゃんが嘘をついてるようには見えないし。それに――」
櫻子は当然のように言った。
「友達の言うことは信じたいから」
桐音はぷいと顔を明後日の方へ向け、やはり何も言わなかった。
桐音が今、どんなことを考えているのかは遼太郎にはわからない。しかし、櫻子が桐音を友達と言ってくれる事が、遼太郎には嬉しかった。
「さっさと蹴りをつける……」
桐音は公園へと足を踏み入れた。
入り口に櫻子を残し、桐音と遼太郎は公園の中に踏み込む。しかし、何も変わった様子はない。ここで『転界』が使われたと聞いていなければ、妖怪が居るなんて思いもしなかっただろう。
桐音は手の中に握った何かを眺めている。
「なんだそれ?」
遼太郎が覗き込むとそこにあったのは、古びた小さなコンパスのような物だった。小さな針がぷるぷると揺れている。
「……これは妖力を探る道具」
桐音は辺りをぐるぐると歩きまわりながら、コンパスを見つめている。
「妖怪は近くに居る様だけど、気配を上手く隠しているみたい」
「どうするんだ……?」
「仕方ない……」
桐音は入り口の方を振り返って言った。
「こっちに来て」
桐音は櫻子を公園の内部へと招き入れる。櫻子はびくびくしながら公園の中に入ってくる。
瞬間、世界が色を失う。
「『転界』?!」
「これ、今朝と同じ!」
まるで世界そのものが律動をやめ、時間が止まってしまったかの様だった。外界からの音も何も聞こえない静寂の世界。どこか寒々しく、不気味なモノクロの光景。
「やっぱり、この『転界』の主のターゲットは貴方ね」
遼太郎や桐音では『転界』は発動せず、櫻子が足を踏み入れたときに発動したのがその証拠。
「妖怪が無差別に人を襲う事は少ない。だから、貴方を連れてくれば引き摺り出せると思った」
それが櫻子を現場に連れてきて、事情を話した理由だった。
「私が何とかする。安心して」
遼太郎は櫻子を庇うようにして、前に立つ。桐音は公園の奥の方へと踏み込んでいく。
「……来る」
茂みの奥を指差し、桐音は言った。
また昨日までの様な化物が飛び出してくるかと思うと、遼太郎の身体は震えだす。しかし、今は自分がびびっている訳にはいかない。なぜなら、きっと櫻子の方がずっと不安だろうと思うからだ。
「大丈夫だ」
遼太郎は強がり、震えを無理矢理に止める。櫻子を勇気づけるために。
桐音はいつの間にか刀を握り、茂みに向かって構えている。
そのとき、茂みが動いた。
(来るっ!)
そうして、現れたのは――
「えっ?」
「はっ?」
「にゃあー」
猫だった。
「ねこっ!?」
遼太郎はすっとんきょうな声を上げる。
「……このネコ、妖怪よ」
桐音は何でもないことの様にぼそぼそと呟いた。
「嘘だろ、昨日までの化物みたいにでっかくないぞ!?」
「あんな妖怪ばかりじゃない。ビルの様に大きい妖怪も居れば、鼠くらいの大きさの者も居る」
桐音はひょいと猫を抱え上げる。そんな扱いをされると本当に普通の猫にしか見えない。
「そんな扱いで大丈夫なのかよ?」
「これは『猫又』。大人しい妖怪だから人に危害をくわえる事はない」
そして、桐音は猫の尻尾を指差す。
「尻尾が二本ある!」
白、黒、茶の三色の三毛猫の尻尾の先は二つに別れていた。
「これが猫又の特徴。せいぜい『転界』を張るくらいの力しかない大人しい妖怪」
「へえ……」
遼太郎はてっきり妖怪は全て邪悪な存在なのかと思っていた。しかし、今まで出会った妖怪が悪い奴だったからといって、全ての妖怪が悪だと決めつけるのは早計だったかもしれない。
「レ……イ……」
それは猫又の口から溢れた音だった。
「オ……レ……イ」
「もしかして、こいつ喋れるのか?」
「猫又は長く生きた猫か妖怪になったもの。知能は高いから、猫又になってから長いと人語を話せる者も居るのだけれど、この子はまだ拙いみたいね」
「もしかして、この子……」
櫻子は猫又の方に近付き、その額に顔を寄せて言った。
「この額の模様、きっとそうだ!」
「この猫を知ってるの?」
「この子、少し前に私の家の庭で足を引きずってるところを見つけて、手当してあげたの。すぐに元気になって、野良猫に戻って行ったみたいで、しばらく見てなかったんだけど……」
「その間に妖力を得て、猫又になっていたのね」
「オレイ……イウ」
「お礼って、言ってるのか!」
猫又は、低く途切れ途切れの声で続けて言った。
「ア……リガトウ」
「きっと、お礼を言うためにここに居たのね」
そのために『転界』を使って櫻子を待っていたのだ。
櫻子は桐音から猫又を受け取り、まるで赤ん坊を抱くように優しく抱きしめる。
「わざわざお礼を言いに来てくれて、ありがとう」
櫻子は花が咲くような満面の笑みで言った。
「貴方のおかげで、桐音ちゃんともっと仲良くなれた気がするよー」
櫻子は、猫を抱きながら踊るようにくるくると回って、「あはは」と笑っていた。
「ありがと、猫さん」
「………………」
桐音はやはり何も言わなかったが、その表情は少しだけ柔らかくなった。遼太郎には、そう思えた。
この日以来、桐音と櫻子の距離は少しだけ近くなったようだった。相変わらず桐音はむっつりと黙り混んでいたが、以前ほど櫻子を拒絶する様子は見せなくなった。二人が友人になれたことに遼太郎は純粋に喜んだ。
ストーカーからの手紙は相変わらずだった。「好き」とか「見ている」の様な言葉を便箋いっぱいに書き連ねている事もあれば、最近の遼太郎の行動を逐一報告してくる事もあった。また正体を明かせないことを謝りだしたこともあれば、こうして手紙を出し続けること自体を謝罪してくることもあった。手紙を出すことに罪悪感を覚えている節があるのに、それでも手紙を出すことをやめようとしない。それが逆に薄気味悪さを強めていた。不気味ではあったが、犯人が捕まえられない以上は放っておく以外にどうしようもなかった。
日常の問題は解決しても、非日常の問題は依然として残されていた。遼太郎は妖怪に襲われ続けていた。
毎日の様に襲われる事もあれば、しばらく間があることもあった。時間帯は放課後が主だったが、自宅に居るときや学校に居るときに襲われる事もあった。その度に桐音に助けを求め、何とか切り抜けていた。唯一の救いは桐音を手こずらせるほどの妖怪が襲ってこなかったことだろうか。