第5話 余りにもありふれた好意の提示
文字数 2,373文字
長い時間が経ち、ようやく桐音は落ち着きを取り戻していた。いつの間にか、世界も色を取り戻している。『転界』が解けたのだ。
「病院に行かなくてもいいのか?」
今は、遼太郎のブレザーをはおる事で両腕が無い事を誤魔化している。だが、これだけの重傷だ。病院で治療を受けるべきなのではないだろうか。
「私の再生力は並じゃない。腕くらいなら一晩寝れば生えてくる」
「すげえな……」
さっきまでの戦闘が嘘の様に周囲の住宅街には何の痕跡も残されていない。青い炎に焼かれた地面や塀も元の通りだし、桐音の赤い血液だって残っていない。
「『転界』は疑似的に作り上げられた異世界。言うなれば精巧に作られた張りぼて。だから、そこで物が壊れても現実には影響しない。もちろん、内部に引きずり込まれた人や物は別だけど」
遼太郎は今もっと聞いておかねばならない事がある事に気がついた。
「どうして二日も続けて俺が狙われたんだ?」
昨日の桐音の話では、妖怪に襲われるなんて言う事は一生に一度あるかないか。流石に二日続けてというのは異常なのではないだろうか。
「……わからない」
桐音は応える。
「貴方には何か妖怪を惹きつける理由があるのかもしれない」
「宍戸にもわからないのか……」
「何か心当たりはない……? 最近、起きた妙なこととか……」
遼太郎は頭を働かせ、記憶を掘り起こす。そして、ある一点にそれは収束した。
「ストーカー……」
「え?」
「最近、俺の下駄箱に妙な手紙が入ってるんだ……」
遼太郎は桐音に手紙を見せ、経緯を簡単に説明する。
「これが理由かは……わからない。一度調べて見るけど……」
何が理由にせよ、こう毎日襲われては命がいくつあっても足りない。
「とりあえず、電話番号を交換しておきましょう。『転界』に囚われた時に通じるかどうかは微妙だけど無いよりはましだから」
桐音曰く、電波は『転界』の内部まで電波が届くこともあれば、届かないこともあるらしい。しかし、無いよりは確実にましだろう。
桐音は胸から生えた手で器用にピンク色のスマートフォンを操り、遼太郎と電話番号を交換した。
「意外に可愛いスマフォだな」
「………………」
やはり、桐音は眉一つ動かさない。先程の号泣が嘘の様に、また表情をがちがちに固めてしまっている。
電話番号を交換すると桐音は俄かに顔を伏せる。そして、言った。
「一つだけ、頼みがある……」
「一つと言わず、いくらでもしてくれ! なんたって二度も命を救ってもらったからな!」
それは本心だった。たとえ、どんな理不尽な要求であったとしても呑もう。遼太郎はそう考えていた。
「その……あの……」
どこか歯切れの悪い物言いで、言葉を濁す桐音。
「なんだ、何でも言ってくれ」
「あの……できたらでいいんだけど……」
そして、桐音は何故だか恥ずかしそうに声を潜めて言った。
「苗字じゃなく名前で呼んでほしい……」
「名前で?」
それは予想もしていなかった要求だった。
「『宍戸』って苗字は好きじゃない。『宍』という漢字には『肉』という意味があり、さっき私が使っていた能力を示した名。だから、あまり好きじゃない……」
彼女は自分の力の事を忌避しているようだった。ならば、それを暗に示しているという苗字は好きにはなれないのだろう。
「そう、あくまで苗字が嫌いだから下の名前で呼んでほしいのであって、それ以外の理由はないから……」
「何を言ってるのかよくわからないが……桐音って呼べばいいのか?」
「無理にとは言わないけど……」
「そんな事でいいならお安い御用さ、桐音」
ほんの少しだけ気恥かしい思いが無いでもなかったが、こんなことでも桐音が救われるなら、喜んでやろうと思える。
桐音は落ち着きなく視線をさまよわせ、頬に朱を差して呟く。
「それから、私も貴方の事を、りょ、遼太郎君と呼んでいい……?」
(なん……だと……?)
正直に言うと、遼太郎は興奮した。
自分が桐音の名前を呼ぶことには、然したる動揺もなかったが、女子(しかも美少女。ここは重要である)に苗字やあだ名ではなく下の名前で呼ばれることが、こんなにも精神を高揚させるものであることを、遼太郎は初めて知った。
(お、落ち着くんだ……)
遼太郎は内心の興奮と動揺を悟られない様に、いつも以上におどけて言った。
「いいぜ! 『遼太郎』でも『りょう君』でも『太郎君』でも『クソ犬』でも、好きな様に呼んでくれ!」
「……いや、遼太郎君で」
やはり、桐音はにこりともしなかった。
それだけ言うと桐音は唐突に遼太郎に背を向け、足早に歩きだす。それを見て遼太郎は慌てて言う。
「送ってくぜ」
「……大丈夫、一人で帰れる」
「でも……」
流石に両腕を失った女の子を一人で帰すというのは、躊躇われた。
瞬間、桐音の姿は掻き消えていた。慌てて辺りを見渡すと数十メートル先に桐音の背中が見えた。やはり、人間離れした膂力。あれだけ動けるなら心配はいらないだろう。
「また、学校でな! 桐音!」
遼太郎は叫んで手を振った。
桐音はちらりと遼太郎の方を見たが、何も言わず、その場を後にした。
桐音には二度も助けられた。そして、これからも同じ様なことがあるかもしれない。
これは大きな借りだ。命を助けられるということ以上の借りがあろうはずもない。それを返済する為にはどんな小さなことでもやらねばならない。
もしも、自分の行動で桐音が救われる事が少しでもあるのならば、どんな事でもしてやりたいと、遼太郎は心から思うのであった。
「病院に行かなくてもいいのか?」
今は、遼太郎のブレザーをはおる事で両腕が無い事を誤魔化している。だが、これだけの重傷だ。病院で治療を受けるべきなのではないだろうか。
「私の再生力は並じゃない。腕くらいなら一晩寝れば生えてくる」
「すげえな……」
さっきまでの戦闘が嘘の様に周囲の住宅街には何の痕跡も残されていない。青い炎に焼かれた地面や塀も元の通りだし、桐音の赤い血液だって残っていない。
「『転界』は疑似的に作り上げられた異世界。言うなれば精巧に作られた張りぼて。だから、そこで物が壊れても現実には影響しない。もちろん、内部に引きずり込まれた人や物は別だけど」
遼太郎は今もっと聞いておかねばならない事がある事に気がついた。
「どうして二日も続けて俺が狙われたんだ?」
昨日の桐音の話では、妖怪に襲われるなんて言う事は一生に一度あるかないか。流石に二日続けてというのは異常なのではないだろうか。
「……わからない」
桐音は応える。
「貴方には何か妖怪を惹きつける理由があるのかもしれない」
「宍戸にもわからないのか……」
「何か心当たりはない……? 最近、起きた妙なこととか……」
遼太郎は頭を働かせ、記憶を掘り起こす。そして、ある一点にそれは収束した。
「ストーカー……」
「え?」
「最近、俺の下駄箱に妙な手紙が入ってるんだ……」
遼太郎は桐音に手紙を見せ、経緯を簡単に説明する。
「これが理由かは……わからない。一度調べて見るけど……」
何が理由にせよ、こう毎日襲われては命がいくつあっても足りない。
「とりあえず、電話番号を交換しておきましょう。『転界』に囚われた時に通じるかどうかは微妙だけど無いよりはましだから」
桐音曰く、電波は『転界』の内部まで電波が届くこともあれば、届かないこともあるらしい。しかし、無いよりは確実にましだろう。
桐音は胸から生えた手で器用にピンク色のスマートフォンを操り、遼太郎と電話番号を交換した。
「意外に可愛いスマフォだな」
「………………」
やはり、桐音は眉一つ動かさない。先程の号泣が嘘の様に、また表情をがちがちに固めてしまっている。
電話番号を交換すると桐音は俄かに顔を伏せる。そして、言った。
「一つだけ、頼みがある……」
「一つと言わず、いくらでもしてくれ! なんたって二度も命を救ってもらったからな!」
それは本心だった。たとえ、どんな理不尽な要求であったとしても呑もう。遼太郎はそう考えていた。
「その……あの……」
どこか歯切れの悪い物言いで、言葉を濁す桐音。
「なんだ、何でも言ってくれ」
「あの……できたらでいいんだけど……」
そして、桐音は何故だか恥ずかしそうに声を潜めて言った。
「苗字じゃなく名前で呼んでほしい……」
「名前で?」
それは予想もしていなかった要求だった。
「『宍戸』って苗字は好きじゃない。『宍』という漢字には『肉』という意味があり、さっき私が使っていた能力を示した名。だから、あまり好きじゃない……」
彼女は自分の力の事を忌避しているようだった。ならば、それを暗に示しているという苗字は好きにはなれないのだろう。
「そう、あくまで苗字が嫌いだから下の名前で呼んでほしいのであって、それ以外の理由はないから……」
「何を言ってるのかよくわからないが……桐音って呼べばいいのか?」
「無理にとは言わないけど……」
「そんな事でいいならお安い御用さ、桐音」
ほんの少しだけ気恥かしい思いが無いでもなかったが、こんなことでも桐音が救われるなら、喜んでやろうと思える。
桐音は落ち着きなく視線をさまよわせ、頬に朱を差して呟く。
「それから、私も貴方の事を、りょ、遼太郎君と呼んでいい……?」
(なん……だと……?)
正直に言うと、遼太郎は興奮した。
自分が桐音の名前を呼ぶことには、然したる動揺もなかったが、女子(しかも美少女。ここは重要である)に苗字やあだ名ではなく下の名前で呼ばれることが、こんなにも精神を高揚させるものであることを、遼太郎は初めて知った。
(お、落ち着くんだ……)
遼太郎は内心の興奮と動揺を悟られない様に、いつも以上におどけて言った。
「いいぜ! 『遼太郎』でも『りょう君』でも『太郎君』でも『クソ犬』でも、好きな様に呼んでくれ!」
「……いや、遼太郎君で」
やはり、桐音はにこりともしなかった。
それだけ言うと桐音は唐突に遼太郎に背を向け、足早に歩きだす。それを見て遼太郎は慌てて言う。
「送ってくぜ」
「……大丈夫、一人で帰れる」
「でも……」
流石に両腕を失った女の子を一人で帰すというのは、躊躇われた。
瞬間、桐音の姿は掻き消えていた。慌てて辺りを見渡すと数十メートル先に桐音の背中が見えた。やはり、人間離れした膂力。あれだけ動けるなら心配はいらないだろう。
「また、学校でな! 桐音!」
遼太郎は叫んで手を振った。
桐音はちらりと遼太郎の方を見たが、何も言わず、その場を後にした。
桐音には二度も助けられた。そして、これからも同じ様なことがあるかもしれない。
これは大きな借りだ。命を助けられるということ以上の借りがあろうはずもない。それを返済する為にはどんな小さなことでもやらねばならない。
もしも、自分の行動で桐音が救われる事が少しでもあるのならば、どんな事でもしてやりたいと、遼太郎は心から思うのであった。