文字数 3,357文字

 東の空が白々と明け始める。ゆるゆると稜線が浮かび上がり、その山頂を覆う見事な雲海が、顔を覗かせた朝日に照らされ黄金色に染まっていく。
 蝶番の音が朝靄に煙る空に小さく響いた。大きなスポーツバッグを抱えた少年が、建物の裏手にある寮生専用の出入り口へと駆け出していく。
 夏休みに突入した学園はとても静かで、早朝ということも相まって小さな物音ですら殊更大げさに響いた。
 抱えていたバッグを足元へ一度下ろし、アルミ製の門扉を押し開ける。今度は音を立てずに済んだ。早朝の出発であることはすでに舎監へ連絡済みではあるが、就寝中であろう時間帯に音を立てながら出て行くのはいささか気が引ける。
 少年はふうと小さく安堵の息を吐き、下ろしたばかりのスポーツバッグを抱え上げた。
 薄手のパーカーの袖口を捲ると、フルメタルでごつごつとした腕時計が現れた。G−SHOCKと赤いロゴの入ったデジタルとアナログのコンビネーションモデルの時計だ。
 時間は5時40分。学園から山裾の町まで徒歩なら30分ほどで到着する。休まず走ればかなり時間を短縮出来ると思った少年はシューズの履き心地を確かめた後、まだ薄暗い道路へ駆け出した。
 すぐに背後に見えていた塀やその向こうの寮が靄の中に消えていく。
 路面からじっとりと湿った空気が湧き出してきて、少年は足を止めた。靄が身体へ纏わりついてくる。少年は闇雲に両腕を振り回しながら、白い気体を叩き落とそうと懸命だ。
「なにか困っているのかな?」
 とつぜん声を掛けられた少年は、息を呑むような短い悲鳴を上げた。
 靄の中に人影が見えた。
「驚かすなよ。なぁ、なんかこの靄って変じゃないか?」
 激しく脈打つ心臓の上を擦りながら、少年は声の主へと答えた。彼が安堵の表情を浮かべ、靄を払うのを止めたのはそれが知っている男の声だったからだ。
「生き物みたいで気持ち悪いったらないよ」
「生き物? この靄が、かい?」
「とつぜん湧いてきたと思ったら、次は身体に纏わりついてくるとか気持ち悪くね?」
「それはきみが走っていたからじゃないのか? 走れば身体の周囲に気流が発生するだろう。それに靄が巻き込まれて、まるできみの身体に纏わりついてくるように錯覚したんじゃないのかな」
 黒い影の輪郭がやがてはっきりとし、見知った顔が現れた。やはり彼だった。同じクラスなのに話すきっかけがなくて、挨拶以外言葉を交わすことのない留学生だ。
「出発するのが早いんだね。きみの家って、遠いのかい?」
「まあな。乗り継ぎ3回とかどんだけ田舎なんだよって。でも国内だからアンタに比べれば近いからまだマシかになんのかな。それより……えらく早起きなんだな。健康的にジョギング?」
 そう言って彼の服装をまじまじと見る。濃紺のシャツとデニムの組み合わせに真新しい革靴を履いていた。明らかにジョギングではないとわかるし、散歩というのも有り得なさそうだった。
 学園の敷地からさほど離れていないとはいえ、山中の道路で出くわすにはなんだか不自然な気がした。漠然とした疑問を抱いていると、くつくつと楽しげな笑い声が降ってきてクラスメイトの顔を見た。
「夜歩きは友人に止められているからね。だから明け方に出歩くようにしているんだよ」
 意味がわからずに首を傾げた。
 宵闇の瞳がゆっくりと細められるのを黙って眺めていた。
「こうでもしないと会話すらできないんだよ」
「普通に声をかければいいんじゃないの?」
「“普通に”? こちらに邪な想いがあったとしてもかい?」
「邪って……いったいどういう意味だよ」
「わからないなら、それはそれでいい。せっかくの朝靄で人目のない早朝というシチュエーションだ。これを使わないわけにはいかないだろう?」
 級友の声が急に低くなる。鼻にかかった甘い響きは靄を従わせ、やわやわと少年の自由を奪っていく。
「苦痛は与えないから安心していい。きみはただ黙ってその身体を差し出せばいいんだからね。与えられた快楽に溺れるだけだから容易いことだろう?」
 少年の顔に恐怖の色がありありと浮かぶ。
「もっと詳しい説明が必要かい?」
 濃くなっていく靄の中で少年の首が横へと振られる。
「残念だな。知っていれば尚感じられるのに……。自慰で得る絶頂よりも、女が与えてくれる窮みよりも更なる深みへ導いてやれるのに……残念だよ」
 二人の頭上を、数羽の山鳩がけたたましい鳴き声を上げながら飛び去っていく。命乞いする少年の言葉は鳥の声でかき消され、甲高い悲鳴はまるで細い糸がふっつりと切れるように靄の向こうへと消えた。

 重厚な木製の扉を開くと、正面に石造りの聖壇が見える。その中央には十字架が置かれ、両脇には瑞々しい白百合が生けられていた。
 漆喰の壁に穿たれたステンドグラスの窓から、蔦越しに柔らかな日差しが差し込んでいる。
 その明かりの中に探し人をみつけた。
「ここにいたんだ、クリス。ずいぶん探したんだよ?」
 秀の声が礼拝堂の中で木霊する。人気がないとこうも響くのかと、驚いた顔を見せながら秀は聖壇の方へと駆け寄った。
 胸元で十字を切る仕草を見せてクリシュトフが立ち上がった。
「素晴らしい礼拝堂だね。管理も行き届いているし、あの花模様のステンドグラスは見事な出来だ」
 振り仰いだ先にはステンドグラスの丸窓があった。この礼拝堂はジャコビアン様式の講堂と共に、学園の古き良き時代を物語る建造物のひとつでもある。
 秀は得意げな顔で、これが聖公会の特徴なのだと語った。
「ここでなにをしてたんだ?」
 学園の敷地内にあるからといって終始利用されているわけではない。元々ミッション系の学校ではあったが、その宗教性は皆無に近い。広く門戸を広げたおかげで、いろいろな宗教や宗派の生徒が通うようになっているのが現実だ。
 この礼拝堂も、利用される行事といえば時折開催されるパイプオルガンのコンサートくらいのもので、礼拝する生徒の姿を稀にみかける程度だった。
 だが彼の信仰がイギリス国教に関連していてもおかしくないわけだし、そこの辺りにヤマを張った秀が礼拝堂へ探しに来てみたら案の定いたというわけだ。
「告解をしていた」
「告解?」
 聞き慣れない言葉に秀が首を捻る。秀もまたミッション系とは縁のない家庭で育った生徒の一人なのだ。
「ラディエニエを行った後、かならず告解をしなければならないのが決まりなんだ」
「ラディ……エ……ニエ……?」
 次はどこの国の言葉かもわからないものまで飛び出してきて、秀は首を捻るどころか眉を顰めた。
「それってすっごい大切なことなのか?」
「俺が信仰する宗派ではとても重要なことだ。告解そのものはサクラメントの一つでね。キリスト教では普通に行われていることだよ」
「クリスが信仰してんのもキリスト教なのか?」
 質問好きの友人の問いに、クリシュトフは目を細めて笑った。
「とても小さな宗派だよ。ロシアのヴォルガ河の上流地方で派生した宗派なんだ」
「名前を聞いてもいいかな」
「知らないと思うよ。それでも聞きたいかい?」
 秀は照れくさそうに頷いた。
「フルイストゥイ派というんだよ」
 本当に知らなかった。聞き覚えもない。こういう学園にいればなんとなくでも耳に入ってくるキリスト教の宗派のあれこれだが、クリシュトフが言ったのは本当だった。
「ごめん。ほんとうに知らないや」
「謝ることはない。知っていることの方がむしろおかしいくらいなんだからね」
 クリシュトフにしては珍しい、闊達な声で笑った。
 二人分の朝食を取っておいたことを思い出し、食堂へ急ごうと秀が言うと、もうそんな時間なのかとクリシュトフは驚いた表情を見せた。
 夏休みは寮生の人数が減る分、食事のリクエストを聞いてもらえるのだと秀が嬉しげに話すのをクリシュトフは弛緩した表情でみつめる。
 礼拝堂から出てきた二人に、夏の日差しが降り注ぐ。眩しげに右手を掲げ、クリシュトフは空を見上げた。先に駆け出していた秀に呼ばれ、クリシュトフは後ろ手に礼拝堂の扉を閉めた。陰鬱で重々しい音を立てながら、神の元へと立ち戻る聖域は閉じられた。
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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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