第4話 一度ある事は二度ある
文字数 5,029文字
食堂で一緒に食事をした後、桐音は言っていた。
「一般人が、妖怪に襲われるなんていう事は一生に一度あるかどうかよ」
昨日の妖怪は桐音が倒した。だから、完全に油断していたのだ。
「二日連続かよ……」
放課後、遼太郎の前に現れた影。
妖怪。
今度は、狐を大きくしたような妖怪だった。明らかに普通の狐ではない証拠に、大きな尻尾の先には青い炎が灯っている。漫画や映画の中でしか見た事が無い人魂を思い出す。この世のものとは思えない禍々しい炎だった。見ているだけで魂を鷲掴みにするような根源的な恐怖が身体の芯まで響いてくる。
そして、その狐の目は昨日の『送り犬』と同じく、目の前に居る何もかもを薙ぎ払わんとする狂気に支配されていた。
周囲の家も車もゴミ捨て場も、昨日と同じく色を失っている。これは『転界』という奴だろう。
昨日より身体は動いてくれた。後ずさりして距離を取る。
グルルと喉を鳴らす化け狐。尻尾に灯った炎が槍の様な形に収束していくのを見てとり、遼太郎はなり振りを構わず、後ろに飛びずさる。
先程まで遼太郎が居た空間にその槍は振り下ろされた。激しい熱波が広がり、遼太郎は吹き飛ばされる。
「うおおおおおおっ!」
華麗な回避からは程遠い。遼太郎は衝撃で無様に地面を転がりまわった。
直撃はなんとか避けた。しかし、その炎の余波だけで全身が火傷しそうなほどの熱量が感じられた。炎の槍が振り下ろされた地面を見る。コンクリートはドロドロに溶けて液体状になっていた。しかも、青い炎によってコンクリートが燃えている。コンクリートを燃やしている事が、あの青い炎に、単なる巨大な炎以上の性質がある事を示している。
(当たれば一発でアウトだ!)
ともかく、距離を取る為に遼太郎は化け狐に背を向けて走り出す。
しかし、次の瞬間、遼太郎の眼前が青い炎で覆い尽くされる。遼太郎の逃げ道を塞ぐように炎を発射したのだ。妖怪は知能が高いという話を思い出す。これでは、次の攻撃は絶対に避けられない。
「ちくしょう! 何かねえのか!」
周囲を見渡してもゴミ捨て場しかなく、そこにもあの炎を防げそうな物など見つからない。炎が燃え移っていない周囲の民家の塀を越えて逃げるしかない。
だが、それも罠だったのだろうか。
炎が途切れていた方向に走り出した途端、そこに向かって炎の槍が飛んできた。
(これは避けられない……!)
瞬間、遼太郎は昨日と同じ背中を見た。
遼太郎の目の前には桐音が立っていた。
「宍戸!」
桐音の手には円形の大きな盾の様な物が握られており、その盾は青い炎で燃えていた。
「ちっ!」
次の瞬間、その盾は消え失せた。違う。正確にはどろりと溶け、紅い粘性の高い液状の物体へと変化した。その液体はまるで柔らかい粘土の様にも見えた。
そして、液状の物は桐音の腕の形へと変わった。
「え?」
彼女の右腕は青い炎で燃えていた。
「……すこし気持ち悪い事するから見ない方がいいと思うよ」
それだけ言うと、桐音は今度は燃えていない方の左手を頭上に掲げる。
左手から紅い液体が流れ出し、それは刀の形に変貌した。彼女はそれを左手にしっかりと握る。しかし、よくよく見ればその刀は細い糸状の物で桐音の左手と繋がっていた。
(身体を武器に変えられるのか?)
無論、仕組みだとか理論なんかは想像もつかない。しかし、目の前に居る化け狐が青い炎を噴き出すという現実の前で、科学に乗っ取った理論を考える事など何の役にも立たない。
昨日、『送り犬』を倒した時の刀も、もしかしたら彼女の身体の一部だったのだろうか。そんな事を考えていると、彼女は驚くべき行動に出た。
左手を変化させた刀を、燃え盛る自らの右手に振り下ろしたのだ。
右手は、断ち切られ宙を舞った。
「宍戸! 何を……!」
桐音はそんな状況であってもいつもの仏頂面のままだった。しかし、その顔色は悪い。
「あれは『狐火』って言われる『消えない炎』。あの炎を消す力は私にはない。全身に燃え広がる前に身体から切り離さないと……。大丈夫、私の身体は特殊だからまた生えてくる」
しかし、そう言う彼女の声は震え、額には脂汗が滲んでいるのが見てとれる。やはり、無理をしているのだ。
「でも……」
「ごめん、気持ち悪い所見せちゃって。でもその分、あの妖怪はしっかり倒すから……」
無くなった右手の部分から大量の血を流しながら桐音は化け狐に対峙する。
「昨日ほどは楽な相手じゃない。たぶん、もっと気持ち悪い戦い方をする事になる。……見たくなければ目を背けていて」
背中を向けたまま、話す桐音の表情は解らなかった。
右手を無くし、大量の血を流す桐音の姿はあまりにも痛々しく直視しがたいものだった。思わず遼太郎は目を瞑ってしまう。ただの男子高校生が腕を断ち切られ大量出血した人体を平気で見ていられる方がおかしい。余りのショックに胃の内容物がせぐりあげてくる。
(根性見せろよ……!)
しかし、遼太郎はすぐに目を見開いた。吐き気は必死に抑え込んだ。目を逸らしては駄目だと思った。目を瞑っていたことで、避けられる一撃を避けられなければ話にならない。なにより自分を救うために血を流してくれている桐音の姿から目を逸らすなどということが許されるはずが無い。遼太郎は彼女の一挙手一投足を目に焼き付けんとした。
左手の一部を変化させた刀を構え、桐音は化け狐に向かって突っ込んでいく。
化け狐の炎を紙一重で避けながら、桐音は刀を振り下ろしていく。化け狐は巨体に似合わぬ俊敏さで動く。化け狐、桐音、互いの攻撃は当たらない。青き炎が躍る様に舞う。まるで、演武の様な軽やかさ。これが命のやり取りでなければ、美しいとすら感じていたかもしれない。
しかし、その均衡は長くは続かない。片腕のない桐音の方が手数は少なく、少しずつ追い詰められていく。
そして遂に、化け狐の鋭い爪が彼女の左手に直撃する。
その凶器は彼女の左腕を完全に断ち切った。彼女の左腕は投げられた棒きれの様に空を舞う。一瞬、遅れて彼女の身体から大量の鮮血がほとばしる。
「ぐっ……!」
桐音は、思わず声を漏らし、本当に僅かだが眉を顰める。さしもの桐音もこの一撃には顔を歪めずにはいられなかったようだった。
一撃をまともにくらった彼女の左手は、跡形もない。両腕を失った彼女に反撃する術は無くなった。
「宍戸!」
それを好機と見たのか、化け狐は踊り上がり、桐音を組み伏せる。
あれではもうどうしようもない。
(ちくしょう! 俺がなんとかしないと!)
しかし、遼太郎は恐怖していた。戦いていた。意志に反して、身体が何の反応もしてくれない。
動け!
どれだけの意志の力を込めても、硬直しきった身体は動かない。
今動かねばいつ動くのか。
何もしなければ確実に後悔する。
だが、意志に反してやはり何の行動も起こせない。
「くっそがぁぁぁぁっ!」
遼太郎は自分の無力さを呪った。
そして、鋭い牙が彼女につきたてられようとした瞬間だった。
「え?」
遼太郎は自分が見ている光景が信じられなかった。この二日間、遼太郎の常識は幾度となく塗りかえられた。今ならどんな事があっても驚かないし、信じられると思っていた。だが、眼前の光景はそんな遼太郎の想像を尚も越えていた。
刀が化け狐の額を貫いていた。
化け狐の目が驚きに見開かれる。額を貫かれた化け狐は傷口から大量の血を噴き出し、そして、化け狐の身体は霧の様に消え去っていく。その赤い霧は桐音の方へと吸い込まれ、消えて行く。
桐音は両腕を吹き飛ばされていたはずだった。刀を突き立てる事などできるはずが無い。
倒された化け狐の霧が消え去ったとき、遼太郎は一瞬我が目を疑った。
それは余りにも異様な光景だった。
あくまで一般人に過ぎない遼太郎には、桐音の両腕が千切れ飛び、血を噴き上げる姿だけで卒倒するのを堪えるのがやっとだった。しかし、今目の前で起こっている出来事は、そんなことが目でもないくらいの圧倒的な異常だった。
桐音の胸の真ん中から三本目の腕が生えていた。
血で真っ赤に染まった制服のシャツを突き破る様にして第三の腕とでも呼ぶべき腕があった。その腕は血に塗れてこそいたが、どこか鮮烈さをも感じさせる生命感に満ち溢れていた。
その腕が刀を握り、化け狐の額を貫いたのだった。
その光景に思わず息を詰める。荒くなる呼吸を押さえながら、遼太郎は問いかける。
「おまえ……その身体……」
「あの炎で焼かれた場所を修復するには時間が足りなかったから……こうするしかなかった」
血に塗れた彼女の顔はいつもの無愛想な無表情。だが、そこに、何かを諦めた様な感情を、遼太郎は確かに見出した。
「私の身体は自分の意志で自由に改造できる……身体の一部を刀や盾に変える事も、何本も腕を生やす事も、肥大化させる事だって可能だわ。これが宍戸家に伝わる『血肉』の秘術……」
擦り切れた声で、彼女は続ける。
「さっきの妖怪なんかより、私の方がよっぽど化物よね……無理もない。この姿を見たら誰だってそう思う」
両腕を無くし、胸の真ん中から腕を生やした異形の存在。それは到底、人間には見えない。まさに化物としか言いようが無い。
でも――
「カッコイイぜ!」
遼太郎はそう叫んでいた。
「おまえは最高にカッコイイ! なぜならおまえは人を助ける正義の味方だからだ!」
遼太郎は心の底から叫び続ける。
遼太郎は桐音が倒れたとき、なんとかして助けたいと思った。しかし、身体はピクリとも動かなかった。
人を守る為に化物と戦う。
それは漫画やアニメなら擦り切れるほど使い古された設定だろう。特別な力を持った正義の味方は、迫り来る悪から皆を助けるのだ。
だが、それはそんな言葉で語れるほど簡単なことではない。事実、遼太郎はバケモノを目の前にして何もすることはできなかった。それは遼太郎が何か特別な力を持っていたとしても同じだっただろう。本質的な問題は力のある無しではなく、それを振るう勇気を持っているかどうかなのだ。
桐音はその勇気を持っていた。自分を助けるためにバケモノの前に立ってくれた。
それが最高にカッコよくて、憧れた。
「もし、おまえが来てくれなかったら俺はさっきの狐に殺されていただろう。だから、たとえおまえ自身が自分自身をバケモノだと思ったとしても俺はおまえをカッコイイと思い続ける! 俺にそう思わせるだけの事を、おまえはしてくれた!」
遼太郎は、桐音の傍まで近付いていく。
そして、胸の真ん中から突き出た手を握って助け起こしながら言った。
「ありがとう、俺を助けてくれて」
握った手はなんていう事はない普通の女の子の手だった。絶対にバケモノの手なんかじゃない。
遼太郎は桐音の鉄面皮の向こう側にある悲しみを確かに見つけた。遼太郎は命の恩人である桐音にそんな気持ちを抱かせたくなかった。だから、拙くても、ぎこちなくても、彼女を肯定してやりたかった。
「あ……」
桐音は目を見開いている。
「私の事、気持ち悪くないの……?」
「悪くねえ!」
「バケモノだって思わない……?」
「思う訳ねえ!」
「本当に……?」
「本当に決まってる!」
桐音の固い仮面が少しずつ剥がれ落ちていく。大きくて綺麗な目がうるみ、唇が小さくわななく。頬に赤みが差し、ひくひくと震え始める。
そして、震える声で呟く。
「……今って涙流していいんだよね……それが普通なんだよね……」
いつの間にか、桐音の目からは大粒の涙が溢れだしていた。それは次々溢れだし、止まりそうもない。
「ああ、泣けよ……泣いていいんだ」
「うわあああっ!」
桐音は、顔をくしゃくしゃに歪め、遼太郎の胸に飛び込んだ。遼太郎はそれを不器用に受け止めた。桐音はまるで子供の様に声を上げて泣き続けた。
「一般人が、妖怪に襲われるなんていう事は一生に一度あるかどうかよ」
昨日の妖怪は桐音が倒した。だから、完全に油断していたのだ。
「二日連続かよ……」
放課後、遼太郎の前に現れた影。
妖怪。
今度は、狐を大きくしたような妖怪だった。明らかに普通の狐ではない証拠に、大きな尻尾の先には青い炎が灯っている。漫画や映画の中でしか見た事が無い人魂を思い出す。この世のものとは思えない禍々しい炎だった。見ているだけで魂を鷲掴みにするような根源的な恐怖が身体の芯まで響いてくる。
そして、その狐の目は昨日の『送り犬』と同じく、目の前に居る何もかもを薙ぎ払わんとする狂気に支配されていた。
周囲の家も車もゴミ捨て場も、昨日と同じく色を失っている。これは『転界』という奴だろう。
昨日より身体は動いてくれた。後ずさりして距離を取る。
グルルと喉を鳴らす化け狐。尻尾に灯った炎が槍の様な形に収束していくのを見てとり、遼太郎はなり振りを構わず、後ろに飛びずさる。
先程まで遼太郎が居た空間にその槍は振り下ろされた。激しい熱波が広がり、遼太郎は吹き飛ばされる。
「うおおおおおおっ!」
華麗な回避からは程遠い。遼太郎は衝撃で無様に地面を転がりまわった。
直撃はなんとか避けた。しかし、その炎の余波だけで全身が火傷しそうなほどの熱量が感じられた。炎の槍が振り下ろされた地面を見る。コンクリートはドロドロに溶けて液体状になっていた。しかも、青い炎によってコンクリートが燃えている。コンクリートを燃やしている事が、あの青い炎に、単なる巨大な炎以上の性質がある事を示している。
(当たれば一発でアウトだ!)
ともかく、距離を取る為に遼太郎は化け狐に背を向けて走り出す。
しかし、次の瞬間、遼太郎の眼前が青い炎で覆い尽くされる。遼太郎の逃げ道を塞ぐように炎を発射したのだ。妖怪は知能が高いという話を思い出す。これでは、次の攻撃は絶対に避けられない。
「ちくしょう! 何かねえのか!」
周囲を見渡してもゴミ捨て場しかなく、そこにもあの炎を防げそうな物など見つからない。炎が燃え移っていない周囲の民家の塀を越えて逃げるしかない。
だが、それも罠だったのだろうか。
炎が途切れていた方向に走り出した途端、そこに向かって炎の槍が飛んできた。
(これは避けられない……!)
瞬間、遼太郎は昨日と同じ背中を見た。
遼太郎の目の前には桐音が立っていた。
「宍戸!」
桐音の手には円形の大きな盾の様な物が握られており、その盾は青い炎で燃えていた。
「ちっ!」
次の瞬間、その盾は消え失せた。違う。正確にはどろりと溶け、紅い粘性の高い液状の物体へと変化した。その液体はまるで柔らかい粘土の様にも見えた。
そして、液状の物は桐音の腕の形へと変わった。
「え?」
彼女の右腕は青い炎で燃えていた。
「……すこし気持ち悪い事するから見ない方がいいと思うよ」
それだけ言うと、桐音は今度は燃えていない方の左手を頭上に掲げる。
左手から紅い液体が流れ出し、それは刀の形に変貌した。彼女はそれを左手にしっかりと握る。しかし、よくよく見ればその刀は細い糸状の物で桐音の左手と繋がっていた。
(身体を武器に変えられるのか?)
無論、仕組みだとか理論なんかは想像もつかない。しかし、目の前に居る化け狐が青い炎を噴き出すという現実の前で、科学に乗っ取った理論を考える事など何の役にも立たない。
昨日、『送り犬』を倒した時の刀も、もしかしたら彼女の身体の一部だったのだろうか。そんな事を考えていると、彼女は驚くべき行動に出た。
左手を変化させた刀を、燃え盛る自らの右手に振り下ろしたのだ。
右手は、断ち切られ宙を舞った。
「宍戸! 何を……!」
桐音はそんな状況であってもいつもの仏頂面のままだった。しかし、その顔色は悪い。
「あれは『狐火』って言われる『消えない炎』。あの炎を消す力は私にはない。全身に燃え広がる前に身体から切り離さないと……。大丈夫、私の身体は特殊だからまた生えてくる」
しかし、そう言う彼女の声は震え、額には脂汗が滲んでいるのが見てとれる。やはり、無理をしているのだ。
「でも……」
「ごめん、気持ち悪い所見せちゃって。でもその分、あの妖怪はしっかり倒すから……」
無くなった右手の部分から大量の血を流しながら桐音は化け狐に対峙する。
「昨日ほどは楽な相手じゃない。たぶん、もっと気持ち悪い戦い方をする事になる。……見たくなければ目を背けていて」
背中を向けたまま、話す桐音の表情は解らなかった。
右手を無くし、大量の血を流す桐音の姿はあまりにも痛々しく直視しがたいものだった。思わず遼太郎は目を瞑ってしまう。ただの男子高校生が腕を断ち切られ大量出血した人体を平気で見ていられる方がおかしい。余りのショックに胃の内容物がせぐりあげてくる。
(根性見せろよ……!)
しかし、遼太郎はすぐに目を見開いた。吐き気は必死に抑え込んだ。目を逸らしては駄目だと思った。目を瞑っていたことで、避けられる一撃を避けられなければ話にならない。なにより自分を救うために血を流してくれている桐音の姿から目を逸らすなどということが許されるはずが無い。遼太郎は彼女の一挙手一投足を目に焼き付けんとした。
左手の一部を変化させた刀を構え、桐音は化け狐に向かって突っ込んでいく。
化け狐の炎を紙一重で避けながら、桐音は刀を振り下ろしていく。化け狐は巨体に似合わぬ俊敏さで動く。化け狐、桐音、互いの攻撃は当たらない。青き炎が躍る様に舞う。まるで、演武の様な軽やかさ。これが命のやり取りでなければ、美しいとすら感じていたかもしれない。
しかし、その均衡は長くは続かない。片腕のない桐音の方が手数は少なく、少しずつ追い詰められていく。
そして遂に、化け狐の鋭い爪が彼女の左手に直撃する。
その凶器は彼女の左腕を完全に断ち切った。彼女の左腕は投げられた棒きれの様に空を舞う。一瞬、遅れて彼女の身体から大量の鮮血がほとばしる。
「ぐっ……!」
桐音は、思わず声を漏らし、本当に僅かだが眉を顰める。さしもの桐音もこの一撃には顔を歪めずにはいられなかったようだった。
一撃をまともにくらった彼女の左手は、跡形もない。両腕を失った彼女に反撃する術は無くなった。
「宍戸!」
それを好機と見たのか、化け狐は踊り上がり、桐音を組み伏せる。
あれではもうどうしようもない。
(ちくしょう! 俺がなんとかしないと!)
しかし、遼太郎は恐怖していた。戦いていた。意志に反して、身体が何の反応もしてくれない。
動け!
どれだけの意志の力を込めても、硬直しきった身体は動かない。
今動かねばいつ動くのか。
何もしなければ確実に後悔する。
だが、意志に反してやはり何の行動も起こせない。
「くっそがぁぁぁぁっ!」
遼太郎は自分の無力さを呪った。
そして、鋭い牙が彼女につきたてられようとした瞬間だった。
「え?」
遼太郎は自分が見ている光景が信じられなかった。この二日間、遼太郎の常識は幾度となく塗りかえられた。今ならどんな事があっても驚かないし、信じられると思っていた。だが、眼前の光景はそんな遼太郎の想像を尚も越えていた。
刀が化け狐の額を貫いていた。
化け狐の目が驚きに見開かれる。額を貫かれた化け狐は傷口から大量の血を噴き出し、そして、化け狐の身体は霧の様に消え去っていく。その赤い霧は桐音の方へと吸い込まれ、消えて行く。
桐音は両腕を吹き飛ばされていたはずだった。刀を突き立てる事などできるはずが無い。
倒された化け狐の霧が消え去ったとき、遼太郎は一瞬我が目を疑った。
それは余りにも異様な光景だった。
あくまで一般人に過ぎない遼太郎には、桐音の両腕が千切れ飛び、血を噴き上げる姿だけで卒倒するのを堪えるのがやっとだった。しかし、今目の前で起こっている出来事は、そんなことが目でもないくらいの圧倒的な異常だった。
桐音の胸の真ん中から三本目の腕が生えていた。
血で真っ赤に染まった制服のシャツを突き破る様にして第三の腕とでも呼ぶべき腕があった。その腕は血に塗れてこそいたが、どこか鮮烈さをも感じさせる生命感に満ち溢れていた。
その腕が刀を握り、化け狐の額を貫いたのだった。
その光景に思わず息を詰める。荒くなる呼吸を押さえながら、遼太郎は問いかける。
「おまえ……その身体……」
「あの炎で焼かれた場所を修復するには時間が足りなかったから……こうするしかなかった」
血に塗れた彼女の顔はいつもの無愛想な無表情。だが、そこに、何かを諦めた様な感情を、遼太郎は確かに見出した。
「私の身体は自分の意志で自由に改造できる……身体の一部を刀や盾に変える事も、何本も腕を生やす事も、肥大化させる事だって可能だわ。これが宍戸家に伝わる『血肉』の秘術……」
擦り切れた声で、彼女は続ける。
「さっきの妖怪なんかより、私の方がよっぽど化物よね……無理もない。この姿を見たら誰だってそう思う」
両腕を無くし、胸の真ん中から腕を生やした異形の存在。それは到底、人間には見えない。まさに化物としか言いようが無い。
でも――
「カッコイイぜ!」
遼太郎はそう叫んでいた。
「おまえは最高にカッコイイ! なぜならおまえは人を助ける正義の味方だからだ!」
遼太郎は心の底から叫び続ける。
遼太郎は桐音が倒れたとき、なんとかして助けたいと思った。しかし、身体はピクリとも動かなかった。
人を守る為に化物と戦う。
それは漫画やアニメなら擦り切れるほど使い古された設定だろう。特別な力を持った正義の味方は、迫り来る悪から皆を助けるのだ。
だが、それはそんな言葉で語れるほど簡単なことではない。事実、遼太郎はバケモノを目の前にして何もすることはできなかった。それは遼太郎が何か特別な力を持っていたとしても同じだっただろう。本質的な問題は力のある無しではなく、それを振るう勇気を持っているかどうかなのだ。
桐音はその勇気を持っていた。自分を助けるためにバケモノの前に立ってくれた。
それが最高にカッコよくて、憧れた。
「もし、おまえが来てくれなかったら俺はさっきの狐に殺されていただろう。だから、たとえおまえ自身が自分自身をバケモノだと思ったとしても俺はおまえをカッコイイと思い続ける! 俺にそう思わせるだけの事を、おまえはしてくれた!」
遼太郎は、桐音の傍まで近付いていく。
そして、胸の真ん中から突き出た手を握って助け起こしながら言った。
「ありがとう、俺を助けてくれて」
握った手はなんていう事はない普通の女の子の手だった。絶対にバケモノの手なんかじゃない。
遼太郎は桐音の鉄面皮の向こう側にある悲しみを確かに見つけた。遼太郎は命の恩人である桐音にそんな気持ちを抱かせたくなかった。だから、拙くても、ぎこちなくても、彼女を肯定してやりたかった。
「あ……」
桐音は目を見開いている。
「私の事、気持ち悪くないの……?」
「悪くねえ!」
「バケモノだって思わない……?」
「思う訳ねえ!」
「本当に……?」
「本当に決まってる!」
桐音の固い仮面が少しずつ剥がれ落ちていく。大きくて綺麗な目がうるみ、唇が小さくわななく。頬に赤みが差し、ひくひくと震え始める。
そして、震える声で呟く。
「……今って涙流していいんだよね……それが普通なんだよね……」
いつの間にか、桐音の目からは大粒の涙が溢れだしていた。それは次々溢れだし、止まりそうもない。
「ああ、泣けよ……泣いていいんだ」
「うわあああっ!」
桐音は、顔をくしゃくしゃに歪め、遼太郎の胸に飛び込んだ。遼太郎はそれを不器用に受け止めた。桐音はまるで子供の様に声を上げて泣き続けた。