第2話 余りにもありふれた非日常との邂逅
文字数 2,660文字
「なんなんだよ、これ……」
まさに今、瀬戸川遼太郎の平凡な日常は終わろうとしていた。
遼太郎は、取り立てて勉強ができる訳でもなければ、スポーツの才があるわけでもない。なんとなく高校に通い、なんとなく授業を受け、ただ漫然と日々を過ごしていく、どこにでも居る普通の高校生。今だっていつもと何一つ変わらない放課後のはずだった。
周囲は異様な空間に様変わりしていた。
世界が色を失っていた。
まるでモノクロ写真の様に、白と黒の二色だけで構成された光景。青々と茂る木々も、夕焼けに燃える空も、何もかもが灰色に様変わりしている。ごく普通の閑静な住宅街。家から感じられる生活の気配、それがすっぽりと抜け落ちてしまっている。生命の息吹の感じられない死の世界。まるで世界は停止してしまったようだった。
それだけでも異常な状況なのは間違いない。だが、そんな事よりもはっきりとわかる異常が眼前にそびえ立っていた。
それは獣。
「なんなんだよ、このバケモノは……!」
遼太郎の目の前には、数メートルを超す四足の化物が屹立していた。
一見すると犬の様な形をしているが、人間が見上げなければならないほど巨大な犬が居るはずが無い。棘の様に逆立つ銀の体毛。口から飛び出すほどの大牙。その鋭さはまるで刀。あんな口に噛みつかれたらただでは済まない。その口からだらだらと垂らす涎も、より一層の不気味さとおどろおどろしさを醸し出している。
何よりもその大犬の眼は、明らかに異常だった。赤くぎらつく眼光。目の前に居る者、何もかもを薙ぎ払い、喰らい尽くそうとする獰猛な意志。疑いようもない狂気が、そこにはあった。
遼太郎は、立ち向かう事も、逃げ出す事もできず、ただ茫然と立ち尽くしている。
動かないと不味い事は解っている。でも身体が言う事を聞かないのだ。まるで身体が石に変わってしまった様だ。人間は本当の緊急事態には何もできなくなる。蛇に睨まれた蛙とはこういう状況の事を言うのだろうか。
(動け、俺の身体……!)
ドクン。心臓が大きく跳ねる音を、確かに聞いた。
「ちく……しょうが!」
遼太郎が叫ぶ事で無理矢理に固まった身体を動かしたのと、怪物が動きだしたのは、ほぼ同時だった。
(やられる……!)
遼太郎に刀の様な牙が振り下ろされようとした瞬間、
「させない……」
キーン。
固い金属と金属が触れ合った甲高い音が響き渡る。一瞬遅れて、衝撃が風となり、遼太郎の隣を駆け抜けていく。
遼太郎とバケモノとの間に一つの影が舞い降りていた。
(助かった……のか?)
化物の前に躍り出た人影は、大牙を水平に構えた刀で受け止めていた。
腰までかかる長くたおやかな黒髪は、色を失った世界では輝いて見えた。服装は、制服のクリーム色のブレザーに茶色のプリッツスカート。それは遼太郎が通う北陽高校の制服だった。そして、その後ろ姿には見覚えがある。
「宍戸なのか……?」
今、自分を助けてくれた女子生徒はクラスメイト、宍戸桐音だった。美人だが無口で、いつも無愛想に表情を固めている、そんな生徒だ。遼太郎には、一度も会話を交わした覚えが無い。いつも、教室の自分の席で本を読んでいるか、どこかに消えている。誰かと仲良く会話をしている所を見た事が無い。そんなどこのクラスにも一人は居る、ただの大人しい少女だと思っていた。
そんな彼女が、今、バケモノに臆することなく対峙している。
彼女に一撃を受け止められ、化物は後ろに飛びずさる。グルルと喉を鳴らし、頭を下げ、姿勢を低くする。あれはきっと攻撃の為の構え。
遼太郎が何の言葉も発することができない内に、大犬は再び彼女に飛びかかった。
「危ない!」
遼太郎がようやく叫び声を捻りだした時には既に決着がついていた。
地面に力無く横たわるバケモノの姿。目にも止まらぬとはこの事だろうか。彼女は、飛びかかってきたバケモノを一瞬でねじ伏せたのだ。遼太郎には、その瞬間を把握する事すら出来なかった。
そして、バケモノの身体は紅い霧の様な物を発しながら消えていく。そして、その紅い霧は彼女の方へと収束していき、消えて行った。
次の瞬間、世界は色を取り戻していた。
周囲を見渡すといつもの帰り道。遠くから聞こえる車の排気音。子供のはしゃぐ声。見上げれば太陽に染め上げられた赤色の空。色を取り戻した周りの家々も、公園も何一つ変わることなく元の場所に存在していた。
ようやく、遼太郎は自分が日常に回帰出来た事を認識した。
その瞬間、力が抜け、地面にへたりこんでしまう。全身からどっと汗が吹き出し、身体がぶるりと震える。そうなって自分の精神がかなりの極限状態まで追い込まれていた事を客観的に認識する。
自分は確かに恐怖に飲み込まれていた。命の危機というものをこうまではっきりと認識したのは、生まれてこの方、初めてのことだった。そして、そんな思いを振り切る為に、震える声をからからに乾いた喉元から捻りだす。
「あっぶねー! マジに死ぬかと思った!」
いや、事実、本当に危ない所だったのだろう。もし、宍戸桐音が来てくれて居なかったら間違いなく自分は殺されていただろう。
「ありがとな、宍戸……って、あれ?」
今まで目の前に居たはずの宍戸はどこにも居なかった。まさに一瞬で消えてしまったのだ。そして、改めて周囲を見渡す。この場所にバケモノが居たという痕跡は何も残されてはいない。平和そのものの日常風景だ。強いて言うなら何でもないこんな場所でへたり込む遼太郎だけが異質な存在として、世界から取り残されていた。
「おかしいな……」
まさか今までのは夢だった? 白昼夢とかいう奴なのか……?
いや、今の化物は幻なんかじゃなかった。それは確かだ。あの威圧感、存在感。あれが単なる勘違いや妄想の類であるはずが無い。
では、宍戸桐音の存在は……? あれは本当に宍戸だったのだろうか。似た別の誰か。いや、いくらなんでもクラスメイトを見間違えたりはしないだろう。しかし、そうなるとあの大人しい桐音が化物を倒したという事になる。果たしてそんなことが可能なのだろうか。
「だーっ! めんどくせえ!」
遼太郎は、もっともシンプルな方法を取る事にした。
明日、宍戸に聞いてみよう。俺をバケモノから助けてくれたか、と。
まさに今、瀬戸川遼太郎の平凡な日常は終わろうとしていた。
遼太郎は、取り立てて勉強ができる訳でもなければ、スポーツの才があるわけでもない。なんとなく高校に通い、なんとなく授業を受け、ただ漫然と日々を過ごしていく、どこにでも居る普通の高校生。今だっていつもと何一つ変わらない放課後のはずだった。
周囲は異様な空間に様変わりしていた。
世界が色を失っていた。
まるでモノクロ写真の様に、白と黒の二色だけで構成された光景。青々と茂る木々も、夕焼けに燃える空も、何もかもが灰色に様変わりしている。ごく普通の閑静な住宅街。家から感じられる生活の気配、それがすっぽりと抜け落ちてしまっている。生命の息吹の感じられない死の世界。まるで世界は停止してしまったようだった。
それだけでも異常な状況なのは間違いない。だが、そんな事よりもはっきりとわかる異常が眼前にそびえ立っていた。
それは獣。
「なんなんだよ、このバケモノは……!」
遼太郎の目の前には、数メートルを超す四足の化物が屹立していた。
一見すると犬の様な形をしているが、人間が見上げなければならないほど巨大な犬が居るはずが無い。棘の様に逆立つ銀の体毛。口から飛び出すほどの大牙。その鋭さはまるで刀。あんな口に噛みつかれたらただでは済まない。その口からだらだらと垂らす涎も、より一層の不気味さとおどろおどろしさを醸し出している。
何よりもその大犬の眼は、明らかに異常だった。赤くぎらつく眼光。目の前に居る者、何もかもを薙ぎ払い、喰らい尽くそうとする獰猛な意志。疑いようもない狂気が、そこにはあった。
遼太郎は、立ち向かう事も、逃げ出す事もできず、ただ茫然と立ち尽くしている。
動かないと不味い事は解っている。でも身体が言う事を聞かないのだ。まるで身体が石に変わってしまった様だ。人間は本当の緊急事態には何もできなくなる。蛇に睨まれた蛙とはこういう状況の事を言うのだろうか。
(動け、俺の身体……!)
ドクン。心臓が大きく跳ねる音を、確かに聞いた。
「ちく……しょうが!」
遼太郎が叫ぶ事で無理矢理に固まった身体を動かしたのと、怪物が動きだしたのは、ほぼ同時だった。
(やられる……!)
遼太郎に刀の様な牙が振り下ろされようとした瞬間、
「させない……」
キーン。
固い金属と金属が触れ合った甲高い音が響き渡る。一瞬遅れて、衝撃が風となり、遼太郎の隣を駆け抜けていく。
遼太郎とバケモノとの間に一つの影が舞い降りていた。
(助かった……のか?)
化物の前に躍り出た人影は、大牙を水平に構えた刀で受け止めていた。
腰までかかる長くたおやかな黒髪は、色を失った世界では輝いて見えた。服装は、制服のクリーム色のブレザーに茶色のプリッツスカート。それは遼太郎が通う北陽高校の制服だった。そして、その後ろ姿には見覚えがある。
「宍戸なのか……?」
今、自分を助けてくれた女子生徒はクラスメイト、宍戸桐音だった。美人だが無口で、いつも無愛想に表情を固めている、そんな生徒だ。遼太郎には、一度も会話を交わした覚えが無い。いつも、教室の自分の席で本を読んでいるか、どこかに消えている。誰かと仲良く会話をしている所を見た事が無い。そんなどこのクラスにも一人は居る、ただの大人しい少女だと思っていた。
そんな彼女が、今、バケモノに臆することなく対峙している。
彼女に一撃を受け止められ、化物は後ろに飛びずさる。グルルと喉を鳴らし、頭を下げ、姿勢を低くする。あれはきっと攻撃の為の構え。
遼太郎が何の言葉も発することができない内に、大犬は再び彼女に飛びかかった。
「危ない!」
遼太郎がようやく叫び声を捻りだした時には既に決着がついていた。
地面に力無く横たわるバケモノの姿。目にも止まらぬとはこの事だろうか。彼女は、飛びかかってきたバケモノを一瞬でねじ伏せたのだ。遼太郎には、その瞬間を把握する事すら出来なかった。
そして、バケモノの身体は紅い霧の様な物を発しながら消えていく。そして、その紅い霧は彼女の方へと収束していき、消えて行った。
次の瞬間、世界は色を取り戻していた。
周囲を見渡すといつもの帰り道。遠くから聞こえる車の排気音。子供のはしゃぐ声。見上げれば太陽に染め上げられた赤色の空。色を取り戻した周りの家々も、公園も何一つ変わることなく元の場所に存在していた。
ようやく、遼太郎は自分が日常に回帰出来た事を認識した。
その瞬間、力が抜け、地面にへたりこんでしまう。全身からどっと汗が吹き出し、身体がぶるりと震える。そうなって自分の精神がかなりの極限状態まで追い込まれていた事を客観的に認識する。
自分は確かに恐怖に飲み込まれていた。命の危機というものをこうまではっきりと認識したのは、生まれてこの方、初めてのことだった。そして、そんな思いを振り切る為に、震える声をからからに乾いた喉元から捻りだす。
「あっぶねー! マジに死ぬかと思った!」
いや、事実、本当に危ない所だったのだろう。もし、宍戸桐音が来てくれて居なかったら間違いなく自分は殺されていただろう。
「ありがとな、宍戸……って、あれ?」
今まで目の前に居たはずの宍戸はどこにも居なかった。まさに一瞬で消えてしまったのだ。そして、改めて周囲を見渡す。この場所にバケモノが居たという痕跡は何も残されてはいない。平和そのものの日常風景だ。強いて言うなら何でもないこんな場所でへたり込む遼太郎だけが異質な存在として、世界から取り残されていた。
「おかしいな……」
まさか今までのは夢だった? 白昼夢とかいう奴なのか……?
いや、今の化物は幻なんかじゃなかった。それは確かだ。あの威圧感、存在感。あれが単なる勘違いや妄想の類であるはずが無い。
では、宍戸桐音の存在は……? あれは本当に宍戸だったのだろうか。似た別の誰か。いや、いくらなんでもクラスメイトを見間違えたりはしないだろう。しかし、そうなるとあの大人しい桐音が化物を倒したという事になる。果たしてそんなことが可能なのだろうか。
「だーっ! めんどくせえ!」
遼太郎は、もっともシンプルな方法を取る事にした。
明日、宍戸に聞いてみよう。俺をバケモノから助けてくれたか、と。