第19話 主人公の条件

文字数 9,922文字

「……何も刺すことはない……だろ」

 遼太郎は声の震えを抑えきれない。

 桐音の様子は明らかに異常だった。普段通りの鉄面皮に、途方もなく深い闇の色が現れていた。

「この女の『転界』を壊すのに手間取った」

「そんなことを言ってるんじゃねぇ……」

「この女の言葉は出鱈目。騙されないで」

 噛み合わない会話を続けながら、遼太郎は異様な寒気を感じていた。目の前に居るのは本当に桐音だろうか。不器用でいて、優しいあの桐音なのだろうか。

「なあ、どうしちまったんだよ、おまえ……」

 遼太郎自身にも解らないのだ。普段の桐音と今、目の前に居る桐音。どちらが本当の桐音なのかということが。

「遼太郎君は、私の言葉とその女の言葉。どちらを信じるの?」

「それは……」

 遼太郎は桐音を信じたかった。今この瞬間まで桐音は正しく、三条光は何か勘違いをしているのだ、そう考えていた。しかし、こうして改めて桐音と対面すると、全面的に彼女を信じることが果たして正しいことなのか解らなくなってくるのだ。

「言ったよね。私は遼太郎君に救われた。だから、今度は遼太郎君を救いたい、それだけなの」

 桐音は真っ直ぐに遼太郎の瞳を捕らえて、はっきりと言った。

「私を信じて」

「俺は……」





 遼太郎にとって桐音は命の恩人であり、大切な友人だった。

 最初は、美人だが大人しいクラスメイトとしか思っていなかった。妖怪に襲われ、助けられ、そんな日々を過ごす内に知らなかった彼女の色々な姿を見られた。その一つ一つが宝物で、かけがえのない思い出だった。

 しかし、櫻子は死んでしまった。

 自分が守らなければならなかったはずの櫻子は殺された。

 だから、自分はその責任を取らなくてはならない。

 確かめることは、恐ろしいことだ。

 疑うことは、悲しいことだ。

 それでもやらなくてはならない。

 今の自分には、その義務がある。





「俺はおまえを信じるよ……」

「遼太郎君……」

 無表情な桐音の顔に、ほんの少しの喜悦が広がる。

「だから、確かめさせてくれ」

 遼太郎は、ポケットの中の携帯電話のボタンを押した。

 そして、止まってしまった静寂の世界の中で、電話の着信音は確かに声を上げた。

 それは桐音のポケットから聞こえていた。

 遼太郎は、ダイヤルを切る。瞬間、その音はやんだ。

 もう一度、コールボタンを押す。

 やはり、同じ様に桐音のポケットから着信音が鳴った。

 やはり、遼太郎が今押した、この番号は桐音の電話に繋がっている。

「なんで、櫻子にかけたはずなのに、おまえの携帯に繋がるんだ……」

 遼太郎は、静かに言う。

「この番号は、初めて櫻子からかかってきたときに登録したものだ。その声は櫻子のものだったから、俺は櫻子から電話がかかってきたのだと疑いもしなかったよ」

 桐音は何も言わず、黙っている。

「そのときの電話は、おまえがかけていたんだな?」

 遼太郎は、真実を突きつける。

「櫻子に変身したおまえが……」

 遼太郎は、男子更衣室で『転界』がとけたときのことを思い出す。

「男子更衣室で変身したとき、おまえは完全に別人になり変っていた。そして、確かに声も変わっていた」

 あのときは男子のように低い声で「大丈夫」と言ったのだ。

「おまえはその力で櫻子の振りをして、俺に電話をかけてきたんだな……だから、俺はおまえの携帯番号を櫻子の番号だと思い込んでしまった」

 もちろん、その携帯は本来の桐音のものとは別に用意したものだろう。もし、その番号が桐音と同じものならば櫻子と桐音が同じ番号からかけてくるという妙な事態が起こる。実際に、遼太郎は、桐音が仕事用と称して二台のスマートフォンを持っているところを見ている。おそらくは、あの青いスマートフォンは、遼太郎と櫻子の間を介する専用のものだったのだ。

「しかし、ただ櫻子に化けて俺に電話しただけだと俺と櫻子の間に、齟齬が発生してしまう。俺は電話で話をしたのに、櫻子の方は俺と電話で話してないなんてなったら、どう考えてもおかしいからな。だから、今度はおまえは俺に変身して櫻子に電話した」

 二人で映画に行った日のことだ。遼太郎にとっての電話は櫻子からの一回のみだった。だが、櫻子は、遼太郎に一度断られた後、遼太郎がもう一度かけ直してきたと言っていた。これは、櫻子が桐音に電話をかけ、今度は桐音が、遼太郎に電話をかけたのだ。最初の櫻子の誘いを遼太郎に化けた桐音は断った。だが、実際の遼太郎は誘いを受けてしまった。それで仕方なく、桐音はもう一度櫻子に電話をかけ直したのだ。二人の間の矛盾を最小限に抑えるために。

 それに先程刑事は言っていた。櫻子は最期の瞬間に「瀬戸川遼太郎」に電話をかけていたと。しかし、実際には遼太郎の携帯電話には着信履歴はなかった。櫻子がかけた電話は実際には桐音に繋がっていたのだ。だから、遼太郎の携帯に着信履歴が無かったのは当然だし、櫻子と最後に通話したのは桐音ということになる。

「つまり、俺と櫻子は桐音を間に挟んで伝言ゲームをしていたことになる……」

 しかし、これはかなり稚拙なトリックだ。たとえば、電話の相手がどんな話をするのかなど完全に予測できるはずが無い。遼太郎に櫻子の振りをして伝言を行おうとしても、遼太郎が全く違う話題を提示すれば、電話の内容は噛み合わなくなる。実際に、二人の間には記憶の齟齬が発生している。

「会話の内容によっては齟齬なんていくらでも生じるし、こんな面倒なことをしても、できるのは俺と櫻子の間の電話の内容を知ることだけ……異常に気付き、本格的に追及すれば、櫻子に俺の番号を教えたというおまえ以外に犯人が居ないことは明らかだ」

 これが出来るのは、人の声真似ができるという以前に、電話番号の交換の仲介を行うという条件が必要になる。トリックがばれれば犯人はすぐに割れてしまう。

「それでも、こんな真似をする理由があるとしたら、一つだけ」

 真実の指摘を行いながら、遼太郎は涙を堪えていた。それほどまでにこの事実を突きつける事は、遼太郎にとって本当に辛いことだった。

 それでも言わねばならない。それが櫻子を守れなかった自分への罰なのだから。

「おまえが俺のストーカーで、俺に近付きすぎた櫻子を殺したんだ……!」

 あんな手紙を毎日送りつけてくるストーカーだ。盗聴のために、こんなトリックを仕込むことはあり得ない話ではない。

「どうなんだ! 桐音!」

「違う」

 桐音は、淡々とした声ではっきりと言い放った。そこには些かの動揺の色も見えない。あくまで堂々と遼太郎の追及を否定する。

「私はストーカーじゃない」

「だったら、なんで電話に細工をした?」

「それは、私は最初、櫻子ちゃんがストーカーじゃないかと疑っていたから」

「は?」

 桐音は、すらすらと話し始める。

「私の目から見ても櫻子ちゃんが遼太郎君に好意を持っているのは明らかだった。それがもしかしたら、あんな手紙とか写真とか、歪んだ形で現れたのかもしれないと疑うのは、突飛?」

「櫻子が俺をストーキングする理由なんてないだろ。普通に友達だったんだから」

「恋心って意外と複雑なもの。どんな人でも恋に狂えば、おかしな行動に走るものだし」

「だから、盗聴じみた真似をしたっていうのか……?」

「それについてはごめんなさい。でも、遼太郎君は警戒心が足りないと思ったから。ただのストーカーじゃなく、妖怪が絡んでいる可能性もあったのに、解決しようとせず、放置していたから」

 桐音の行動は行きすぎだが、筋は通っている様に思える。桐音が内心で櫻子を疑っていたのだとしたら、電話を盗聴することも一つの捜査方法であるとも言える。

「確かに昨日、櫻子ちゃんから遼太郎君の振りをした私に電話はかかってきた。でも、彼女何も言わなかったの。たぶん、電話をかけた時点ではもう……」

 そして、桐音はぴしゃりと言い切る。

「だから、これは誤解。出過ぎた真似をした私にも責任はある。だから、遼太郎君が私を疑ったことも許してあげるから」

 電話のトリックはしかけたが、ストーカーではない。

 だとしたら、桐音は無実ということになる。

 桐音が櫻子を殺したのではないということになる。

 遼太郎はこの期に及んでも、まだ桐音を信じていたかった。桐音が櫻子を殺したなどと思いたくはなかった。それならば、もういいのではないだろうか。ここで、追及をやめてもいいのではないだろうか……。

 そのときだった。

 遼太郎の胸ポケットから一枚の紙が滑り落ちた。

 それは今朝、ストーカーから送られてきた写真だった。昨日の遼太郎と桐音を撮影したものだ。これも重要な証拠だというのに、警察に現物を渡す事も、証言することすら忘れていた。あのときは、それくらいに動揺していたのだ。

 便箋の内側から写真が見えていた。そこに写っている櫻子は笑顔だった。こんな状況でなければ、微笑ましいとすら思える写真だった。

 櫻子……。

 瞬間、遼太郎は気が付く。

 決定的な矛盾に。

「なあ……桐音」

「何?」

「おまえ、さっき、写真って言ったよな」

「………………」

「なんで、下駄箱に手紙だけでなく写真が入っていたことを知ってるんだ……?」

 桐音の両の目が僅かに見開かれる。その瞳の奥が微かに揺れる。

「それは……」

「写真が入っていたのは今日が初めてだ。それに俺は写真のことは誰にも話してはいない。だから、この写真のことを知っているのは俺以外には一人だけ」

 そして、遼太郎は言った。

「この写真を入れた犯人だけだ……」

 桐音はうつむき、唇を噛み締める。

「どうなんだ? 反論はないのか……」

「………………」

 桐音は沈黙したままだ。

「おまえが、櫻子を殺したのか……」

「………………」

「どうなんだ!」

「仕方ないでしょ……」

「……何を――」

「仕方が無かったの!」

 そう叫ぶ桐音の口元は血塗れだった。何が起こったのかと動揺し、すぐに気が付く。唇を噛みきってしまったのだ。唇から血をだらだらと垂れ流し、飛び出しそうなくらい目に力を込めながら、桐音は言う。

「私だって、殺したくなんてなかった! 櫻子ちゃんは友達……遼太郎君以外で初めて仲良くなれるかもって思える相手だったんだから!」

「だったら、なんで!」

「秘密を知られたから! 私が妖怪を操って遼太郎君を襲わせてたことを知っちゃったから!」

 桐音は髪を振り乱し、頭を抱え込みながら、狂った様に叫び続ける。

「昨日、私は貴方達二人がデートしている様子をずっと見てた! 電話で二人が会うことは知っていたから。あの子が出過ぎた真似をするようなら強硬手段に出るしかないとも思ってた……!」

 桐音は凍えているかのように、自らの身体を抱きながら尚も続ける。

「駅で二人が別れるときの会話、私は人の何倍も耳がいいから声は聞こえていた。私には解った。あの子は遼太郎君に告白しようとしてるって。でも、やめた。私にはその理由が直感でわかったの……!」

 桐音は震える声で言った。

「あの子は私に宣言してから告白する気になったんだって……」

 桐音の両目からは涙が流れ出ていた。桐音はそれを拭おうともせず、吐露し続ける。

「だから、私も遼太郎君に告白しようって思った……!」

 桐音の声はかすれ始めている。

「でも、櫻子ちゃんに私の秘密を知られてしまった。私は二人が別れるのを見届けた後、適当な妖怪を捕まえて操ることにした。……普段の私には告白する勇気なんてない。だから、いつもの様に妖怪を倒して、その勢いで告白しようとしたの……」

 桐音の顔は血と涙でぐしゃぐしゃになっている。

「見つかったのは、あの猫又だけだった。仕方が無いから、あの猫又を改造して凶暴な妖怪に仕立て上げようとした……。別に今まで何度もやってきたことだったから、罪悪感は薄かった……。でも、私は猫又を取り逃がした。そして、私がやろうとしていることを櫻子ちゃんに喋ったのよ……!」

 桐音は肩で息をしている。ここまで叫びきると桐音は黙り込んでしまう。『転界』内部は静寂の世界。彼女が黙りこむと世界は息をするのも忘れた様に静まり返る。

「だから、殺したのか……」

「仕方なかったの……だって、妖怪に遼太郎君を襲わせてたのが私だってばれたら、遼太郎君に嫌われるから……」

 桐音はぽつりと呟いた。

「町を妖怪から守る正義の味方じゃないと遼太郎君は私を見てくれないから……」

「……桐音」

 遼太郎は後悔した。どうして、桐音をもっと見てやれなかったのだろう。桐音は退魔師である以前に一人の女の子だ。そんなことはとっくに理解していたというのに。どうして、その心の闇を理解してやれなかったのだろうか。

 桐音は、遼太郎が正義の味方の桐音だけを好いていると思い込んでしまったのだ。

「俺は、おまえのことが好きだった……それは正義の味方だからじゃない……宍戸桐音という女の子そのものが好きだたんだ……」

 こんなときになってようやく気がついた。

 自分は桐音のことが好きだった。

「無愛想で人と上手く話せない不器用さも、自分の力に悩んで殻に閉じこもろうとしてしまう弱さも、全てひっくるめて、俺はおまえが好きだった……」

 それが遼太郎の本当の気持ちだった。妖怪に襲われている所を助けられたからとか、秘密を共有しているからとか、そんなことは関係が無かったのだ。きっかけがどうであったとしてもやはり自分は桐音のことが好きだったのだ。

 自分は馬鹿だった。どうして、こんなことになってしまう前に、こう言ってやれなかったのだろう。桐音のことを救ってやれなかったのだろう。

「それなのに……なんで……なんでなんだよ!」

「……悪いのは、遼太郎君だよ」

 そのとき、桐音の様子が一変した。いつもと違うどこか甘い蟲惑的な声。そんな声に遼太郎にぞくりと悪寒が走る。彼女の様子はまるで糸の切れた操り人形の様だった。だらんと前のめりになり、顔を伏せる。長い前髪が垂れ下がり、彼女の表情を覆い隠す。その髪の向こう側には一体何があろうというのか。

「遼太郎君は、私のことなんて忘れてたじゃない……!」

「っ!」

「命を助けた私のことに気付きもしなかったじゃない……!」

「それは……」

 遼太郎は口籠る。

 それは純然たる事実であった。命の恩人である桐音の存在を忘れ、再会しても気付きもしなかった。

 顔を伏せたまま、桐音は蕩ける様な声で語り続ける。

「小さいときに貴方を助けたのはやらせなんかじゃなかった。あのとき、私は死ぬつもりだったの」

「な……!」

「私は両親を亡くした直後だった。私の両親も妖怪と戦って死んだわ。だから、私も妖怪と戦って死んで……おとうさんとおかあさんのところへ行こうと思った。それが化物の私に相応しい末路だと思った」

 遼太郎はただ茫然と立ち尽くしている。

「退魔師とは何なのか。どうしてこんな辛い役目を引き受けなくてはならないのか。私は自分の運命を呪ったわ。私がこの町の人間を救ったって、誰もそんなことも知らず、ただ漫然と日々を生きている。私が生きていても辛いことしかないのならさっさと死のうと思った。それで町の人間、みんなが死んでしまったとしても、仕方のないことなんだと思った」

 遼太郎は何も言うことができない。彼女の過去は想像していた以上に苛烈なものだった。想像もしていなかった様な闇に、遼太郎は二の句を継ぐことができない。

「そんな気持ちであの蛇と戦った。でも、私は生き残ってしまった。別にいい。次の戦いで死ねばいい。もし生き残ったらその次で、そう思っていた」

 桐音は顔を伏せたまま語り続ける。

「でも、貴方は私を『かっこよかった』と言ってくれた……『ありがとう』と感謝してくれた……それが嬉しかった……私が生きて戦い続けることで救われる人が居る。それが意味のあることだって貴方は教えてくれた……私の生きる意味になった……だから、私は生きていこうと思えたの……」

 そして、桐音は勢いよく顔を上げ、遼太郎を睨んだ。桐音の憎悪の炎が轟々と燃え、遼太郎の心を蝕んでいく。

「でも、貴方は全てを忘れていた……!」

「………………」

「高校生になって、偶然同じクラスになって、私がどれだけ嬉しかったか。でも、貴方は私のことなんか気付きもしない……!」

「それは……」

「でもね、私気付いたの」

 桐音は穢れを知らない乙女が祈りをささげる様に両手を握った。

「きっと遼太郎君は命を助けてくれる女の子しか興味が無いんだって」

 その瞬間、桐音の顔には笑顔が張り付いていた。眦を下げ、目を細め、口角は上向いている。それは紛れもない笑顔であった。いつも無表情だった桐音の笑顔。しかし、それは狂気の笑顔であった。その瞳からは、深い深い闇が渾々と湧き出でていた。

「だから、私は新しく目覚めた妖怪を操る力、私自身の血肉を妖怪に埋め込み支配する力を使って、貴方を襲わせた……どうせ妖怪なんてバケモノよ。今まで人を襲って無かったからといってこれからも襲わないなんて保障はない。だったら、さっさと処分してしまった方がいいじゃない」

 遼太郎は桐音に笑ってほしいと思っていた。しかし、遼太郎が求めていた笑顔はこんなものではなかった。もっと安らかで、健やかで、愛しいと思える。そんな笑顔。遼太郎は桐音にそんな笑顔で居て欲しいと思っていた。

 思っていたのに――

「つまり、悪いのは遼太郎君なのよ」

「なんで……なんだよ……」





「そこまでだ!」

 いつの間にか桐音と遼太郎は大勢の人間に取り囲まれていた。廃ビルの外縁部に立つ人影。二人は完全に包囲されている。

「『狩人』だ。宍戸桐音及び瀬戸川遼太郎両名を、妖怪不法討伐及び殺人の容疑で拘束する!」

 リーダー格とおぼしき精悍な顔付きの男は、三条と同じ五芒星のエンブレムを突き付けながら言った。

「被害者の身体から検出された残留妖力がおまえの物と一致した。大人しく我々と共に来てもらおう」

 その瞬間だった。桐音は驚くべき行動に出た。

 桐音は右手に握った刀で自らの左腕を切り落としたのだ。断ち切られた左腕は空を舞う。

 遼太郎は驚き、声を上げることもできない。

 そして、左腕は空中で弾けた。まるで真っ赤な花が咲く様に、空を舞う左手から幾本もの血の鞭が遼太郎に向かって飛来した。遼太郎はそのままなす術なく血液の鞭に巻き付かれ、身動きが取れなくなる。

 そして、そのまま鞭は遼太郎をきつく締め付けた。全身の骨が軋み、遼太郎は苦痛の声を上げる。

「ぐあああっ!」

「一体……何を?」

 リーダー格の男は驚き、声を上げる。

「こいつは共犯なんかじゃない……」

 光のない瞳で桐音は言う。

「すべてやったのは、私。こいつは関係ない」

「何を……ん!」

 遼太郎が喋ろうとした瞬間、血の鞭は遼太郎の口を塞ぎ、発言を封じ込める。

「妖怪を操り、殺したのも、鹿島櫻子を殺したのも私が一人でやったこと」

 それは事実だった。だが、遼太郎は桐音を庇いたかった。桐音がこんなことになってしまったのは、自分のせいなのだから。

 全てが自分のせいだ。桐音は言った。では、なぜ今になってこんな風に庇うのか。全て遼太郎が悪いと言うのであれば、彼女と同じ責め苦を味わうしか、自分には償う術はないではないか。なぜそうさせてくれないのだ。

「そこを退きなさい。こちらには人質も居るのよ」

 遼太郎は表情を驚愕の色に染める。その光景は信じられないものだった。

 三条は自らのこめかみに拳銃を突きつけていた。

 彼女の顔は蒼白ではあったが、なんの感情も見られない無表情だった。だが、瞳だけは爛々と輝き、何もかもを喰らい尽くそうという獰猛な狂気に満ちていた。桐音に刺し貫かれた腹部は余りにも無残な有様であったが、全く傷を庇う様な素振りも見せない。

 まるで誰かに意志を奪われているかのように。

「ぐ、『宍戸』の秘術か……」

 『狩人』と名乗った男は、苦々しげに声を漏らす。

 『宍戸』の秘術。確か先程、三条が「妖怪を操る術」だと言っていた。だが、三条の様子を見る限り、人間であるはずの三条まで支配している様に思える。これは一体どういうことなのか。

 だが、そんな思考は激痛によって遮られた。

「くっ……!」

「この男は用済みね」

 瞬間、遼太郎を拘束する鞭の力を何倍にも膨れ上がり、遼太郎は抵抗することも、叫び声を上げることもできずに、意識を失った。





「気がついた?」

「ここは……」

 遼太郎は周囲を見渡す。未だに世界は色を失ったまま。しかし、いつの間にか遼太郎はビルの階下まで下ろされていた。

 自分のすぐ隣には見知らぬ人影。眼鏡をかけ、長い髪を後頭部の髪止めでまとめた妙齢の女性だ。

「まだ動いちゃ駄目よ」

 そう伝えられた瞬間、頭に激痛が走る。先程の鞭から受けた傷だろうか。

 ――そうだ、桐音は。

「ここから動いちゃ駄目よ」

 念を押すように言うと眼鏡の女性は人間離れした脚力で飛び上がり、十階はあるビルの屋上へ向かって飛来していく。

 そして、ビルを見上げると、そこには驚くべき光景が広がっていた。

 それは、ビルを包み込むほど巨大で奇怪な化物だった。

 その形は大蛸に近いかもしれない。大きな触手のような赤い幾本もの血肉の鞭が、唸りを上げて化物を取り囲む人影を襲っていた。

 あれは桐音だ。遼太郎にはすぐに解った。

 対して桐音を取り囲む人影は、桐音に対して幾多の攻撃を浴びせかけていた。乱舞する光の刃に、レーザーの様に飛ぶ青い炎。触手を引き裂く巨人や空を舞い巨大な機関銃から弾丸の雨を降らす者も居た。その誰もが、目の前の化物を殺すために死力を振り絞っていた。

 遼太郎は悲しかった。

 遼太郎はやるせなかった。

 こうなってしまう前にどうにかしてやることは、本当にできなかったのだろうか。いくつもの後悔が、遼太郎の身を焦がす。いつしか、遼太郎の頬を熱い涙が伝っていた。遼太郎は呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。

 どれだけの時間が過ぎただろうか。ついに戦況は動いた。桐音の触手がその動きを止めたのだ。空には光の線で、巨大な五芒星が描かれ、そこからまばゆい白光が降り注いでいた。おそらくはあれが桐音の動きを封じ込めたのだ。

 動きを封じ込まれた桐音に人影は次々と攻撃を浴びせかけていた。桐音の肉体は弾け飛び、その質量を減らしていく。

――ウォオオオオオオオオオン

 最早、人の声とは思えぬ絶叫が、虚空へと響いていく。

「やめろっ!」

 遼太郎は声を振り絞って叫ぶが、攻撃の手は緩まない。炎によって肉片は燃え、巨人によって触手は引き千切られていく。

 そして、桐音の肉体は爆散し、流星の様に光の筋を引いて、様々な方向へと飛び散った。

「逃げたぞ! 追え!」

 しかし、それは桐音が自ら起こした行動の結果であったようだ。おそらくは、身体をバラバラに切り離し、拘束を逃れたのだろう。

「どの肉片に意思総体があるかはわからない。すべての着弾点をしらみ潰しにしろ!」

 肉片の流星は、数百もの数に上っていた。人影達は散開し、桐音を追って行った。しかし、数人の隊員であれだけの数を回ろうと思えば、本体にたどり着くまでに一体どれだけの時間がかかるだろう。

 遼太郎は痛む身体に鞭を打ち、壁に右手を突きながら立ち上がる。瞬間、身体に痛みが走るが、歯を食い縛り、それを堪える。

「行かねぇと……」

 遼太郎は一歩、また一歩と歩を進めていく。

 目指すのは、初めて桐音と出会ったあの丘の上だ。
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登場人物紹介

瀬戸川遼太郎


男子高校生。軽薄なところもあるが、熱い性格で困っている人間を放っておけない。

ある日、突然「バケモノ」に狙われるようになる。

宍戸桐音


女子高生。無口で眉一つ動かさない美人。

正体は『呪的犯罪対策官』、通称『C3』と呼ばれる退魔師で「バケモノ」に襲われるようになった遼太郎を守護する役目を買って出る。

鹿島櫻子


女子高生。明るい性格で抜けているようにも見えるが、人一倍周囲を見ている気遣い屋。

遼太郎を通じて、桐音と友達になろうとする。

三条光


女子高生。引っ込み思案な性格で、影が薄く、周囲に居ても気が付かれないことが多い。

櫻子と仲が良い。

高山


男子高校生。遼太郎のクラスメイトで、明るいお調子者。

サッカー部に所属していて、ガタイが良い。

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