第8話 イオンの回想~別離~
文字数 2,230文字
こういうのを戦慄というのだろうか。
デュパン先生の一言で、僕たちの間に湧き起こった感情を言い表すとしたら、それしかない。手の施しようがない? つまり、何もできないってことか? そんなの嫌だ! 僕は横たわる母さんに泣きながら縋りついた。
「母さんお願い、死なないで! 」
胸の中に抱きしめた母さんの白い両手は、不吉なほどに冷たかった。さっきからルネの父さんが、必死になって暖炉に薪をくべて部屋を暖めてくれているし、ルネの母さんが、毛布を掛けてくれているのに。
あの時、八才の僕は、はっきりと母さんの命が尽きかけていることを悟った。
手の甲から少しずつ、温もりが消えて行く。これまで僕を抱き締め、甘えた時には頭を撫でてくれた春の日差しのような温もりが、その命と共に消えて行く。
だけどその時、思いがけないことが起こった。
母さんが僕の手を握り返した。
はっとして母さんの顔を見ると、うっすらと目を開けて微笑んでいた。それは弱弱しかったけれど、間違いなくいつも母さんが、僕に向けてくれていた優しい笑顔だった。
母さんが口を開こうとした。僕は一言も聞き漏らすまいと、右耳を近づけるために頭を寄せた。
「イオン……ごめんね」
「嫌だ! 死んじゃ嫌だ! お願い、僕を置いて行かないで! 母さん!」
「マリー! 諦めちゃだめよ!」
呼びかけるルネの母さんの声も涙声になっている。
そしてもう一度、今度は最後の力を振り絞るようにして僕の手を握り返し、苦しそうな息の下で、意外なことを言った。
「私の可愛いイオン……これだけは覚えておいてね……。お父さんは、あなたのことも、お母さんのことも、心から愛しているのよ……。わかってあげてね……」
命と引き替えてでもこれだけは言わなければならない。そう考えたように見えた。それぐらい、母さんは必死で言葉を吐き出していた。
それは、遺言だった。
母さんの命の最後の火が、今燃え尽きようとしている。否応なしにそう理解させられた。八才の子供には苛酷すぎる現実だった。
僕はもうどうしていいかわからず、ただ泣きじゃくりながらしがみつくことしかできなかったが、そんな風にしてひたすら泣き続ける僕の頭を、優しい感触が覆った。
母さんが頭を撫でてくれている。それなのに僕は顔を上げることすらできなかった。母さんの胸に顔を埋めて、永遠に失われてゆく温もりを、例え一秒でも逃したくなかったから。
このまま泣き続けていたら、神様が可哀想に思って、「今回だけだよ」と言って助けてくれるんじゃないか。そんなバカげたことまで本気で考えていた。
だけど神様は決して優しくはないんだということを、僕は思い知った。
僕の頭を撫でていた手が、ゆっくりと止まった。
「母さん? 母さん! 」
弾かれたように顔を上げる。
母さんは静かに眠っているように見えた。いや、そうあって欲しいと思っただけなのかもしれない。
駆け付けた時と同じく素早い身のこなしで、前に出てきたデュパン先生が母さんの脈をとり、聴診器を胸にあてた。そして目を伏せたまま、この時僕が最も聞きたくない言葉を発した。
「イオン……。残念じゃ……」
まるで世界からそこだけが切り離されたように、部屋中が静まり返っていた。
僕は最早泣くことも出来ず、かと言って現実を受け入れることも出来ず、ただ途方に暮れるばかりだった。
立ち上がって縋るようにルネの両親を見ると、おじさんは深く顔を伏せ、おばさんは両手で口を覆いながらすすり泣いていた。二人とも友人を亡くした悲しみに打ちひしがれているようだった。
母さんが死んでしまった。
僕は茫然としていたが、しばらくして我に返ったとき、背中に温もりを感じた。後ろを振り向くとシャルロットが両腕で抱きかかえるようにして、僕を支えてくれている。彼女はきつく目を閉じ、その頬にはポロポロと涙が流れていた。
しばらく全員がそのまま立ち尽くしていた。
どれぐらいそうしていただろうか。やがて一番に口を開いたのはデュパン先生だった。
「とにかくジェラールに報(しら)せんと」
独り言のような呟きだった。
「ええ。明日の朝一番でホテルに電報を打ちます。今すぐ連絡がつくなら最終の汽車に間に合うかも知れませんが」
おじさんの悔しそうなその言葉に皆が、キッチンの壁に掛けられた時計を見た。前に父さんが小説で何かの有名な賞をもらった時に、町長さんから贈られた時計だ。
午後十時二十分過ぎだった。
不意にデュパン先生が大声を出した。
「そうじゃ! わしの友人が自前の電信機をもっておる。そいつに頼んでホテルに直接電報を打とう。なに構わん、非常の際じゃ。気のいい奴じゃから事情を話せばこんな時間でも必ず力になってくれる」
「本当ですか。助かります。その方のお住まいはこの近くですか」
「うむ。わしの家のすぐ近くじゃ。ジェラールが泊まっとるホテルは確か『ラ・エテルニテ』じゃったな。早速行ってくるわい」
すぐ戻ってくるからな、と言い残すと先生は本当にそのまま走って出て行ってしまった。
「これからのことだが……」
デュパン先生を見送ったあと、残った僕らを集めておじさんが切り出した。
「これからのことだが、ジェラールはいないが、マリーを教会へ運ばなくてはならない。私がドニエ神父に報せてくるから、マリーを運んだあと、イオンも一緒に私たちの家へ帰ろう。今夜はうちに泊まるといい」
僕はただ頷くことしかできなかった。
デュパン先生の一言で、僕たちの間に湧き起こった感情を言い表すとしたら、それしかない。手の施しようがない? つまり、何もできないってことか? そんなの嫌だ! 僕は横たわる母さんに泣きながら縋りついた。
「母さんお願い、死なないで! 」
胸の中に抱きしめた母さんの白い両手は、不吉なほどに冷たかった。さっきからルネの父さんが、必死になって暖炉に薪をくべて部屋を暖めてくれているし、ルネの母さんが、毛布を掛けてくれているのに。
あの時、八才の僕は、はっきりと母さんの命が尽きかけていることを悟った。
手の甲から少しずつ、温もりが消えて行く。これまで僕を抱き締め、甘えた時には頭を撫でてくれた春の日差しのような温もりが、その命と共に消えて行く。
だけどその時、思いがけないことが起こった。
母さんが僕の手を握り返した。
はっとして母さんの顔を見ると、うっすらと目を開けて微笑んでいた。それは弱弱しかったけれど、間違いなくいつも母さんが、僕に向けてくれていた優しい笑顔だった。
母さんが口を開こうとした。僕は一言も聞き漏らすまいと、右耳を近づけるために頭を寄せた。
「イオン……ごめんね」
「嫌だ! 死んじゃ嫌だ! お願い、僕を置いて行かないで! 母さん!」
「マリー! 諦めちゃだめよ!」
呼びかけるルネの母さんの声も涙声になっている。
そしてもう一度、今度は最後の力を振り絞るようにして僕の手を握り返し、苦しそうな息の下で、意外なことを言った。
「私の可愛いイオン……これだけは覚えておいてね……。お父さんは、あなたのことも、お母さんのことも、心から愛しているのよ……。わかってあげてね……」
命と引き替えてでもこれだけは言わなければならない。そう考えたように見えた。それぐらい、母さんは必死で言葉を吐き出していた。
それは、遺言だった。
母さんの命の最後の火が、今燃え尽きようとしている。否応なしにそう理解させられた。八才の子供には苛酷すぎる現実だった。
僕はもうどうしていいかわからず、ただ泣きじゃくりながらしがみつくことしかできなかったが、そんな風にしてひたすら泣き続ける僕の頭を、優しい感触が覆った。
母さんが頭を撫でてくれている。それなのに僕は顔を上げることすらできなかった。母さんの胸に顔を埋めて、永遠に失われてゆく温もりを、例え一秒でも逃したくなかったから。
このまま泣き続けていたら、神様が可哀想に思って、「今回だけだよ」と言って助けてくれるんじゃないか。そんなバカげたことまで本気で考えていた。
だけど神様は決して優しくはないんだということを、僕は思い知った。
僕の頭を撫でていた手が、ゆっくりと止まった。
「母さん? 母さん! 」
弾かれたように顔を上げる。
母さんは静かに眠っているように見えた。いや、そうあって欲しいと思っただけなのかもしれない。
駆け付けた時と同じく素早い身のこなしで、前に出てきたデュパン先生が母さんの脈をとり、聴診器を胸にあてた。そして目を伏せたまま、この時僕が最も聞きたくない言葉を発した。
「イオン……。残念じゃ……」
まるで世界からそこだけが切り離されたように、部屋中が静まり返っていた。
僕は最早泣くことも出来ず、かと言って現実を受け入れることも出来ず、ただ途方に暮れるばかりだった。
立ち上がって縋るようにルネの両親を見ると、おじさんは深く顔を伏せ、おばさんは両手で口を覆いながらすすり泣いていた。二人とも友人を亡くした悲しみに打ちひしがれているようだった。
母さんが死んでしまった。
僕は茫然としていたが、しばらくして我に返ったとき、背中に温もりを感じた。後ろを振り向くとシャルロットが両腕で抱きかかえるようにして、僕を支えてくれている。彼女はきつく目を閉じ、その頬にはポロポロと涙が流れていた。
しばらく全員がそのまま立ち尽くしていた。
どれぐらいそうしていただろうか。やがて一番に口を開いたのはデュパン先生だった。
「とにかくジェラールに報(しら)せんと」
独り言のような呟きだった。
「ええ。明日の朝一番でホテルに電報を打ちます。今すぐ連絡がつくなら最終の汽車に間に合うかも知れませんが」
おじさんの悔しそうなその言葉に皆が、キッチンの壁に掛けられた時計を見た。前に父さんが小説で何かの有名な賞をもらった時に、町長さんから贈られた時計だ。
午後十時二十分過ぎだった。
不意にデュパン先生が大声を出した。
「そうじゃ! わしの友人が自前の電信機をもっておる。そいつに頼んでホテルに直接電報を打とう。なに構わん、非常の際じゃ。気のいい奴じゃから事情を話せばこんな時間でも必ず力になってくれる」
「本当ですか。助かります。その方のお住まいはこの近くですか」
「うむ。わしの家のすぐ近くじゃ。ジェラールが泊まっとるホテルは確か『ラ・エテルニテ』じゃったな。早速行ってくるわい」
すぐ戻ってくるからな、と言い残すと先生は本当にそのまま走って出て行ってしまった。
「これからのことだが……」
デュパン先生を見送ったあと、残った僕らを集めておじさんが切り出した。
「これからのことだが、ジェラールはいないが、マリーを教会へ運ばなくてはならない。私がドニエ神父に報せてくるから、マリーを運んだあと、イオンも一緒に私たちの家へ帰ろう。今夜はうちに泊まるといい」
僕はただ頷くことしかできなかった。