文字数 4,465文字

 カチカチとリズミカルなハザードの音を聞きながら、秀は居たたまれない気持ちで俯いていた。
 自分に注がれている視線は、ある種好奇なものだった。そこには淫靡な期待も含まれている。
 スポーツワゴンの後部座席に、ぽつんと座っている秀。掌をぐぐっと握り込み、現在自分が置かれている状況を理性的に整理しようと努めるが、そんな気持ちなどお構い無しの言葉が運転席から投げかけられる。
「クリシュトフがいつもと違ってえらく楽しそうだから、何事かと思ったけど……3Pを計画していたとはね」
 もたれかかった座席が硬質的な音を立てた。
 そんなことで自分はここにいるんじゃない、と否定しようと顔を上げると、その言葉をそっくりそのままクリシュトフが告げた。
「彼はそういう理由でこの場にいるんじゃないよ」
 ほっと安堵したものの、なにかが胸に引っかかって素直に喜べなかった。これではまるで、運転席でふんぞり返ってニヤついている男が言うようなセックスに興じたいみたいだ。
「彼にはもっと特別な役割があるんだからね」
 目を細めて笑うクリシュトフが顔を向ける。秀は取り繕うように、忙しなく頭を上下に振って肯定した。
「マジで? それはちょっと残念だなあ。途中までしかヤらせてくれなかったクリシュトフが、いきなり“今夜は最後までしたい”とか連絡よこしてくるから迎えに来てみれば、……こんな可愛い男の子を連れてるんだもんよ。ぜったい3Pだって思うじゃないか」
 思わない、と心の中で強く否定した秀は、ふと、これまで自分が抱いていたイメージと齟齬があることに気づいた。
 血の裁判という大仰な名前からして、その儀式はもっと神聖なものだと思っていたからだ。
 今対峙しているこの男が今夜の贄なのだろうが、その軽薄な態度や複数の人間との性行為を厭わないどころか、むしろ望んでさえいるように見えるこの男がほんとうにクリシュトフが望む生贄なのだろうか。
 赤く浮かび上がる、ブラックアウトメーターの僅かな明かりに照らされたクリシュトフの横顔は、小さく微笑んでいた。
 インパネの赤い光によってより蠱惑的な色を放つ、彼の口唇。つい見惚れてしまい、車が動き出したのに気づくのが遅れた。
「あ、あの、……クリス? 僕……乗ったままだよ?!」
「へーきへーき。30分ほど走ったら海浜公園に着くし、……そうしたら俺とクリシュトフは外で励むから。ボクは気にしなくていいよ〜」
 茶化すように運転席の男が答えた。20代半ばと思われるが、中身はその年齢に伴っていないように感じる。
 秀はむすっとした顔をしたが、視線の端に映ったクリシュトフの表情が俄かに険しくなったのを見ると、これから儀式が行われるのだということを改めて感じた。
 男が言ったように、車は30分ほど走ると大きな海浜公園に到着した。
 夏場ということもあってか、第一駐車場と大きく書かれた看板下の駐車スペースはカップルたちの車で埋まっていた。
 そんなことはすでに承知しているのか。男はスペースを求めに進入しないばかりか、見向きもせずに素通りする。
 外灯の下や自動販売機の周りには、それこそ灯りに集まる羽虫のように若い男女が多数集まっていた。中には自分よりも年下と思われる少年少女もいる。稀有なものでも見るように、秀はスモークガラスの向こうを凝視した。
「ボクはこんな場所は、初めてなのかな?」
 運転席からの問いかけに、秀は苦々しい溜息をもって返事とした。中学、高校とエスカレータ式の学園で、しかも全寮制の中で過ごしてきた秀にとっては当たり前のことだった。
「ご機嫌ナナメだね。なあ、クリシュトフ……あの子も混ぜてやったら? きっと楽しい夜になると思うよ?」
「彼はダメだ」
「なんでだよ」
「彼には、……見て欲しくないからだ」
「……ああ。そういえば同じ学校って言ってたもんな。そりゃあ見られたくないか! セックスしてるときの顔とか声なんか聴かれたくねえよな。だけどお互いが気持ちよくなってりゃ、いいんじゃねえの?」
「とにかくムリだ」
 クリシュトフは歯噛みしながら瞼を閉じる。眉間に縦じわが寄り、険しい表情がいっそう深くなる。
 やがて車は公園の最奥部に位置する駐車場に停車した。数台のキャンピングカーとワンボックスカーがほかに停まっている程度だ。
 照明に浮かび上がる案内板は、この下辺りにキャンプ場があると記していた。
「それじゃあ、ボクはここで大人しく待っているんだよ〜? 知らない男の人に声を掛けられても、ぜったいに車から降りたりしたらダメだからね?」
 人を小馬鹿にした態度が鼻につくが、「秀はぜったいに見ないでくれ」とクリシュトフに念を押され、渋々頷いて見せた。
 ヘッドライトが消されると、林の中に入っていく二人の姿はすぐに闇に溶け込み、見えなくなった。
 点在する外灯の灯りだけの駐車場に取り残された秀は、落ち着きのない様子で膝を揺らしていた。
 見ないでくれというクリシュトフの言葉は、やはり命を奪う場面を自分に見せないためなのだろうか。儀式と言われるものだから、なにか他人に見られては困るような秘術かなにかなのか。
 謎だらけの血の裁判。
 相手の身も心も虜にする。
 その方法が秘密なのだろうか。クリシュトフが虜にする……。さきほどのあの軽薄な言葉を吐く、くだらない男を虜に?
 そして……。
 ちらりと頭を掠めた映像が、秀を車から飛び出させていた。
 クリシュトフの長い指が男の肌に触れ、冷たい唇がキスをするのか。
「それは……いやだ!」
 勢い良く噴き出してくるこの感情が嫉妬であることを否定できない。
 クリシュトフがほかの男の身体に触れるなんてことを少しでも考えただけで、すべての血液が蒸発しそうなくらいに沸騰する。
 夜露で濡れた下草の上を、構わずに走り抜ける。耳に聞こえてくるのは草を踏みしめる足音と荒い自分の息遣いだけ。
 足元の傾斜がきつくなり、思わずよろけてしまった秀はとっさに手近な木へしがみついた。
 どこからか話し声が聞こえてきて、耳を澄ませる。
 聞き覚えのあるその声は、傾斜した先から聞こえてくるようで、秀は用心しながらゆっくりと進んだ。
 自分が適当に走ってきた草むらの脇を、レンガで舗装された遊歩道があり、その前方にどうやらクリシュトフとあの男がいるようだった。
 枯葉や朽木を踏まないように気を配りながら進んでいくと、二個の三角コーンに黄色と黒の縞模様のバーが渡してあり、そこに工事中の札が下がっていた。
 もちろん夜間工事をしているわけもなく、外灯が一本だけぽつんとあるだけの更地はかなり薄暗い。
 しかし、目を凝らせば工事関係者が日中使用しているプレハブが浮かび上がってくる。
 バーを跨ぎ、声のするプレハブへと向かった。
 秀が物陰に潜むと、会話かと思われていた声は、普通のものではなかった。
 これまで聞いたことのない、艶かしい声。息をするのももどかしそうなあえかな吐息に、秀は一瞬で身体を硬直させた。
 理解していたつもりだったが、すぐ傍でこんな声を聞くなんて。しかも喘いでいるのがクリシュトフであることに、強い衝撃を受けた。
 なにか男が囁いているようだが、拒絶するように秀は両手で耳を塞ぎうずくまった。

 肩を軽く叩かれて我に返った秀は、がばっと頭を上げた。振り仰いだ先には、困ったように眉を潜めたクリシュトフの顔があった。
「……まさか、見たのかい?」
「見てない!」
 ちぎれんばかりに首を振る。
「あの、……あのさ。終わった……のか?」
 立ち上がり、言葉を突っ返させながら訊いた。
「ああ、終わったよ。……その様子なら、ほんとうに見ていないようだね。それならいい」
 安堵した表情で笑うクリシュトフの顔を眺めながら、秀は自分の問いの真意を考えた。
 終わりを気にしたのはどちらなのか。
 鼻につくことばかりを口にしていた男とのセックスなのか。それとも、血の裁判なのか。
「秀には見られたくないな、……あんな浅ましい姿は」
 クリシュトフが呟いた。首筋に当てた左手が、気にするようになにかを撫でている。
 怪我でもしたのかと思った秀が、指先で首筋に触れると弾かれたようにクリシュトフがこちらを向いた。
 思わず秀の手が引っ込む。
「ごめん、驚かせた? そこ、気にしてるから、怪我でもしたのかと思ったんだけど……そんなに痛む?」
「いいや、そういうわけじゃない。そうじゃなくて、……痕が残っているような気がしていたからね。無意識に触っていたんだと思う。気を悪くさせたなら謝る」
 痕、という言葉で秀はまたも硬直した。
 あの男の痕跡というわけか。
 初めて感じる黒い感情に、未成熟の心は振り回されそうになる。そしてそんな感情を拭い去ろうと、自分がただのこのことこんな場所へ付いてきたわけじゃないことを口にした。
「それで、これから僕はなにをしたらいい?」
 クリシュトフの望みを叶えさせることが、自分の目的なのだから死体をこのままにはしておけない。
 どう処理したらいいのか。勝手な行動を取る前に、クリシュトフの意見が欲しい。
 しかし、彼が口にしたのは数日前に聞かされたことの復唱だった。
「いつものように消える」
 恐怖に慄きながら確認しに行ったあのボート小屋のときと同じように、今夜の死体も忽然と消えると言うのだ。
 さすがに今回は聞かずにはいられない。秀はクリシュトフと向かい合い、くいと顎を上げる。
「誰がするんだよ」
「誰って……秀が知る必要はない」
 この言葉で、クリシュトフがなにか隠していることを悟った。
「僕は協力者なんだよね? だったら知る権利はあると思うよ。なんにもしないで……ただおとなしく儀式が終わるのを待つことが僕の役目だって言うんなら仕方ないけど。そうじゃないならちゃんと言ってほしい。今さら驚いたりしないから。……だって特別、なんだろ?」
 秀の言葉が終わると、すぐにクリシュトフが口を開いた。
「“誰”という質問では答えられないが、“何者”なのかという問いなら答えられなくもない」
「回りくどいな」
 短気な切り返しに、クリシュトフの瞳が楽しそうに細められた。そんな風に笑う男の数メートル先には、屠られた男の死体が転がっているのだが。
「俺と共に、最初の血の裁判を行った祭主の一族だ」
「……祭主の一族」
「血の裁判という呪われた儀式は、この一族の運命も狂わせた。彼らがなぜ俺の後始末をするのかは知らないが、かならず現れるからわかるんだよ。彼らの仕業だとね」
「現れる?」
 秀の表情が俄かに険しくなる。
「それはいいことなのか?」
「いや……悪いことだと思うよ」
 クリシュトフは淡々と答えた。その抑揚のない声は、林の中へと向けられている。急いで振り返ってみたが、そこには深い闇しかなかった。
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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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