第13話 ある旅人の記録
文字数 1,977文字
不思議な草原 一四五二年八月十七日
私は遂に奇跡を見た。故郷を発って以来、この旅行記にもずいぶんと不思議な場所や、神秘的な光景というものが登場してきたが、今日私が目の当たりにしたものこそ極めつけであろう。
あれこそまさに天上の輝き、およそこの世のものとは思われぬほどの美しさであった。
一体、夜空の星々がこの大地に降り注ぐなどということが起こり得るだろうか。それとも長旅続きの私の頭がどうかしてしまったのだろうか。
私は今、あの草原からほど近い、サン・テルミーヌの村でこの記録をしたためている。
モンフェトゥの山を越えてしばらく歩き、この村へ入ったのは今日の昼前だった。
村の入り口にあった酒場で軽く食事をとり、私はいつものように辺りを散策するために、この宿屋に荷物を置いて、日盛りの草原へ足を踏み入れた。
真夏とはいえこの地方は過ごしやすい気候である。眼下にメラール山系の丘陵地帯を望む草原に出ると、目に染みるような鮮やかな緑が高原の風に揺れていた。
草原は随分と広く、私はその風景の美しさに感嘆しつつさらに散策を続けていたが、やがて陽が傾き始めた頃、旅の疲れと風の心地よさとで眠気を催し、偶然見つけた大木の陰でひと眠りしてしまった。
ふと気づくと辺りはすでに真っ暗である。
迂闊なことにちょっとした昼寝のつもりが、ぐっすりと眠り込んでしまったようだ。夕方には宿屋に戻るつもりだったので、当然ランプの用意もない。私はいささか狼狽した。
しかし私もこの旅の間に随分と色々な経験をしたもので、さほど取り乱すこともなく来た道を引き返すことにした。
だが人間の経験というものは存外あてにならぬものらしい。ことに、見知らぬ土地のだだっ広い草原で、しかも闇の中では。
しばらく歩くと、私は道を見失ったことに気付いた。そもそも草原の中を歩いていたので道などないのだが、何処を歩いているのか皆目わからぬ。夜になるまで眠っていたものだから時刻の見当もつかぬ。腹は減っているので夕食の時間をかなり過ぎていることだけは確かである。
私はさらに歩き続けた。どれくらい経った頃だろうか。目の前にある小さな丘の向こうが、ほんのりと明るく見えた。私はようやく村の灯りを見つけたものと勢いづいて駆け出し、丘の上まで一気に登った。
そこで見た光景を私は生涯忘れないだろう。
赤や白、黄色といった光が地面いっぱいに煌いていたのである。そしてその光は、輝きというよりはむしろ優しい、温かみを帯びた光だった。
一体これは何であろうか。私は丘の上に立ったまま目を凝らして光を見つめていた。
光はまるで熾火のようにちらちらと揺らめいていたが、しばらくすると、地面に溶け込むように消えていった。そう、消えたのではなく消えていったと表現するのが正しかろう。あたかも水が紙に染み入るが如くにゆっくりと光を失っていった。
間もなくして、遠くの方から何やら鈴が鳴るような不思議な音が聞こえてきた。闇夜の草原に吹く風が止み、完全な沈黙が訪れた時だった。
どうやら空の上から聞こえてくるように思えたので夜空を見上げると、おそらくは西だと思われる方角の尾根の上から、一筋の流れ星がこちらに向かってくるのが見えた。
やがて、流れ星と共にその不思議な音は徐々に近づいてきて、どちらも私の立つ丘のすぐ上までやって来た。
見る間に辺りが明るくなったかと思うと、鈴を鳴らすような音は一際大きくなり、やがて頭上から赤や青や黄の光の球が、次から次へと目の前の草原に降りてきた。
どうすればあの美しさを伝えられるだろうか。
流れ星が、草原に慈雨の如くに優しく降り注いでいるのである。
星々が輝きを競い合う、真夏の夜の闇の中で、色とりどりの光球が大地に降りては消え、降りては消えて行く。その速度は雨よりも遅く、雪よりは速かった。
し ばらく茫然とその夢とも現ともつかぬ光景を見つめていた私は、ふと我に返ると、思わず丘を走り降り、降り注ぐ光の中に身を躍らせた。
今思えば衝動的な行動だった。だが目の前に顕現した、光の織りなす芸術に、体が勝手に動いてしまったのである。
私は頭上から舞い降りる、星の煌めきの中に立ち尽くした。
そしてそこで夢を見たのである。
いや、眠ったのではない。起きていて夢を見るという経験は初めてだったが、あれはまさに夢という他は無い。何しろ私の子供時代の光景だったのだから。
懐かしい人々、懐かしい村の姿。あの夢があのまま永遠に続いてくれたら。
いや、そんなものは感傷に過ぎない。
別れがあるからこそ出会いが尊いのは自明である。そうであればこそ、そのかけがえのない人や風景との出会いを求めて、私は旅をしているのではなかったか。
明日はこの村を発とう。
美しくも不思議な草原と別れ、新たな出会いを得る為に。
私は遂に奇跡を見た。故郷を発って以来、この旅行記にもずいぶんと不思議な場所や、神秘的な光景というものが登場してきたが、今日私が目の当たりにしたものこそ極めつけであろう。
あれこそまさに天上の輝き、およそこの世のものとは思われぬほどの美しさであった。
一体、夜空の星々がこの大地に降り注ぐなどということが起こり得るだろうか。それとも長旅続きの私の頭がどうかしてしまったのだろうか。
私は今、あの草原からほど近い、サン・テルミーヌの村でこの記録をしたためている。
モンフェトゥの山を越えてしばらく歩き、この村へ入ったのは今日の昼前だった。
村の入り口にあった酒場で軽く食事をとり、私はいつものように辺りを散策するために、この宿屋に荷物を置いて、日盛りの草原へ足を踏み入れた。
真夏とはいえこの地方は過ごしやすい気候である。眼下にメラール山系の丘陵地帯を望む草原に出ると、目に染みるような鮮やかな緑が高原の風に揺れていた。
草原は随分と広く、私はその風景の美しさに感嘆しつつさらに散策を続けていたが、やがて陽が傾き始めた頃、旅の疲れと風の心地よさとで眠気を催し、偶然見つけた大木の陰でひと眠りしてしまった。
ふと気づくと辺りはすでに真っ暗である。
迂闊なことにちょっとした昼寝のつもりが、ぐっすりと眠り込んでしまったようだ。夕方には宿屋に戻るつもりだったので、当然ランプの用意もない。私はいささか狼狽した。
しかし私もこの旅の間に随分と色々な経験をしたもので、さほど取り乱すこともなく来た道を引き返すことにした。
だが人間の経験というものは存外あてにならぬものらしい。ことに、見知らぬ土地のだだっ広い草原で、しかも闇の中では。
しばらく歩くと、私は道を見失ったことに気付いた。そもそも草原の中を歩いていたので道などないのだが、何処を歩いているのか皆目わからぬ。夜になるまで眠っていたものだから時刻の見当もつかぬ。腹は減っているので夕食の時間をかなり過ぎていることだけは確かである。
私はさらに歩き続けた。どれくらい経った頃だろうか。目の前にある小さな丘の向こうが、ほんのりと明るく見えた。私はようやく村の灯りを見つけたものと勢いづいて駆け出し、丘の上まで一気に登った。
そこで見た光景を私は生涯忘れないだろう。
赤や白、黄色といった光が地面いっぱいに煌いていたのである。そしてその光は、輝きというよりはむしろ優しい、温かみを帯びた光だった。
一体これは何であろうか。私は丘の上に立ったまま目を凝らして光を見つめていた。
光はまるで熾火のようにちらちらと揺らめいていたが、しばらくすると、地面に溶け込むように消えていった。そう、消えたのではなく消えていったと表現するのが正しかろう。あたかも水が紙に染み入るが如くにゆっくりと光を失っていった。
間もなくして、遠くの方から何やら鈴が鳴るような不思議な音が聞こえてきた。闇夜の草原に吹く風が止み、完全な沈黙が訪れた時だった。
どうやら空の上から聞こえてくるように思えたので夜空を見上げると、おそらくは西だと思われる方角の尾根の上から、一筋の流れ星がこちらに向かってくるのが見えた。
やがて、流れ星と共にその不思議な音は徐々に近づいてきて、どちらも私の立つ丘のすぐ上までやって来た。
見る間に辺りが明るくなったかと思うと、鈴を鳴らすような音は一際大きくなり、やがて頭上から赤や青や黄の光の球が、次から次へと目の前の草原に降りてきた。
どうすればあの美しさを伝えられるだろうか。
流れ星が、草原に慈雨の如くに優しく降り注いでいるのである。
星々が輝きを競い合う、真夏の夜の闇の中で、色とりどりの光球が大地に降りては消え、降りては消えて行く。その速度は雨よりも遅く、雪よりは速かった。
し ばらく茫然とその夢とも現ともつかぬ光景を見つめていた私は、ふと我に返ると、思わず丘を走り降り、降り注ぐ光の中に身を躍らせた。
今思えば衝動的な行動だった。だが目の前に顕現した、光の織りなす芸術に、体が勝手に動いてしまったのである。
私は頭上から舞い降りる、星の煌めきの中に立ち尽くした。
そしてそこで夢を見たのである。
いや、眠ったのではない。起きていて夢を見るという経験は初めてだったが、あれはまさに夢という他は無い。何しろ私の子供時代の光景だったのだから。
懐かしい人々、懐かしい村の姿。あの夢があのまま永遠に続いてくれたら。
いや、そんなものは感傷に過ぎない。
別れがあるからこそ出会いが尊いのは自明である。そうであればこそ、そのかけがえのない人や風景との出会いを求めて、私は旅をしているのではなかったか。
明日はこの村を発とう。
美しくも不思議な草原と別れ、新たな出会いを得る為に。