第9話 イオンの回想~憎悪~
文字数 1,873文字
翌日、ルネの家で僕は目を覚ました。
一瞬、自分が今どこにいるのかわからなかったけれど、茶色い木の天井を見つめていると、ルネの家に泊まったことを思い出した。
そして、ここは母さんのいない世界なんだということも思い出した。
カーテンの隙間から窓の外に目を遣ると、見慣れたいつもの風景が見えた。それなのに、もう世界中のどこを探しても母さんは見つからないんだ。
悲しくてとても眠れそうもないと思っていたのに、いつの間にか朝になっている。ベッドを借りていたルネの父さんの部屋を出て階下(した)へ降りると、おじさんたちはもう朝の支度を終えていた。卵を焼くいい匂いが漂っている。
「おはようイオン。よく眠れたかしら?」
エプロン姿のルネの母さんが、気遣わし気に挨拶した。ルネたち姉妹はまだ寝ているようだ。 時計を見て驚いた。六時を過ぎたばかりだ。今までこんなに早く起きたことなどない。
「おはようイオン。起きたばかりのところ悪いが、ちょっといいかい」
慌ただしく部屋の中を動いていたおじさんが、僕に気付いて手招きした。そしていつものように穏やかな声で言った。
「君のお母さんの葬儀は今日の午後からだ。私とアリソンは準備で何かと家を空けるが、ルネたちがいるから葬儀の時間までここで待っているといい」
僕は一番気になっている事を訊ねた。
「父さんは?」
「さっき帰ってきたよ。デュパン先生のお友達のおかげだ。最終の汽車に間に合ったらしい」
昨夜の大人たちの会話を思い出したとき、僕の目にはまた涙が溢れてきた。そしてあの時言えなかった、どうしても言わなければならない言葉を、やっと口にした。
「おじさん……。おばさん……。ありがとう」
涙声でほとんど聞き取れなかったと思うのに、ルネの両親は分かってくれた。
同じように目を真っ赤にしたおじさんとおばさんに、かわるがわる抱き締められた。
「ありがとうおじさん、おばさん。でも僕、家に帰るよ」
「ジェラールは私たち以上に忙しいぞ。大丈夫か、一人で」
「いいんだ。父さんに会いたいから」
そう言って僕は、朝食を摂って行きなさいというおばさんの好意も断って、うちに帰った。
とぼとぼ歩いて家に着くと、確かに見慣れた長身の姿があった。
「父さん……。お帰り」
声を掛けると、父さんはキッチンのテーブルで仕事をしているところだった。昨日母さんが倒れていた場所だ。
「ああ」
ペンを走らせる手を緩めず、顔も向けずに一言そういって仕事を続ける父さん。まるで何事も無かったかのようだ。横顔を覗いても、悲しんでいるようには見えなかった。
何故なんだ?
母さんが死んだのに、そのことに触れようともしないなんて。きっと母さんが具合が悪いと訴えてもこんな感じで取り合わなかったんだろう。
そう考えたとたん、僕の中で今まで感じたことのない感情が爆発した。
「何だよ! 母さんが死んだんだよ、本なんて書いてる場合なの⁉」
僕は怒りに任せて、手近なところにあった物を父さんに向かって投げつけた。後になって分かったけど、僕が投げたのは母さんが亡くなる時に頭の下に敷いていたクッションだった。
しかしそれは僕が狙ったようには飛ばず、テーブルの上に飛んで行き、父さんの手元にあったインク壜に当たった。
倒れたインク壜からは真っ黒なインクがこぼれ出し、書きかけの原稿用紙のほとんどを黒一色に染めた。クッションを投げてからここまで、ほんの一瞬の出来事だった。
父さんはゆっくりと壜を元に戻してから、キッチンの入り口に立っている僕のところへ来ると、無言で見下ろし、僕の左頬を平手で思いきり打った。
確か廊下まで吹っ飛んだように思う。とにかく僕は殴られた痛みよりも、母さんの死に全く動じない父さんに心底腹が立って、全速力で階段を駆け上がり、父さんの仕事場である書斎に飛び込んだ。
そこで僕がやったことは、今思えば本当に子供じみたことだった。書斎の本棚に収まっている本という本を片っ端から掴み出し、部屋にぶちまけた。
本なんかがあるから父さんが仕事にかまけて母さんを見殺しにしたんだ。
世の中に本なんかがあるから。作家なんていう仕事があるから!。
「母さん……!」
気が付くと僕は泣き叫んでいた。泣き叫びながら本棚の本を引っくり返し、破り捨てた。ほとんどの本は分厚い表紙に鎧われており、八才の僕の力では引き裂くことが出来なかった。二、三枚のページが虚しく千切れるばかりだったが、それでも心の底から燃え上がった怒りの炎は収まらず、僕は家を飛び出した。
父さんを絶対に許さないと呪いながら。
一瞬、自分が今どこにいるのかわからなかったけれど、茶色い木の天井を見つめていると、ルネの家に泊まったことを思い出した。
そして、ここは母さんのいない世界なんだということも思い出した。
カーテンの隙間から窓の外に目を遣ると、見慣れたいつもの風景が見えた。それなのに、もう世界中のどこを探しても母さんは見つからないんだ。
悲しくてとても眠れそうもないと思っていたのに、いつの間にか朝になっている。ベッドを借りていたルネの父さんの部屋を出て階下(した)へ降りると、おじさんたちはもう朝の支度を終えていた。卵を焼くいい匂いが漂っている。
「おはようイオン。よく眠れたかしら?」
エプロン姿のルネの母さんが、気遣わし気に挨拶した。ルネたち姉妹はまだ寝ているようだ。 時計を見て驚いた。六時を過ぎたばかりだ。今までこんなに早く起きたことなどない。
「おはようイオン。起きたばかりのところ悪いが、ちょっといいかい」
慌ただしく部屋の中を動いていたおじさんが、僕に気付いて手招きした。そしていつものように穏やかな声で言った。
「君のお母さんの葬儀は今日の午後からだ。私とアリソンは準備で何かと家を空けるが、ルネたちがいるから葬儀の時間までここで待っているといい」
僕は一番気になっている事を訊ねた。
「父さんは?」
「さっき帰ってきたよ。デュパン先生のお友達のおかげだ。最終の汽車に間に合ったらしい」
昨夜の大人たちの会話を思い出したとき、僕の目にはまた涙が溢れてきた。そしてあの時言えなかった、どうしても言わなければならない言葉を、やっと口にした。
「おじさん……。おばさん……。ありがとう」
涙声でほとんど聞き取れなかったと思うのに、ルネの両親は分かってくれた。
同じように目を真っ赤にしたおじさんとおばさんに、かわるがわる抱き締められた。
「ありがとうおじさん、おばさん。でも僕、家に帰るよ」
「ジェラールは私たち以上に忙しいぞ。大丈夫か、一人で」
「いいんだ。父さんに会いたいから」
そう言って僕は、朝食を摂って行きなさいというおばさんの好意も断って、うちに帰った。
とぼとぼ歩いて家に着くと、確かに見慣れた長身の姿があった。
「父さん……。お帰り」
声を掛けると、父さんはキッチンのテーブルで仕事をしているところだった。昨日母さんが倒れていた場所だ。
「ああ」
ペンを走らせる手を緩めず、顔も向けずに一言そういって仕事を続ける父さん。まるで何事も無かったかのようだ。横顔を覗いても、悲しんでいるようには見えなかった。
何故なんだ?
母さんが死んだのに、そのことに触れようともしないなんて。きっと母さんが具合が悪いと訴えてもこんな感じで取り合わなかったんだろう。
そう考えたとたん、僕の中で今まで感じたことのない感情が爆発した。
「何だよ! 母さんが死んだんだよ、本なんて書いてる場合なの⁉」
僕は怒りに任せて、手近なところにあった物を父さんに向かって投げつけた。後になって分かったけど、僕が投げたのは母さんが亡くなる時に頭の下に敷いていたクッションだった。
しかしそれは僕が狙ったようには飛ばず、テーブルの上に飛んで行き、父さんの手元にあったインク壜に当たった。
倒れたインク壜からは真っ黒なインクがこぼれ出し、書きかけの原稿用紙のほとんどを黒一色に染めた。クッションを投げてからここまで、ほんの一瞬の出来事だった。
父さんはゆっくりと壜を元に戻してから、キッチンの入り口に立っている僕のところへ来ると、無言で見下ろし、僕の左頬を平手で思いきり打った。
確か廊下まで吹っ飛んだように思う。とにかく僕は殴られた痛みよりも、母さんの死に全く動じない父さんに心底腹が立って、全速力で階段を駆け上がり、父さんの仕事場である書斎に飛び込んだ。
そこで僕がやったことは、今思えば本当に子供じみたことだった。書斎の本棚に収まっている本という本を片っ端から掴み出し、部屋にぶちまけた。
本なんかがあるから父さんが仕事にかまけて母さんを見殺しにしたんだ。
世の中に本なんかがあるから。作家なんていう仕事があるから!。
「母さん……!」
気が付くと僕は泣き叫んでいた。泣き叫びながら本棚の本を引っくり返し、破り捨てた。ほとんどの本は分厚い表紙に鎧われており、八才の僕の力では引き裂くことが出来なかった。二、三枚のページが虚しく千切れるばかりだったが、それでも心の底から燃え上がった怒りの炎は収まらず、僕は家を飛び出した。
父さんを絶対に許さないと呪いながら。