第17話 死を思う故に
文字数 3,159文字
その日の夜、遼太郎はとある廃ビルの屋上に立っていた。
そのビルは建て壊しの途中で放棄されていた。理由は知らない。どうでもいいと思った。大事なのは、飛び降りれば助からないだけの高さがあるかどうかだけ。
足元に広がる景色は薄汚れたコンクリートの世界だ。駅からは反対側だから変に目立つということもないだろう。
取り壊し途中であるためにフェンスはない。ここからあと一歩踏み出せば、それだけで遼太郎の身体は空を舞うだろう。
遼太郎は靴を脱ぎ、それを揃えた。
櫻子のことを思い出す。自分は彼女のことを守れなかった。大事な存在であると解っていたのに、警戒を怠った。自分には罪がある。その報いを受けなければならない。
責任を取らなければならない。
頭上には夜空に輝く月があった。あの月がこれから行うことの証人だ。しっかりと見ていてくれ。
そんなことを考え、最期の一歩を踏み出さんと右足を突き出した瞬間、
ドンッ
突如現れた人影に側面から体当たりされる様にして、ビルの屋上に引き戻された。遼太郎は人影に抱き抱えられる様にして、地面に押し倒される。
その直後、遼太郎は素早く動いた。
その人影の手を引き、体勢の上下を入れ替え、押し倒す。まさか遼太郎がこんな行動を取ると予測していなかったのか、人影はあっさりと拘束された。
「やっと、捕まえたぜ、ストーカー!」
時間は遼太郎が事情聴取を受けた直後に遡る。
遼太郎は担任教師に付き添われ自宅へと帰された。事件の処理に追われる担任はそのまま学校へと蜻蛉返りした。
遼太郎の家には元々父親は居なかったし、母親も仕事で海外出張に出掛けており、まだ帰らない。遼太郎は一人、自宅に取り残された。
櫻子の死は自分のせいだと思った。自分がもっとストーカーを警戒していれば、あのとき無理矢理にでも櫻子を家まで送り届けていれば……。あのとき、こうしていれば……そんな後悔が無限の波になって押し寄せ、遼太郎をさらった。遼太郎は後悔の渦の中に呑み込まれ、身動きが取れなくなっていた。
カーテンを締め切り、世界との繋がりを遮断した部屋の隅で、遼太郎は膝を抱えていた。このまま薄暗い闇の中に溶けてしまえたら、そう考えた。
世界は滅びてしまったのだ。自分にとって世界とは、櫻子だった。正義の見方が守る世界はきっと町とか国とか地球とか、途方もない大きさのものだろう。でも、自分はただの人間だ。だったらその両腕届く距離はあまりにも短い。だからこそ、その手が届く範囲の世界は全力で守らなければならなかったのだ。
自分は守ることができなかった。それどころか巻き込んでしまった。
「俺が殺したようなものじゃねえか……」
そうやって口に出すと自分の愚かしさが浮き彫りになる。
もう嫌だった。自分には生きている資格がないと思った。
死のう。
発作的にそんな思いが芽生えたのと部屋の扉が開いたのは同時だった。
そこに立っていたのは桐音だった。ずっと締めきった真っ暗な部屋の中に居た為に、光を運んできた桐音の姿はまぶしく、直視できない。
「遼太郎君のせいじゃない」
桐音はいつもの無表情で言った。
そのことが、無性に遼太郎の癪に触った。何かがカッと燃え上がり、遼太郎の心臓を焼いた。激情の熱は血流を伝わり、腕を、脚を、爆発させていく。遼太郎はもう冷静な判断が下せなくなっていた。
「俺のせいなんだよ!」
遼太郎は桐音を飛び掛かるようにして押し倒す。桐音は抵抗することなく、押し倒される。ドシンと激しい音が鳴る。そんな勢いで押し倒されても桐音はやはり表情を変えようとはしない。
遼太郎は桐音に馬乗りになり、桐音の襟を掴みながら叫ぶ。
「俺がもっとストーカーを警戒していれば、こんなことにはならなかった! 櫻子は死なずに済んだ!」
喉が潰れてしまう程の大声で、遼太郎は自分を否定し続ける。桐音の首元を掴む腕に思わず力が入る。
「……そんなことない」
そんな遼太郎の姿を見ても、やはり桐音は淡々と言う。
いっそ罵って欲しかった。全ておまえのせいだと言って欲しかった。安易な慰めの言葉など傷口をえぐるナイフにしか思えなかった。それなら一太刀で殺してくれた方がずっと楽なのだ。
「殺してくれよ……」
遼太郎はふと手を放し、力無い声で言った。
遼太郎の両の目から溢れだした涙は流れ落ち、桐音の胸元を濡らした。
「死にたいんだ。馬鹿な自分をぶっ殺してやりたいんだよ!」
「そんな事、言わないで!」
桐音は真っ直ぐに遼太郎の目を見据えて叫んだ。その瞳には力強い意志の炎が灯っていた。遼太郎は思わずたじろいだ。
「そんな事、言わないで……お願いだから……」
桐音は、押し倒された体勢のまま、まるで幼子を抱く母親の様に遼太郎の身体を抱きすくめる。遼太郎は力無くそれに身を委ねる。
「言ったよね? 私は遼太郎君に救われた。それが本当に嬉しかったって……」
桐音は遼太郎を温かく包み込みながら続ける。
「私だって、櫻子ちゃんのことは悲しい。……私だって本当に友達だって思ってたから……」
遼太郎は、桐音の身体が震えていることに気がついた。彼女の震えが伝わってくる。
「でも、だからって遼太郎君が死んじゃったら、私はどうしたらいいの……?」
桐音は震える声で言った。
「また、ひとりぼっちになっちゃうよぉ……」
遼太郎は自分の愚かさを改めて思い知った。
俺は馬鹿だ。
事ここに及んでもまだ自分のことしか考えられていなかった。自分以外の人間がどれだけショックだったかということを考えもせず、自分一人だけが落ち込んでいると思い込んでいた。そして、あろうことか桐音に当たってしまったのだ。
自分は桐音の為なら何でもしたいと思っていたのではなかったのか。
桐音のことが好きだと思っていたのではなかったのか。
自分が守らなければならない相手は櫻子だけではない。
櫻子を失い、もし桐音まで失う様なことがあれば、自分は決して立ち直れない。
遼太郎は桐音を守りたかった。
遼太郎は、桐音を力強く抱きしめ返して言った。
「悪かった。許してくれ、桐音」
そして、力強い口調で宣言する。
「今、やらなきゃいけないことは落ち込む事でも塞ぎこむ事でもねえ」
覚悟は決まった。
「犯人を捕まえる事だ」
「俺が自殺する振りをしたら慌てて止めにくる、って読みは当たってたみたいだな」
遼太郎は、自分が死のうとしているという振りをすることでストーカーを引きずり出したのだ。そもそもストーカーは遼太郎に好意を持っているが故に暴走したのだ。ならば、遼太郎が死を選ぼうとすればきっと全力で止めるはずだ。それこそ隠れている余裕も無くなるほどに。
遼太郎が捕まえた相手は思いのほか小柄だった。そして、コートを着て、そのフードで顔を隠している。顔は見えない。
遼太郎は、そのフードを掴む。
こいつはストーカー。やっと追い詰めた。絶対に逃がす訳にはいかない。
そして、勢い良くフードを取り去った。
「!! おまえは!!」
フードの下から現れた顔。
「三条……」
クラスメイト。櫻子の友人、三条光だった。
驚きを隠せない遼太郎は、一瞬隙を作ってしまった。
その隙をついて三条光は、遼太郎の腕を振りほどき、拘束を逃れた。
「しまった!」
そして、次の瞬間、三条光の周囲を淡い光が包み込み。
遼太郎の視界は暗転した。
そのビルは建て壊しの途中で放棄されていた。理由は知らない。どうでもいいと思った。大事なのは、飛び降りれば助からないだけの高さがあるかどうかだけ。
足元に広がる景色は薄汚れたコンクリートの世界だ。駅からは反対側だから変に目立つということもないだろう。
取り壊し途中であるためにフェンスはない。ここからあと一歩踏み出せば、それだけで遼太郎の身体は空を舞うだろう。
遼太郎は靴を脱ぎ、それを揃えた。
櫻子のことを思い出す。自分は彼女のことを守れなかった。大事な存在であると解っていたのに、警戒を怠った。自分には罪がある。その報いを受けなければならない。
責任を取らなければならない。
頭上には夜空に輝く月があった。あの月がこれから行うことの証人だ。しっかりと見ていてくれ。
そんなことを考え、最期の一歩を踏み出さんと右足を突き出した瞬間、
ドンッ
突如現れた人影に側面から体当たりされる様にして、ビルの屋上に引き戻された。遼太郎は人影に抱き抱えられる様にして、地面に押し倒される。
その直後、遼太郎は素早く動いた。
その人影の手を引き、体勢の上下を入れ替え、押し倒す。まさか遼太郎がこんな行動を取ると予測していなかったのか、人影はあっさりと拘束された。
「やっと、捕まえたぜ、ストーカー!」
時間は遼太郎が事情聴取を受けた直後に遡る。
遼太郎は担任教師に付き添われ自宅へと帰された。事件の処理に追われる担任はそのまま学校へと蜻蛉返りした。
遼太郎の家には元々父親は居なかったし、母親も仕事で海外出張に出掛けており、まだ帰らない。遼太郎は一人、自宅に取り残された。
櫻子の死は自分のせいだと思った。自分がもっとストーカーを警戒していれば、あのとき無理矢理にでも櫻子を家まで送り届けていれば……。あのとき、こうしていれば……そんな後悔が無限の波になって押し寄せ、遼太郎をさらった。遼太郎は後悔の渦の中に呑み込まれ、身動きが取れなくなっていた。
カーテンを締め切り、世界との繋がりを遮断した部屋の隅で、遼太郎は膝を抱えていた。このまま薄暗い闇の中に溶けてしまえたら、そう考えた。
世界は滅びてしまったのだ。自分にとって世界とは、櫻子だった。正義の見方が守る世界はきっと町とか国とか地球とか、途方もない大きさのものだろう。でも、自分はただの人間だ。だったらその両腕届く距離はあまりにも短い。だからこそ、その手が届く範囲の世界は全力で守らなければならなかったのだ。
自分は守ることができなかった。それどころか巻き込んでしまった。
「俺が殺したようなものじゃねえか……」
そうやって口に出すと自分の愚かしさが浮き彫りになる。
もう嫌だった。自分には生きている資格がないと思った。
死のう。
発作的にそんな思いが芽生えたのと部屋の扉が開いたのは同時だった。
そこに立っていたのは桐音だった。ずっと締めきった真っ暗な部屋の中に居た為に、光を運んできた桐音の姿はまぶしく、直視できない。
「遼太郎君のせいじゃない」
桐音はいつもの無表情で言った。
そのことが、無性に遼太郎の癪に触った。何かがカッと燃え上がり、遼太郎の心臓を焼いた。激情の熱は血流を伝わり、腕を、脚を、爆発させていく。遼太郎はもう冷静な判断が下せなくなっていた。
「俺のせいなんだよ!」
遼太郎は桐音を飛び掛かるようにして押し倒す。桐音は抵抗することなく、押し倒される。ドシンと激しい音が鳴る。そんな勢いで押し倒されても桐音はやはり表情を変えようとはしない。
遼太郎は桐音に馬乗りになり、桐音の襟を掴みながら叫ぶ。
「俺がもっとストーカーを警戒していれば、こんなことにはならなかった! 櫻子は死なずに済んだ!」
喉が潰れてしまう程の大声で、遼太郎は自分を否定し続ける。桐音の首元を掴む腕に思わず力が入る。
「……そんなことない」
そんな遼太郎の姿を見ても、やはり桐音は淡々と言う。
いっそ罵って欲しかった。全ておまえのせいだと言って欲しかった。安易な慰めの言葉など傷口をえぐるナイフにしか思えなかった。それなら一太刀で殺してくれた方がずっと楽なのだ。
「殺してくれよ……」
遼太郎はふと手を放し、力無い声で言った。
遼太郎の両の目から溢れだした涙は流れ落ち、桐音の胸元を濡らした。
「死にたいんだ。馬鹿な自分をぶっ殺してやりたいんだよ!」
「そんな事、言わないで!」
桐音は真っ直ぐに遼太郎の目を見据えて叫んだ。その瞳には力強い意志の炎が灯っていた。遼太郎は思わずたじろいだ。
「そんな事、言わないで……お願いだから……」
桐音は、押し倒された体勢のまま、まるで幼子を抱く母親の様に遼太郎の身体を抱きすくめる。遼太郎は力無くそれに身を委ねる。
「言ったよね? 私は遼太郎君に救われた。それが本当に嬉しかったって……」
桐音は遼太郎を温かく包み込みながら続ける。
「私だって、櫻子ちゃんのことは悲しい。……私だって本当に友達だって思ってたから……」
遼太郎は、桐音の身体が震えていることに気がついた。彼女の震えが伝わってくる。
「でも、だからって遼太郎君が死んじゃったら、私はどうしたらいいの……?」
桐音は震える声で言った。
「また、ひとりぼっちになっちゃうよぉ……」
遼太郎は自分の愚かさを改めて思い知った。
俺は馬鹿だ。
事ここに及んでもまだ自分のことしか考えられていなかった。自分以外の人間がどれだけショックだったかということを考えもせず、自分一人だけが落ち込んでいると思い込んでいた。そして、あろうことか桐音に当たってしまったのだ。
自分は桐音の為なら何でもしたいと思っていたのではなかったのか。
桐音のことが好きだと思っていたのではなかったのか。
自分が守らなければならない相手は櫻子だけではない。
櫻子を失い、もし桐音まで失う様なことがあれば、自分は決して立ち直れない。
遼太郎は桐音を守りたかった。
遼太郎は、桐音を力強く抱きしめ返して言った。
「悪かった。許してくれ、桐音」
そして、力強い口調で宣言する。
「今、やらなきゃいけないことは落ち込む事でも塞ぎこむ事でもねえ」
覚悟は決まった。
「犯人を捕まえる事だ」
「俺が自殺する振りをしたら慌てて止めにくる、って読みは当たってたみたいだな」
遼太郎は、自分が死のうとしているという振りをすることでストーカーを引きずり出したのだ。そもそもストーカーは遼太郎に好意を持っているが故に暴走したのだ。ならば、遼太郎が死を選ぼうとすればきっと全力で止めるはずだ。それこそ隠れている余裕も無くなるほどに。
遼太郎が捕まえた相手は思いのほか小柄だった。そして、コートを着て、そのフードで顔を隠している。顔は見えない。
遼太郎は、そのフードを掴む。
こいつはストーカー。やっと追い詰めた。絶対に逃がす訳にはいかない。
そして、勢い良くフードを取り去った。
「!! おまえは!!」
フードの下から現れた顔。
「三条……」
クラスメイト。櫻子の友人、三条光だった。
驚きを隠せない遼太郎は、一瞬隙を作ってしまった。
その隙をついて三条光は、遼太郎の腕を振りほどき、拘束を逃れた。
「しまった!」
そして、次の瞬間、三条光の周囲を淡い光が包み込み。
遼太郎の視界は暗転した。