第20話 清算
文字数 3,408文字
廃ビルを中心に張られた『転界』は桐音に侵入された影響か、術者の三条が刺された影響なのか、簡単に抜け出すことができた。色の無い世界にいくつも裂け目が見え、そこから先は現実の世界。その裂け目から『転界』を脱出し、痛む身体を引きずりながら歩き続ける。途中、幾人かの人影とすれ違い、怪我をしている自分を案じる言葉をかけられたが無視する。早くあの場所まで辿り着かねば。
そして、なんとか例の丘の上に到達する。
本物の星が降り注ぎそうなほどの満天の星空の下。小高い丘の上に桐音は居た。
それは、無惨な姿だった。両の掌ほど大きさの肉の塊。それが今の桐音の姿だった。表面でドクドクと波打つ血管と、静かに鳴る鼓動だけが、その存在が命を持っていることを示していた。
「桐音……」
遼太郎は静かに呟く。
その言葉に呼応し、肉塊が僅かに形を変えていく。
「りょうたろう……くん……」
その言葉は肉塊から突き出してきた口から紡ぎだされた。よく見ると耳の様な形状のものも肉塊の表面に見えている。きっとここから声を聞いているのだろう。
ここまで無残な姿になり果てても彼女はまだ生きていた。
「宍戸の『血肉』の力は……通常の人間でも、妖怪でも考えられないほどの生命力を持っている……だけど、流石にここまでやられたらもう……」
肉塊は少しずつ形を変えていき、目が現れ、鼻が現れ、ばらばらだった口や耳が、まるで福笑いでもしている様に位置を変え、顔の形に変化していく。それは、普段と変わらない桐音の顔の形だった。しかし、首から下は何もなく、ただ首だけが、草の上に転がっていた。
そんな有様でありながら桐音はぽつりぽつりとうわ言のように言葉を紡ぎ始める。
「以前、私は自分の事を『C3』と名乗ったけど……実際にはほとんどのものが自分たちの事を『C3』と呼ばず、『退魔師』と名乗るの……」
「何の話だ。今はそれより治療を――」
「『C3』というのは……私達につけられた『首輪』の名前だから」
「『首輪』……?」
桐音は息を荒くしたまま語り続ける。
「私達は首輪に繋がれているの」
遼太郎の背筋に冷たい物が走る。桐音は一体何を言おうとしているのか。
「前に言った……妖怪の正体は生物の突然変異……この生物っていうのは、何も犬や猫だけを指しているわけじゃないわ……」
「何を言って――」
「人間だって動物よね……」
遼太郎には、世界が停止してしまったかのように思われた。
「――私も妖怪っていうバケモノなのよ」
遼太郎は思わず目を見開く。今まで自分に襲いかかってきた妖怪の事を思い出す。あんな化物と桐音は本質的には変わらないという事は――
「退魔師と妖怪の線引きは人に危害を加えるか否かだけ……だから、私の力で三条さんも操れた……彼女も退魔師だから……」
退魔師である三条も妖怪達となんら変わりはないのだ。ただ、人を襲う意志をもっているか否かだけ。
「『C3』だなんて気取った名前で呼ばれてるけど……実際には『首輪』をつけて飼いならされた犬か……手のつけられない野良犬か……それだけの違いなの……『首輪』をつけて悪い野良犬を退治している間は餌をもらえるけれど……少しでも牙を見せたりすれば、たちどころに消される……」
桐音の様子は尋常ではない。何せ首から下の身体はない。早く治療を行うべきなのだろう。それでも、桐音は喋り続ける。
「『C3』っていうのは、『呪的犯罪対策官』。Cursed Crime Countersの事だって事になってる……でもね、本当の意味は違うの……」
遼太郎は思わずごくりと息を呑んだ。
「Creatures Connected to the Collar『首輪に繋がれた化物』。それが私達の呼び名の本当の意味……」
桐音はどこか自嘲めいた口調で言い放った。
「私は自分の首輪をもう引き千切ってしまった……」
「桐音……」
「だから、私は……もう人間じゃない……」
遼太郎はぎりと歯を食い縛る。おまえは化物なんかじゃない。そう言ってやりたかった。だが、その言葉がただの気休めに過ぎない事は解っていた。桐音がそんな言葉を望んでいる訳ではない事も。
遼太郎は桐音の頭部をそっと胸に抱いた。今の遼太郎にできる事はそれだけしかなかった。
「ああ……温かい。温かいよ……」
「桐音……」
それからどれだけの時間が過ぎただろう。桐音はぽつりと呟いた。
「遼太郎君……お願いがあるの」
虚ろな目をした桐音の生首は言った。
「貴方の手で私を殺して……」
「何言ってるんだ!」
遼太郎は生首強く抱きしめながら叫ぶ。
「おまえは腕が飛ぼうが、足が弾けようが生えてくるんだろ! 死なないんだろ!」
「……再生力も無限じゃない……あいつらから逃げるために『血肉』を使い過ぎた……この場所が嗅ぎつけられるのも時間の問題……あいつらに殺されるくらいなら、いっそ貴方の手で……」
「できるわけないだろ!」
遼太郎は喉を振り絞って枯れた声で叫ぶ。
「何か……何か方法があるはずだ……おまえが生き延びる方法が……」
遼太郎の熱い落涙が桐音の頬の上に落ちた。しかし、ただの涙が奇跡を起こす事は無く、涙は彼女の血と混ざり合い、消えていく。
桐音は遼太郎がかつて見たことが無いほどに穏やかな表情をして言った。
「お願い……私を殺して……」
「うっ……ううっ……!」
遼太郎は無力だった。彼は何の力もない人間だった。世界を救うことができる英雄でも、誰かを助けることができる正義の味方でもない。思いが奇跡を産むことが無ければ、願いが理を曲げることも無い。ただ、運命に翻弄され、流されていくだけの矮小な匹夫でしかない。
それでも、もしも何事かができるとしたら、それはもう彼女の望みを叶えてやることしか残ってはいなかった。
「この『核』を潰せば私は死ぬわ……」
桐音の首の下から球体の血肉の塊が突き出していた。それは弱弱しく脈を打つ彼女の心臓だった。
「お願い、貴方の、貴方自身の手で、握りつぶして、止めて……」
そして、桐音は悲しいくらい優しい声で言った。
「そして、貴方がその手で殺した私のことをずっと覚えていて……」
「ぐっ……」
「ずっと、ずっと、貴方の心臓が止まって、死を迎える瞬間まで、私の死を覚えていて……」
出来るはずが無い。
遼太郎は絶対に桐音を失いたくない。たとえ、世界中を敵に回したって桐音の味方をしてやりたいと思っていた。
だが、同時に思う。桐音は櫻子を殺したのだ。自分の秘密を知られたからという理不尽な理由で櫻子の命を奪ったのだ。そんな彼女に幸せになる資格などあるのだろうか。
それは自分も同じだった。桐音を凶行に走らせた原因が自分にあるのであれば、彼女と同様に自分も罰を受けなければならない。遼太郎は桐音を失いたくない。ならば、桐音の命をこの手で終わらせてやることこそが、自分への罰なのではないだろうか。櫻子への償いなのではないだろうか。
遼太郎は、脈打つ心臓にそっと手をかけた。
生々しい肉の感触。確かな熱が遼太郎の掌に伝わってくる。こんな姿であっても、確かにまだ生きている。それを止めるのか。
俺が殺すのか?
「殺して……殺してほしい」
桐音は言った。
「そうしたら、私はずっと貴方の心の中に居られるから……」
遼太郎の脳裏に今までの日々が蘇る。
妖怪から助けられたことがきっかけで話す様になって、櫻子とも友達になった。
三条や高山ともほんの少しだけど話せるようになった。
「デートの振り」だなんて言って実際には自分は彼女との時間を楽しんでいた。
ずっと表情は変わらなかったけど、自分はその奥にある感情を見抜ける様になっていった。
瀬戸川遼太郎は宍戸桐音のことが好きだった。
そして、桐音は笑った。
それは最初で最後の本当の健やかな笑顔だった。
「――今度は絶対に忘れないでね」
「うわぁああああああああああああああっ!!」
そして、桐音の心臓は、遼太郎の手の中で静かにその動きを止めた。
そして、なんとか例の丘の上に到達する。
本物の星が降り注ぎそうなほどの満天の星空の下。小高い丘の上に桐音は居た。
それは、無惨な姿だった。両の掌ほど大きさの肉の塊。それが今の桐音の姿だった。表面でドクドクと波打つ血管と、静かに鳴る鼓動だけが、その存在が命を持っていることを示していた。
「桐音……」
遼太郎は静かに呟く。
その言葉に呼応し、肉塊が僅かに形を変えていく。
「りょうたろう……くん……」
その言葉は肉塊から突き出してきた口から紡ぎだされた。よく見ると耳の様な形状のものも肉塊の表面に見えている。きっとここから声を聞いているのだろう。
ここまで無残な姿になり果てても彼女はまだ生きていた。
「宍戸の『血肉』の力は……通常の人間でも、妖怪でも考えられないほどの生命力を持っている……だけど、流石にここまでやられたらもう……」
肉塊は少しずつ形を変えていき、目が現れ、鼻が現れ、ばらばらだった口や耳が、まるで福笑いでもしている様に位置を変え、顔の形に変化していく。それは、普段と変わらない桐音の顔の形だった。しかし、首から下は何もなく、ただ首だけが、草の上に転がっていた。
そんな有様でありながら桐音はぽつりぽつりとうわ言のように言葉を紡ぎ始める。
「以前、私は自分の事を『C3』と名乗ったけど……実際にはほとんどのものが自分たちの事を『C3』と呼ばず、『退魔師』と名乗るの……」
「何の話だ。今はそれより治療を――」
「『C3』というのは……私達につけられた『首輪』の名前だから」
「『首輪』……?」
桐音は息を荒くしたまま語り続ける。
「私達は首輪に繋がれているの」
遼太郎の背筋に冷たい物が走る。桐音は一体何を言おうとしているのか。
「前に言った……妖怪の正体は生物の突然変異……この生物っていうのは、何も犬や猫だけを指しているわけじゃないわ……」
「何を言って――」
「人間だって動物よね……」
遼太郎には、世界が停止してしまったかのように思われた。
「――私も妖怪っていうバケモノなのよ」
遼太郎は思わず目を見開く。今まで自分に襲いかかってきた妖怪の事を思い出す。あんな化物と桐音は本質的には変わらないという事は――
「退魔師と妖怪の線引きは人に危害を加えるか否かだけ……だから、私の力で三条さんも操れた……彼女も退魔師だから……」
退魔師である三条も妖怪達となんら変わりはないのだ。ただ、人を襲う意志をもっているか否かだけ。
「『C3』だなんて気取った名前で呼ばれてるけど……実際には『首輪』をつけて飼いならされた犬か……手のつけられない野良犬か……それだけの違いなの……『首輪』をつけて悪い野良犬を退治している間は餌をもらえるけれど……少しでも牙を見せたりすれば、たちどころに消される……」
桐音の様子は尋常ではない。何せ首から下の身体はない。早く治療を行うべきなのだろう。それでも、桐音は喋り続ける。
「『C3』っていうのは、『呪的犯罪対策官』。Cursed Crime Countersの事だって事になってる……でもね、本当の意味は違うの……」
遼太郎は思わずごくりと息を呑んだ。
「Creatures Connected to the Collar『首輪に繋がれた化物』。それが私達の呼び名の本当の意味……」
桐音はどこか自嘲めいた口調で言い放った。
「私は自分の首輪をもう引き千切ってしまった……」
「桐音……」
「だから、私は……もう人間じゃない……」
遼太郎はぎりと歯を食い縛る。おまえは化物なんかじゃない。そう言ってやりたかった。だが、その言葉がただの気休めに過ぎない事は解っていた。桐音がそんな言葉を望んでいる訳ではない事も。
遼太郎は桐音の頭部をそっと胸に抱いた。今の遼太郎にできる事はそれだけしかなかった。
「ああ……温かい。温かいよ……」
「桐音……」
それからどれだけの時間が過ぎただろう。桐音はぽつりと呟いた。
「遼太郎君……お願いがあるの」
虚ろな目をした桐音の生首は言った。
「貴方の手で私を殺して……」
「何言ってるんだ!」
遼太郎は生首強く抱きしめながら叫ぶ。
「おまえは腕が飛ぼうが、足が弾けようが生えてくるんだろ! 死なないんだろ!」
「……再生力も無限じゃない……あいつらから逃げるために『血肉』を使い過ぎた……この場所が嗅ぎつけられるのも時間の問題……あいつらに殺されるくらいなら、いっそ貴方の手で……」
「できるわけないだろ!」
遼太郎は喉を振り絞って枯れた声で叫ぶ。
「何か……何か方法があるはずだ……おまえが生き延びる方法が……」
遼太郎の熱い落涙が桐音の頬の上に落ちた。しかし、ただの涙が奇跡を起こす事は無く、涙は彼女の血と混ざり合い、消えていく。
桐音は遼太郎がかつて見たことが無いほどに穏やかな表情をして言った。
「お願い……私を殺して……」
「うっ……ううっ……!」
遼太郎は無力だった。彼は何の力もない人間だった。世界を救うことができる英雄でも、誰かを助けることができる正義の味方でもない。思いが奇跡を産むことが無ければ、願いが理を曲げることも無い。ただ、運命に翻弄され、流されていくだけの矮小な匹夫でしかない。
それでも、もしも何事かができるとしたら、それはもう彼女の望みを叶えてやることしか残ってはいなかった。
「この『核』を潰せば私は死ぬわ……」
桐音の首の下から球体の血肉の塊が突き出していた。それは弱弱しく脈を打つ彼女の心臓だった。
「お願い、貴方の、貴方自身の手で、握りつぶして、止めて……」
そして、桐音は悲しいくらい優しい声で言った。
「そして、貴方がその手で殺した私のことをずっと覚えていて……」
「ぐっ……」
「ずっと、ずっと、貴方の心臓が止まって、死を迎える瞬間まで、私の死を覚えていて……」
出来るはずが無い。
遼太郎は絶対に桐音を失いたくない。たとえ、世界中を敵に回したって桐音の味方をしてやりたいと思っていた。
だが、同時に思う。桐音は櫻子を殺したのだ。自分の秘密を知られたからという理不尽な理由で櫻子の命を奪ったのだ。そんな彼女に幸せになる資格などあるのだろうか。
それは自分も同じだった。桐音を凶行に走らせた原因が自分にあるのであれば、彼女と同様に自分も罰を受けなければならない。遼太郎は桐音を失いたくない。ならば、桐音の命をこの手で終わらせてやることこそが、自分への罰なのではないだろうか。櫻子への償いなのではないだろうか。
遼太郎は、脈打つ心臓にそっと手をかけた。
生々しい肉の感触。確かな熱が遼太郎の掌に伝わってくる。こんな姿であっても、確かにまだ生きている。それを止めるのか。
俺が殺すのか?
「殺して……殺してほしい」
桐音は言った。
「そうしたら、私はずっと貴方の心の中に居られるから……」
遼太郎の脳裏に今までの日々が蘇る。
妖怪から助けられたことがきっかけで話す様になって、櫻子とも友達になった。
三条や高山ともほんの少しだけど話せるようになった。
「デートの振り」だなんて言って実際には自分は彼女との時間を楽しんでいた。
ずっと表情は変わらなかったけど、自分はその奥にある感情を見抜ける様になっていった。
瀬戸川遼太郎は宍戸桐音のことが好きだった。
そして、桐音は笑った。
それは最初で最後の本当の健やかな笑顔だった。
「――今度は絶対に忘れないでね」
「うわぁああああああああああああああっ!!」
そして、桐音の心臓は、遼太郎の手の中で静かにその動きを止めた。