文字数 3,410文字

 公園での儀式を、一応の最後としたのには理由があった。
 最初の血の裁判を行った祭主の一族──キシュヴァルディ家の者が現れると、クリシュトフが生贄として扱った人間の死体は発見されないはずだった。
 これまでの被害者たちが関連性のない殺人事件として報道されてきたのは、殺害方法に拘らないクリシュトフの無頓着さのせいでもある。
 キシュヴァルディの人間が現れたことを、悪いことだとクリシュトフは言ったが、秀にしてみれば死体を隠してくれるのなら、その存在はありがたいと思った。
 そしてあの公園でのこと。
 秀にはわからなかったが、あのとき確かにいたのだろう。
 林の奥で息を潜めている誰か。
 ところが驚いたことに、発見されるはずのない男の死体が、翌日になるとニュースソースを賑わせていたのだ。
 発見現場は海浜公園の造成中の工事現場。死因は刺し傷からの大量出血によるショック死だったと、それまでのゴシップ紛いの芸能ニュースを話していた明るい表情から一転、女性キャスターは神妙な顔つきで語っていた。
 立て続けに起こる近隣での殺人事件。秀は用心のためだとクリシュトフを説き伏せた。
 これまでの彼の行動を鑑みれば、秀の進言など構わずに勝手な行動を起こしそうなものだったが、今回ばかりはこれまでと様子が違うようで、クリシュトフも素直に従った。
「心配……だね」
 昼間の熱が残るベランダの手すりを、秀はゆっくりと握り込む。
 ああ、と短く答え、深く考え込むクリシュトフの横顔を盗み見ながら、残暑に喘ぐひぐらしの森を、秀は茫洋と眺めた。

◇◆◇

 深く、それでいてあっさりとした溜息が森をたゆたう霧の中から聞こえる。
 湿り気のある風が、ひんやりと男の頬を嬲っていく。ポロシャツの半袖から覗く、引き締まった腕が手近にあった枝をへし折り、足元にある盛り土へと突き刺す。
 それは目印のようでもあるし、墓標にも見えた。
 キャップを目深にかぶり直した男が踵を返す。足元にあったボストンバッグを無造作に抱え上げると、ショルダー紐を肩へ掛けながら先を進んでいく。
 獣道のような山道から舗装道路へ出ると、少々くたびれた感のあるカーゴパンツの裾に付いた枯葉や泥を叩き落とした。
 履き潰して擦り傷だらけのブーツの踵を路面へ擦り付け、粘土質の泥を落とす様は大雑把だった。
 ザリ、ザリッと二回ほど擦っただけで終わりだ。まだ汚れはそこかしこに残っていたが、男は一通り落ちれば満足らしく、鼻歌交じりで上り坂を歩き出す。途中、男の太い腕には不似合いな華奢なデザインの腕時計で時間を確認すると、途端にストライドを広げて先を急いだ。
 アーチ型の正門が見えてくると、これまで野鳥の鳴き声ほどしか聞こえなかった静かな山間の雰囲気が一転する。おしゃべりをしながら落ち葉を竹箒で掃き寄せている数人の生徒の姿をみつけると、男は声を掛けながら門の中へ駆け込んだ。
「おはよう。もう始業してしまったのかな?」
 とつぜんの訪問者に、男子生徒たちは一様に身を固まらせた。
 男は帽子を脱ぎ、彼らの警戒心を解こうと努めて明るい笑顔を見せた。
「とつぜんにすまないね。今日からこちらで世話になることになっているんだけど……、話が通っていないようだね。とりあえず先生か責任者の方がいる場所へ案内してもらえないだろうか」
 帽子を脱いだ男を見た生徒たちは、次は別の意味で身体を固くした。
 赤みの強い金髪を後ろでひとつに束ねている大柄な男。湖底を思わせるエメラルドグリーンの瞳は人懐こく細められているが、流暢に話す日本語とのギャップが激しすぎる。
 互いの顔を見合い、ぼそぼそと小さな声で何事かを話し合った彼らは代表一人を選び出し、訪問者を校舎へ案内することに決めた。
 一度は脱いだ帽子を被り直し、「なぜ皆、同じ服なの?」と先に歩き出す生徒に訊ねながら後に続いた。

「朝さー、外国人に会った」
 隣席のクラスメイトが、通学鞄をどさりと机上へ置きながら話しかけてきた。週番の彼は、朝礼前に正門の掃除をしていたのだが、そのときの話だろうか。
「外国人?」
 秀は首を捻り、「なんにも聞いてないよね」と聞き返した。
「俺が職員室まで案内したんだけど、……先生たちは知ってる感じだったなー」
「講師の先生とかなら前もって連絡あるよなぁ? ……じゃあ、なんだろう。朝早く来て、職員室に行って、先生たちは知ってて……僕らに関係あんのかな」
「わっかんねー」
「だな」
 学期の途中で特別講師がやって来ることは、この学園ではさして珍しいことではなかった。
 予定していた講師とは別の人間が教鞭を取ることもある。感性の涵養を掲げる学園では、一般教育以外にユニークな科目を用意し、一年生のうちから生徒たちに選考させている。講師によって人気が分かれることもあり、またその逆の場合もある。
 秀は母親が免状を持っていたことから、華道を選択していた。二学期になってからすでに数回授業を受けているが、講師が変わるという連絡は受けていない。
 ではべつの選択科目だろうか。
 朝礼開始のベルと共に教室へ入ってきたクラス担任の口から、あっさりとその正体は明かされた。
「すでに顔を合わせた者もいると思うが、学校経営についての視察ということでアメリカからお客様がみえている。廊下や教室等で出会ったときにはきちんと挨拶するように。……いいな?」
「アメリカからってことはアメリカ人ですよね? 挨拶は日本語でいいんですか、それとも英語ですか!?」
 教室の後方からおどけた質問が飛ぶ。
「お前の得意な方でいけ」
 担任もそれに便乗して笑いながら答えた。俄かに教室内が笑い声でざわつく。秀も皆と同じように笑っていると、廊下側の窓からこちらを覗く人影に気づいた。
 長身で赤い髪の男。明らかに日本人ではない容貌から、彼がアメリカから視察に来ているという人物なのだと察した。
 それにしてもラフな服装が目を引く。視察で訪問している割に、その格好はおもいきりくだけていた。ミリタリーディティールのカーゴパンツに、ジップアップの黒のパーカーという出で立ちだ。
 凝視していると、担任の声や周囲のざわめきが聞こえなくなっていった。
 秀の視線に気づいた彼が、ゆっくりと瞬きをしながら顔をこちらへ向ける。深い緑色の瞳に見据えられると、なんとも形容しがたい気持ちに襲われた。
 黒や焦げ茶の瞳にばかり囲まれている秀にとって、エメラルドの瞳は色こそ違え、自分を惑わす男──クリシュトフを思い出させた。
 夕暮れの瑠璃色に染まる空の色は、彼の心の闇と同じくらい、深い青だ。
 ここにはいない人間に思いを寄せていると、視界の中でひらひらと何かが舞った。ミリタリールックの彼が秀に向かって手を振っていた。
 どきりとした。
 まるで旧知の友にでも出会ったように、目を見開いて大きくぶんぶんと両手を振っている。
 さすがにこの場に不釣合いな格好の男が廊下に長くいれば、教師もいい加減気づくというものだ。しかも彼は秀に向かって手を振っているのだから、嫌でも目に付く。
 引き戸を開け、「この教室に誰か知り合いでもいましたか」と担任が声をかける。
「いや、べつにそういうわけじゃないんですけどね」
 流暢な日本語が飛び出してきて、秀は隣りの席と顔を見合わせた。クラスメイトが小声で、今朝方会ったのは彼だと教えてくれた。
 まるきり外国人なのに日本語が上手いよな、と続けた友人の言葉に頷きながら、視線を廊下へ戻す。
 教師と一言二言言葉を交わす間も、男は常に笑顔で、そしてひらひらと秀へ掌を翳した。
 赤毛の男。純粋な赤毛ではないが、強い色味がそう印象付いた男の正体は、午前授業最後の時間に急遽行われた全校集会で、より詳細に紹介された。
 その際、視察も兼ねて秀に会いに来たなどと公然と話したために、「鮎川秀」という名前までもが全校生徒に知れ渡ることになった。
 しかし彼の名を耳にした時点で秀の胸中には疑念が湧き、不安を掻き立てられた。
 高い天井アーチの向こう。重厚感たっぷりの双子柱に挟まれた正面ステージに立つ男、キシュヴァルディ=レオは軽薄そうな見目とは裏腹に、腹にずしりとくる低い声で、しばらく滞在することを付け加えた。
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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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