第7話 イオンの回想~母の容態~
文字数 1,894文字
外に出ると、雪が降りだしていた。部屋の温度も、中にいる人の気持ちも暖かなルネの家から凍えるような闇の中に戻ると、さっきまでの不安と恐ろしさまで戻ってきたような気になる。
急がなきゃ。
ルネの母さんとシャルロットが、デュパン先生の医院のある方へ走って行く。僕も駆けだそうとした時、おじさんが声を掛けてきた。
「悪いがイオン、先に行ってるぞ」
大人の方が足が速いのだから当然の判断だった。おじさんは全速力で雪の夜の中を遠ざかっていった。
家まで走っている途中、あることに気づいた。
さっきおじさんは、僕を見るなり『マリーがどうかしたのか』と確かに言った。何故母さんに何かあったとわかったんだろう。それに、もう一つ気になることがあった。
おばさんもヴァレリーも、僕が突然駆け込んだのに、驚いているようには見えなかったんだ。緊張した顔をしていたけど、何が起こったかは理解していたように思えた。いや、というよりもむしろ、予期していたことが起こった、という雰囲気だった。
何故だろう、とその時は思ったけど、考えてみればそんなに不思議でもないか。母さんと、ルネの母さんは仲が良かったから、よくお茶を飲みにお互いの家を行き来していたし。体調のことも聞いていたのかも知れない。
雪は降り続いていた。しばらくすると、暗闇の向こうに仄かなガス灯の灯りが揺れているのがわかった。もうすぐだ。
薔薇の生垣に囲われた家がある角を曲がると、僕の家が見えてきた。
ドアを開けると、先に着いていたおじさんの声が聞こえた。
「マリー、しっかりしろ! 目を開けてくれ! 」
キッチンに僕が入ってきたことに気付いたルネの父さんは、僕にブランデーを持ってくるように言った。すぐにお酒の壜が並んでいる戸棚から、普段父さんが飲んでいるブランデーを取り出して渡すと、おじさんは右手で母さんの頭を支えながら、左手で器用に壜の蓋を外して、母さんの口にゆっくりと琥珀色の液体を含ませた。
僕たちは待った。母さんがもう一度目を開けてくれるのを。
そして祈った。もう一度僕の名前を呼んでくれるのを。
時計を見る余裕すらなかったので、どれぐらいの時間が経ったのかわからない。実際にはたぶん二、三分のことだったのだろう。まるで永遠に時が止まってしまったような気がしていた。
僕たちの祈りは通じた。少なくともその時は。
母さんの目が開いたんだ。
「母さん! 僕だよ、わかる? 」
「良かった。気が付いたか」
母さんの目はまだ半分くらい閉じたままだったし、表情は虚ろだったけど、僕とルネの父さんの二人の顔を、確かに見た。そして何かを言おうと口を開いた。でも、声は出なかった。
僕は近くの椅子から、綿の入ったキルト地のクッションを持ってきて、ずっとおじさんが支えていた母さんの頭の下にゆっくりと滑り込ませた。それは前に母さんが僕に作ってくれたものだ。
その時、慌ただしく玄関のドアが開いて、誰かが駆け込んでくるのが分かった。急ぎ足で床を踏み鳴らす音と共に、担任のヴァロワ先生を思わせる大声が響き渡る。
「イオン、マリー、どこにおる! 」
近くの開業医アロイス・デュパン先生だった。ルネの母さんたちが連れてきてくれたのだろう。足音は他にも聞こえた。僕は先生を迎えに廊下へ飛んで行った。
「先生こっちだよ、早く来て! 母さんが大変なんだ! 」
僕の声に先生は厳しい表情の張り付いた顔をこちらに振り向けた。いつもの温厚な雰囲気とはうって変わった姿だった。
ずっと走ってきたようで、小太りの先生は冬の夜だというのに額に汗を浮かべている。その後ろからルネの母さんと、ルネの一番上の姉さんのシャルロットが軽く息を切らせながら、続いて入ってきた。
デュパン先生はキッチンに入ってくると、体に似合わないほどの素早さで母さんのそばへ寄り、膝をついて、慎重に母さんの左手の脈をとった。
「むう……。これはいかんな。」
深刻そうに発したデュパン先生の言葉に、僕の頭は真っ白になった。いや、真っ暗と言った方が正しいのかも知れない。とにかく、何も考えられなくなり、母さんの足元に、ぺたりとしゃがみこんでしまった。
先生は持って来ていた黒い鞄から、注射器をだして、ゆっくりと母さんの左腕に針を刺した。そして、注射を終えると今度は聴診器を胸にあてた。ずっと険しい顔をしている。
「先生、どんな具合でしょうか。」
遠慮がちに問いかけたおばさんの声は、わずかに震えていたと思う。聴診器を操る手を止めて、デュパン先生は目を伏せ、押し殺した声でこう言った。
「すまん……。これはもう、手の施しようがない……。」
急がなきゃ。
ルネの母さんとシャルロットが、デュパン先生の医院のある方へ走って行く。僕も駆けだそうとした時、おじさんが声を掛けてきた。
「悪いがイオン、先に行ってるぞ」
大人の方が足が速いのだから当然の判断だった。おじさんは全速力で雪の夜の中を遠ざかっていった。
家まで走っている途中、あることに気づいた。
さっきおじさんは、僕を見るなり『マリーがどうかしたのか』と確かに言った。何故母さんに何かあったとわかったんだろう。それに、もう一つ気になることがあった。
おばさんもヴァレリーも、僕が突然駆け込んだのに、驚いているようには見えなかったんだ。緊張した顔をしていたけど、何が起こったかは理解していたように思えた。いや、というよりもむしろ、予期していたことが起こった、という雰囲気だった。
何故だろう、とその時は思ったけど、考えてみればそんなに不思議でもないか。母さんと、ルネの母さんは仲が良かったから、よくお茶を飲みにお互いの家を行き来していたし。体調のことも聞いていたのかも知れない。
雪は降り続いていた。しばらくすると、暗闇の向こうに仄かなガス灯の灯りが揺れているのがわかった。もうすぐだ。
薔薇の生垣に囲われた家がある角を曲がると、僕の家が見えてきた。
ドアを開けると、先に着いていたおじさんの声が聞こえた。
「マリー、しっかりしろ! 目を開けてくれ! 」
キッチンに僕が入ってきたことに気付いたルネの父さんは、僕にブランデーを持ってくるように言った。すぐにお酒の壜が並んでいる戸棚から、普段父さんが飲んでいるブランデーを取り出して渡すと、おじさんは右手で母さんの頭を支えながら、左手で器用に壜の蓋を外して、母さんの口にゆっくりと琥珀色の液体を含ませた。
僕たちは待った。母さんがもう一度目を開けてくれるのを。
そして祈った。もう一度僕の名前を呼んでくれるのを。
時計を見る余裕すらなかったので、どれぐらいの時間が経ったのかわからない。実際にはたぶん二、三分のことだったのだろう。まるで永遠に時が止まってしまったような気がしていた。
僕たちの祈りは通じた。少なくともその時は。
母さんの目が開いたんだ。
「母さん! 僕だよ、わかる? 」
「良かった。気が付いたか」
母さんの目はまだ半分くらい閉じたままだったし、表情は虚ろだったけど、僕とルネの父さんの二人の顔を、確かに見た。そして何かを言おうと口を開いた。でも、声は出なかった。
僕は近くの椅子から、綿の入ったキルト地のクッションを持ってきて、ずっとおじさんが支えていた母さんの頭の下にゆっくりと滑り込ませた。それは前に母さんが僕に作ってくれたものだ。
その時、慌ただしく玄関のドアが開いて、誰かが駆け込んでくるのが分かった。急ぎ足で床を踏み鳴らす音と共に、担任のヴァロワ先生を思わせる大声が響き渡る。
「イオン、マリー、どこにおる! 」
近くの開業医アロイス・デュパン先生だった。ルネの母さんたちが連れてきてくれたのだろう。足音は他にも聞こえた。僕は先生を迎えに廊下へ飛んで行った。
「先生こっちだよ、早く来て! 母さんが大変なんだ! 」
僕の声に先生は厳しい表情の張り付いた顔をこちらに振り向けた。いつもの温厚な雰囲気とはうって変わった姿だった。
ずっと走ってきたようで、小太りの先生は冬の夜だというのに額に汗を浮かべている。その後ろからルネの母さんと、ルネの一番上の姉さんのシャルロットが軽く息を切らせながら、続いて入ってきた。
デュパン先生はキッチンに入ってくると、体に似合わないほどの素早さで母さんのそばへ寄り、膝をついて、慎重に母さんの左手の脈をとった。
「むう……。これはいかんな。」
深刻そうに発したデュパン先生の言葉に、僕の頭は真っ白になった。いや、真っ暗と言った方が正しいのかも知れない。とにかく、何も考えられなくなり、母さんの足元に、ぺたりとしゃがみこんでしまった。
先生は持って来ていた黒い鞄から、注射器をだして、ゆっくりと母さんの左腕に針を刺した。そして、注射を終えると今度は聴診器を胸にあてた。ずっと険しい顔をしている。
「先生、どんな具合でしょうか。」
遠慮がちに問いかけたおばさんの声は、わずかに震えていたと思う。聴診器を操る手を止めて、デュパン先生は目を伏せ、押し殺した声でこう言った。
「すまん……。これはもう、手の施しようがない……。」