第6話 イオンの回想~あの日の夜~
文字数 2,732文字
僕が八才の時に、母さんは死んだ。
結局何の病気だったのかよくわからない。ただ一つ間違い無いのは、父さんが死なせたようなものだということ。
あの日のことは今でもはっきりと覚えている。
十二月の寒い夜、母さんと二人で夕食をとったあと、僕は二階の自分の部屋で学校の宿題をしているところだった。突然階下から椅子が倒れるような大きな物音が聞こえたので降りてみると、キッチンのテーブルの横で母さんがうつ伏せに倒れていた。
最初はただ何かにつまずいて、こけてしまったのかと思って、
「どうしたの母さん。大丈夫?」
と、軽く声をかけただけだったが、すぐに思い出した。ここ数日、母さんは調子が悪い日が続いていたことを。
いくら呼んでも起き上がらない。それどころか、返事すらしなかった。おかしいと思って慌てて駆け寄り、助け起こそうとしたら、体には全く力が入っていなかった。肩を揺すっても目を開けてくれない。恐る恐る胸に耳を当ててみると、心臓の音は微かに聞こえた気がした。
父さんは仕事でルテティアに行っており、帰って来るのは次の日ぐらいになる予定だったと思う。
僕はどうしていいかわからず、必死で考えをめぐらせたが、真っ先に思い浮かんだのはルネの家だった。ルネの家族とは本当に仲良しで、いつもお互い助け合っていた。この時も、父さんが旅立った後、ルネのお父さんが家をたずねてきて、
「何か困ったことがあったら、いつでもおいで」
と、言ってくれていた。今思えば、父さんが仕事で家を空けるのはよくあることなのに、この時に限ってわざわざ訪ねてきたのは、珍しいことだったかも知れない。
「ちょっと待ってて。すぐに助けを呼んでくる」
返事を待つゆとりなどなく、僕は家を飛び出した。
真っ暗な夜の道は、まるでこれから恐ろしい事が起こることを予言しているようだった。
凍てついた空気の中を全速力で走りながら、僕は涙を必死でこらえていた。母さんが死んだらどうしよう。それだけを考えていた。ルネの家までの道は、いつも遊びに行くときは、歩いてもあっという間に着くぐらい近くなのに、その時に限って何故か、果てしなく遠い距離に思えた。
母さんは元々は決して病弱というほどのことは無かったと思うが、この一、二年ほど前から病気がちだった気がする。なのに何故か医者にはほとんど掛かろうとしなかったので、心配していたのだった。近くで医院を開いているデュパン先生に診てもらうようにいくら勧めても、いつもこう言って、はぐらかすのだった。
「大丈夫よ。ただ疲れているぐらいでお医者様に掛かっていたら、先生に怒られちゃうわよ」
滅多に書斎から出てこない父さんを捕まえて、母さんの体調のことを話しても、
「母さんのことは、母さんに任せている」
そう言うだけで、何一つ気に掛けているようには見えなかった。そしてその後に続けた言葉を、僕は一生忘れないだろう。
「今仕事が忙しいんだ。つまらんことでいちいち呼ぶな」
つまらんこと?
結局、父さんは母さんのことなんかどうでもいいんだ。
僕は走りながら、父さんへの怒りを募らせていた。
冬の夜更けだったせいか誰とも出会うことなく、ルネの家に着いた。
慣れ親しんだ木製のドアを照らす、ランプから漏れる暖かな光が、取り乱した僕の心をほんの少しだけ和らげてくれた。それはまるで、嵐の海から必死で逃げ帰って来た小舟が、ようやく身を寄せた小さな港の灯りのようだった。小さくても暖かく、決して荒波の来ない安息の場所。
「おじさん! おばさん! お願い助けて! 」
ドアを思いきり叩きながら、叫んだ。時間はたぶん九時を回ったころだったと思う。僕の声は静まり返った夜の街に響き渡っていた。
しばらくして、いくつかの小走りのような足音がドアの向こうから聞こえてきたかと思うと、
「イオンじゃないか。マリーがどうかしたのか」
ドアが開くなり、寝間着姿をしたルネの父さんが緊張した声で聞いてきた。僕は夢中で頷き、おじさんにすがりついた。
「母さんが倒れたんだ。呼んでも全然返事しないんだよ! 」
それを聞いたおじさんは、いつもの陽気な顔からは程遠い、ひどく険しい表情を一瞬みせたものの、すぐに優しい声で、
「わかった。一緒に行こう」
と言ってくれた。そして後ろで心配そうに見つめているおばさんを呼んだ。
「アリソン。やはり行かなきゃならないようだ。すまないが、君はシャルロットと一緒にデュパン先生をジェラールの家まで連れてきてくれ」
と、そこまで言ってから、
「ヴァレリー、ヴァレリーはいるか」
「はい、お父さん」
名前を呼ばれて、すらりとした長身の女の子が階段から降りてきた。ルネの二番目の姉さんで、四才年上のヴァレリーだ。どうやら大体の事情は察したらしく、緊張した様子だった。いつもはとっても明るく、話していて楽しい人なのに。
僕は兄弟がいないけれど、シャルロットにもヴァレリーにも、実の姉のようによく遊んでもらっていた。
「父さん達はこれからジェラールの家に行ってくる。遅くなるかもしれないから、お前はルネと一緒に、先に寝ていなさい」
「戸締りをちゃんとしてね」
ルネと同じ色の髪をしたおばさんが、毛糸のショールを肩に掛けながら言った。
テキパキと指示を出すルネの両親の姿を見て、ルネの父さんが僕の父さんだったらよかったのに、と思ったのを覚えている。
おばさんがまっすぐ僕の目を見ながら、優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫よイオン。私たちがついていますからね。何も心配はいらないのよ」
その暖かな声に、僕はここまで必死でこらえていた涙をあふれさせてしまった。
こんな夜遅くにいきなり助けを求めて飛び込んできた僕を、みんな嫌な顔も見せずに受け入れ、家まで一緒に来てくれる。なぜこの人たちはこんなにも優しいんだろう。自分の父親には冷たくされているのに、他人であるこの人たちが、僕に安らぎを与えてくれる。
僕はどうすればこの優しさに報いられるんだろう。
そう考えると、涙は止まるどころかさらに込み上げてきた。
もし立場が逆で、ルネが家に助けを求めてきたら僕の父さんは、どうするだろう。ドアも開けずに追い返したりしたら……。
いや待てよ。父さんは何故かいつも、ルネやルネの二人の姉さん達には優しかったような気がするぞ。
「さあ行こうイオン。お母さんが待ってるぞ」
素早く着替えたおじさんに声を掛けられ、はい、と頷いて部屋の方を振り返ると、ルネが立っていた。泣きだしそうな顔でこっちを見ている。目が合って何か言いかけたようだったが、
「おやすみ。ルネ」
僕は彼女に一言だけそう言うと、おじさんと一緒に家へと駆け戻った。
ルネに泣き顔は見せたくなかった。
結局何の病気だったのかよくわからない。ただ一つ間違い無いのは、父さんが死なせたようなものだということ。
あの日のことは今でもはっきりと覚えている。
十二月の寒い夜、母さんと二人で夕食をとったあと、僕は二階の自分の部屋で学校の宿題をしているところだった。突然階下から椅子が倒れるような大きな物音が聞こえたので降りてみると、キッチンのテーブルの横で母さんがうつ伏せに倒れていた。
最初はただ何かにつまずいて、こけてしまったのかと思って、
「どうしたの母さん。大丈夫?」
と、軽く声をかけただけだったが、すぐに思い出した。ここ数日、母さんは調子が悪い日が続いていたことを。
いくら呼んでも起き上がらない。それどころか、返事すらしなかった。おかしいと思って慌てて駆け寄り、助け起こそうとしたら、体には全く力が入っていなかった。肩を揺すっても目を開けてくれない。恐る恐る胸に耳を当ててみると、心臓の音は微かに聞こえた気がした。
父さんは仕事でルテティアに行っており、帰って来るのは次の日ぐらいになる予定だったと思う。
僕はどうしていいかわからず、必死で考えをめぐらせたが、真っ先に思い浮かんだのはルネの家だった。ルネの家族とは本当に仲良しで、いつもお互い助け合っていた。この時も、父さんが旅立った後、ルネのお父さんが家をたずねてきて、
「何か困ったことがあったら、いつでもおいで」
と、言ってくれていた。今思えば、父さんが仕事で家を空けるのはよくあることなのに、この時に限ってわざわざ訪ねてきたのは、珍しいことだったかも知れない。
「ちょっと待ってて。すぐに助けを呼んでくる」
返事を待つゆとりなどなく、僕は家を飛び出した。
真っ暗な夜の道は、まるでこれから恐ろしい事が起こることを予言しているようだった。
凍てついた空気の中を全速力で走りながら、僕は涙を必死でこらえていた。母さんが死んだらどうしよう。それだけを考えていた。ルネの家までの道は、いつも遊びに行くときは、歩いてもあっという間に着くぐらい近くなのに、その時に限って何故か、果てしなく遠い距離に思えた。
母さんは元々は決して病弱というほどのことは無かったと思うが、この一、二年ほど前から病気がちだった気がする。なのに何故か医者にはほとんど掛かろうとしなかったので、心配していたのだった。近くで医院を開いているデュパン先生に診てもらうようにいくら勧めても、いつもこう言って、はぐらかすのだった。
「大丈夫よ。ただ疲れているぐらいでお医者様に掛かっていたら、先生に怒られちゃうわよ」
滅多に書斎から出てこない父さんを捕まえて、母さんの体調のことを話しても、
「母さんのことは、母さんに任せている」
そう言うだけで、何一つ気に掛けているようには見えなかった。そしてその後に続けた言葉を、僕は一生忘れないだろう。
「今仕事が忙しいんだ。つまらんことでいちいち呼ぶな」
つまらんこと?
結局、父さんは母さんのことなんかどうでもいいんだ。
僕は走りながら、父さんへの怒りを募らせていた。
冬の夜更けだったせいか誰とも出会うことなく、ルネの家に着いた。
慣れ親しんだ木製のドアを照らす、ランプから漏れる暖かな光が、取り乱した僕の心をほんの少しだけ和らげてくれた。それはまるで、嵐の海から必死で逃げ帰って来た小舟が、ようやく身を寄せた小さな港の灯りのようだった。小さくても暖かく、決して荒波の来ない安息の場所。
「おじさん! おばさん! お願い助けて! 」
ドアを思いきり叩きながら、叫んだ。時間はたぶん九時を回ったころだったと思う。僕の声は静まり返った夜の街に響き渡っていた。
しばらくして、いくつかの小走りのような足音がドアの向こうから聞こえてきたかと思うと、
「イオンじゃないか。マリーがどうかしたのか」
ドアが開くなり、寝間着姿をしたルネの父さんが緊張した声で聞いてきた。僕は夢中で頷き、おじさんにすがりついた。
「母さんが倒れたんだ。呼んでも全然返事しないんだよ! 」
それを聞いたおじさんは、いつもの陽気な顔からは程遠い、ひどく険しい表情を一瞬みせたものの、すぐに優しい声で、
「わかった。一緒に行こう」
と言ってくれた。そして後ろで心配そうに見つめているおばさんを呼んだ。
「アリソン。やはり行かなきゃならないようだ。すまないが、君はシャルロットと一緒にデュパン先生をジェラールの家まで連れてきてくれ」
と、そこまで言ってから、
「ヴァレリー、ヴァレリーはいるか」
「はい、お父さん」
名前を呼ばれて、すらりとした長身の女の子が階段から降りてきた。ルネの二番目の姉さんで、四才年上のヴァレリーだ。どうやら大体の事情は察したらしく、緊張した様子だった。いつもはとっても明るく、話していて楽しい人なのに。
僕は兄弟がいないけれど、シャルロットにもヴァレリーにも、実の姉のようによく遊んでもらっていた。
「父さん達はこれからジェラールの家に行ってくる。遅くなるかもしれないから、お前はルネと一緒に、先に寝ていなさい」
「戸締りをちゃんとしてね」
ルネと同じ色の髪をしたおばさんが、毛糸のショールを肩に掛けながら言った。
テキパキと指示を出すルネの両親の姿を見て、ルネの父さんが僕の父さんだったらよかったのに、と思ったのを覚えている。
おばさんがまっすぐ僕の目を見ながら、優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫よイオン。私たちがついていますからね。何も心配はいらないのよ」
その暖かな声に、僕はここまで必死でこらえていた涙をあふれさせてしまった。
こんな夜遅くにいきなり助けを求めて飛び込んできた僕を、みんな嫌な顔も見せずに受け入れ、家まで一緒に来てくれる。なぜこの人たちはこんなにも優しいんだろう。自分の父親には冷たくされているのに、他人であるこの人たちが、僕に安らぎを与えてくれる。
僕はどうすればこの優しさに報いられるんだろう。
そう考えると、涙は止まるどころかさらに込み上げてきた。
もし立場が逆で、ルネが家に助けを求めてきたら僕の父さんは、どうするだろう。ドアも開けずに追い返したりしたら……。
いや待てよ。父さんは何故かいつも、ルネやルネの二人の姉さん達には優しかったような気がするぞ。
「さあ行こうイオン。お母さんが待ってるぞ」
素早く着替えたおじさんに声を掛けられ、はい、と頷いて部屋の方を振り返ると、ルネが立っていた。泣きだしそうな顔でこっちを見ている。目が合って何か言いかけたようだったが、
「おやすみ。ルネ」
僕は彼女に一言だけそう言うと、おじさんと一緒に家へと駆け戻った。
ルネに泣き顔は見せたくなかった。