第3話

文字数 6,549文字

 ドアを開け、手探りでスイッチを探していると部屋の奥から男の声がした。
「血の臭いがする」
 淡々とした口調がよけい責めているように聞こえた。
 クリシュトフは明かりを点けるのをやめ、薄暗いまま室内へ入る。
 男はベッドに腰を下ろしていた。前屈みで、組んだ両手を顎の下に当てている。小さな溜息の後、「後始末は骨が折れる作業なんだ」とぼやいた。
「それが仕事だろう」
 男と対峙し、言い放つ。
「だが、それも近々終わりを迎える。……気づいているんだろう?」
「気づいて? なんの話だ」
「とぼけるなよ。この四百年の間、お前が“仲間”を作ったことがあったか? ――ないだろう。それともキシュヴァルディとの関係を絶っていたあの数年の間になにかあったのか? それもちがう。……あいつが特別なんだ。アユカワシュウが――な」
 侵入者の言葉に、クリシュトフは不機嫌そうに眉を潜めた。
 レオはそれを楽しげにみつめ、「俺の仕事は儀式の阻止と、シュウの救出だ」と笑みを零しながら言った。
「秀がそれを望んでいなくてもか」
「あれは勘違いしているんだよ。少年期特有のな……。だが今回は殺人に手を貸してしまった。ふつうの神経ならもたないだろう。明日にも彼のところへ行って、もう一度説得するさ」
「……それは無理だ」
「なぜそう思う?」
「……俺に――手放す気がないからだ」
「だから阻止するとでも言うのか?」
「お前はなにもわかっていない。日本ここへ来て、秀に出会い、ようやく理解したんだ。殺した数が罪なら、俺はとっくに儀式を完成させている。だが……百人、二百人と殺しつづけてもなにも起こらない。血の裁判が夢幻というわけではなく、真の執行者が欠如していたせいだと言えばわかるか? この儀式を成功に導くのはキシュヴァルディじゃない。――秀なんだ」
 クリシュトフの両手に力が篭る。
 ベッドを軋ませてレオが立ち上がった。相変わらずラフなスタイルの服を着ている。Vの字にカットされた綿シャツの胸元で、クロスのチョーカーが揺れた。
「はき違えるなよ。キシュヴァルディは儀式を成功させたりしない。シュウにもさせない。俺がぜったいに阻止してみせる。――いいな」
 すれ違いざまに睨み据えた。それをさらりと受け流しながら、クリシュトフは視線をベランダの外へ向けた。
 背後で扉が閉まる音を聞きながら、秀のことを考えた。
 これまでもっとも欠如していたもの。真の執行者の存在。これまで執行者と呼んでいたのはキシュヴァルディの人間だった。
 だが――。
 そうであると言いきれる自信は無い。400年存在し続け、犯してきた罪の深さを思えばとうぜん不安もある。
 だが終わりが近いと言ったレオの言葉には共感できた。
 終わりは近い――たしかに近いのだ。
 それは儀式の成功を示唆しているのかわからない。ただ、その先にあるものに安堵している己がいる。
 秀――。
 呟く。
 長い時間は罪と共にある感情を育てた。両手を血に塗れさせ、堕ちていくだけの存在なのに。
「時間は贅沢までも俺に植え付けた」
 表情のない白皙の顔が、悲しげに歪んだ。
「贅沢な望みだ……」
 秀、と囁いて噛んだ指は、400年前と変わらず氷のように冷たかった。

 柔らかな朝日が、天窓を通して礼拝堂に降り注ぐ。ひやりとした空気に包まれながら、秀は一人でベンチに腰を下ろしていた。
 見上げた先にはマリアの石膏像があった。瞼を閉じ、うっすらと微笑を浮かべている。生けられたばかりのカサブランカリリーの強い香りに、思わずむせた。
 信者ではないから、ここでなにを口にすればいいのかわからないけれど。
「許しを乞うつもりはないんだけど」
 ぼそりと呟く。
「では何をしにここへ来た」
 とつぜん声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。振り返ると、キシュヴァルディの男が立っていた。偉そうに腕組みをして、こちらを見ている。
 べつに、と無愛想に答えて立ち上がる。
「そう警戒しなくてもいいだろう。シュウとはゆっくり話したいと思っているんだからな」
「僕の方にはないから。じゃ」
 避けるように壁側へ向かったが、レオが素早く回り込む。
 秀は苦々しく舌打ちした。
「行儀が悪いな」
 ぞくりとする声だった。威圧感をたっぷり含ませて、レオが言い放つ。
「アンタは敵だ。クリスの後始末してるんだろうけど、それって絶対に裏があるに決まってる」
「当たり前だ。キシュヴァルディは殺人集団じゃないし、酔狂でやってるわけでもない。そこをシュウに知ってもらうつもりだ」
「聞く気なんかない」
 すり抜けようと一歩を踏み出したが、力強いレオの腕が秀の肩を鷲掴みにして押さえ込んだ。身長の差、体格の差が顕著に出た。1ミリも動かすこともできずに、秀の身体は漆喰の壁へと押し付けられる。
「いいや、聞いてもらう。シュウを守ること、それすなわち俺の愛する者を守ることになるからだ。キシュヴァルディの血の掟など、どうでもいい。俺は妻を……息子を守りたいんだ」
「勝手に守ればいい。僕は関係ない……っつ。痛っ」
 レオに爪を立てられ、痛みで秀の顔が歪んだ。
「いいから聞け。関わってしまったのなら、知っておくべきことだ」
「……」
 どこか悲しげな含みを持ったレオの声に、秀は抗えず、小さく頷いた。
 クリスのことは、やはりすべて知りたいと思う。彼に内緒で、彼の過去を知ることに、少なからずの後ろめたさはあり、そのせいで胸の奥がちりちりと焼けた。
「どのみちクリシュトフの望みは叶わないんだ」
「そんなはずない。信じているからこそ、クリスは罪を犯す覚悟をしたんじゃないか」
「なにを信じた? 錬金術か? あんな紛い物にアイツが惑わされるわけがないな……じゃあ、なんだ」
「フルイストゥイの中にそんな儀式があったって言ってた。実際、目にしたからこそ実行に移したんだろ?」
「ラディエニエの原理は“救済を得るために罪を犯すべし”だ。人間性のパラドックスの上に立った儀式で、意味なんかない」
「でも! クリスはそれを信じて罪を犯し続けてるじゃないか。今さら……そんなの」
「クリシュトフにとっての血の裁判は、すでに意味がすり替わってしまっている。キシュヴァルディはすでにそう判断しているんだ」
「それなら、いい加減罪を犯させるのをやめさせたらいいじゃないか! これ以上クリスに人を殺させるなよっ。おかしいじゃないか! 儀式に意味はないとか、成功しないとか言ってるなら、止めればいいのに。なんでしないんだよ! 面白がってるのか? クリスの純粋な気持ちをバカにしてるのかよ! ふざけんなぁ!」
「ふざけてなんかいない。――執行者がいないから出来なかった。それが止められない理由だ」
 激昂し、レオの胸倉を掴んだが、見上げた先の翡翠の瞳に嘘はなかった。
「これまで、執行者はキシュヴァルディの人間だと信じられてきた。俺は、その執行者として育てられたんだからな、嘘じゃない。クリシュトフに荷担して禁忌の儀式を行ったアルベルトの直系だけが、あの男を殺せると伝えられてきたんだよ」
「育てられ……?」
 レオの言葉に、秀が目を瞠った。
「俺の息子も、次の執行者として育てられているんだよ。外界と隔絶されてな。それがどれだけ重くツライか、シュウにわかるか? 日本みたいな安穏とした国でぬくぬくと生きてきた小僧に……。俺はもう終わりにしたかった。――クリシュトフは日本に移り、シュウと出会った。長い時間の中で、ただすれ違う程度の出会いが大きな波になったんだ。シュウは、俺にとってクリシュトフ以上の希望の光なんだよ。わずかな波が大きなうねりになって俺たちを飲み込んだ。クリシュトフを、キシュヴァルディを救えるのは――……お前しかいない」
 救う?
 彼の願いを叶えるために、ともに穢れる覚悟をしたのに。
「僕が、クリスを救う……?」
「……ああ」
 レオが同意する。
「すでに儀式は終焉を迎えているんだ」
「……そんな、だって、まだ血が足りないのに。終焉てどういう……こと?」
「そのままの意味で捉えろ」
 気のせいか、足元がぐらぐらと揺れる。秀は腰が抜けたように、へたりと座り込んだ。
 レオの手が頭に乗せられて、上目遣いに彼を見た。困った顔で笑うキシュヴァルディの男は、「荷が勝ちすぎると思わないでくれ」と懇願するように言った。
 秀は、無言で首を振る。複雑な今の感情を表せる、ふさわしい言葉が浮かばない。
 叶える――。救う――。
 そのどちらの未来にも、クリシュトフが存在しないことに変わりないのだから。

 秋とはいっても、日中の気温はやはり高めだ。午後の最初の授業が体育というのはつらい。
 空色のハーフパンツが、グラウンドを駆ける。400メートルのトラックを3週ほど回ったところで、2頭の馬がフェンス越しに走っていくのが見えた。確か3年生が乗馬の授業だったはず。
 先を走る葦毛の手綱を握っているのは、クリシュトフのようだ。日に赤く煌く髪が、馬の動きに合わせてふわりと舞っている。後に続く黒い馬には知らない生徒が乗っていた。
 授業を抜け出してどこへ行くというのだろう。
 秀はマラソンの一群から抜け出し、フェンスへと駆け寄った。
「クリス!」
 聞こえなかったらしく、クリシュトフは振り向きもせずに、そのままグラウンド脇の小道へと馬を走らせた。
 後から聞こえた教科担任の怒声は秀だけに向けられていて、たった今目の前で授業を抜け出していった二人の生徒にはまったくの無関心だった。
「そんな……」
 同じ学校の生徒を狙っているのだとしたら、それは大きなリスクを背負う。
 いくらクリシュトフの周囲に与える印象が薄いと言っても、生徒が変死すれば、その交友関係がまず疑われる。死ぬ間際まで傍にいた人間がクリシュトフだと知れる可能性は高い。
 フェンスを握り締め、消えた林の奥をみつめる。
「鮎川!」
 教師の声と共に、フェンスから強引に引き剥がされた。
「痛……つぅ」
 掌に激痛が走る。見ると、親指の付け根がざっくりと切れていた。フェンスの網が一部破れていて、運悪くそこに引っ掛けたらしい。
「だいじょうぶか、鮎川。――後で用務の先生に連絡しておくか。おーい、誰か、鮎川を保健室まで連れて行ってやれ!」
 翳した右手の手首を、這うように血が流れていく。ぺろりと舐めてみた。
「なんか変な味……」
 クリシュトフはこれを集めて儀式を完成させようとしているのか。彼の中で、血と命はイコールで繋がっている。これを捧げさせることで儀式は完成するはずなのに。
 レオの言葉を思い出した。
 儀式はすでに終焉を迎えていると。
 それなら、さっきの上級生が最後の生贄になるのだろうか。
 僕はそのとき、なにをすればいい?
「秀、気持ち悪いって、それ」
 腕を引っ張られ、クラスメイトを見た。
「なにが」
「だから、それ」
 友人は呆れた顔で秀の顔を指差した。
「血で唇が真っ赤になってる」
「え」
 言われて左手の甲で拭う。べっとりと血が付いて驚いた。こんなになるまで唇を押し付けていたつもりはないのに。
「うえー。けっこう深いじゃん。もしかしたら縫うことになるかもな」
「大げさだって。カットバンだけでいけるんじゃないのか?」
 痛みもあまり感じていなかったから、そんな大層なことになるとは思っていなかった。だが友人の言葉は正解で、けっきょく秀は保健士に連れられて病院へと向かったのである。5針も縫う怪我だったのには、秀が一番驚いていた。

 授業中の怪我の報告を担任にしていた秀は、寮生の大半が食事を始めている時間に戻ってきた。額に滲む汗を拭いながら、食堂の前を通りかかると、そこで信じられない光景を目にした。
 開いたままのドアのすぐ近くで、クリシュトフが楽しそうに談笑している。嬉しそうにみつめているその先に、授業中いっしょに抜け出した3年生がいた。漆黒の髪が、日焼けした褐色の頬にかかっている健康的な印象を与える男だった。
 これまでのクリシュトフは、表沙汰にされにくい相手を生贄に選んでいたはずだ。
 同じ学園の人間に焦点を合わせるなんて、彼はなにをそんなに焦っているんだろうか。
 それとも考えすぎなのか。彼はただのクラスメイトで、秀が普段友人としているくだらない話題で盛り上がっているだけなのかもしれない。だが、そうだとしても違和感があり過ぎる。
 そう感じるのは……つまらない嫉妬心のせいなのか?
 クリシュトフの笑顔は僕だけのものだと思っていた、それは驕りだったろうか。
「……クリス……っ?」
 瑠璃色の瞳がこちらをゆっくりと見て、そして――咲わらった。
 その瞳が秀の心を握り潰す。
 クリシュトフの微笑は、確かに生贄を手にしたときのものだからだ。
 3年生がドアを振り返る。そして秀をみつけて手を振ってきた。
 にこやかに笑う彼の笑顔は、やがてこの世界から消え去ってしまう。それを知る秀は、包帯を巻かれた右手をぎこちなく上げ、頬を攣らせながら応えた。

 寮と校舎、そしてそれを繋ぐ通路に点在する外灯が静かに灯る。漆色の闇に、響く虫の声。そして嬌声――。
「んんっ……はぁ……っ」
 突き上げる律動に合わせ、甘い声が闇を凌駕する。
 甘い声が吐息といっしょに吐いたのは、秀の名前だった。白皙の面が淫猥に歪む。
「いいとこなのに、そこで、どうして俺じゃないヤツを呼ぶかなぁ……っ!」
 嘲る声が、クリシュトフの内部を抉るように背後から穿つ。
 獣のように繋がる二人を、成す術もなく秀は見ていた。乾いた秋の夜風に頬が嬲られる。寒く感じているわけでもないのに、全身総毛立っていた。
 手を伸ばせばクリシュトフの顔にさえ届く。そんな近くに秀は座らされていた。
 僅かに届く外灯の明かりの中で、赤銅色の髪が汗に濡れながら乱れていく。激しい吐息の中で、クリシュトフはじっと秀をみつめていた。
「逃げるな」
 クリシュトフが呟く。
「目を、……逸らすな」
 両手をコンクリートについて、睨むようにみつめる。
 秀は、言われるがまま、命じられるままにその姿を見る。クリシュトフが獲物を魅了し、当惑し、やがてその血の一滴を得るまで――。

「なぜ、泣いている」
「え?」
 クリシュトフは一糸纏わない姿のままで訊ねてきた。無駄な肉のない、ブロンズ像のような肉体。生きている人間には見えないくらいに、美しい。
 そうだった。彼は生きていないのだった。
 秀は気づかないうちに流していた涙を拭き、笑って見せる。
「何度見ても慣れないから」
 正直な感想だった。惹かれている男が、別の男とセックスしているのだ。何度見せられても慣れる気がしない。
「秀が……なのかどうか、確かめるためなんだ」
「僕が、なんだって?」
 立ち上がり、脱ぎ捨てられていたクリシュトフの服を拾い集める。
「はい。夜はもう冷えるから」
 そう言ってシャツと下着を順に差し出した。だがその視界は、変わらず涙で歪んだままだ。
「秀が泣く理由は?」
「言えない」
 首を振るたびに、雫がパタパタと落ちていく。
「そうか……」
 クリシュトフは身支度を整え、何事もなかった顔で呟いた。
 そして、今日、二度目の有り得ない彼を見た。
「ク、クリス?!」
 抱き寄せられた秀は、クリシュトフの腕の中にすっぽりと収まっていた。
「秀に泣かれると困る……もう、見せない。二度とな」
「そうしてもらえると嬉しい。――それで? 僕がなんなわけ」
 秀は額を押し付けた後、クリシュトフを見上げた。これくらいいいよね、と甘えるように、彼の腰に腕を回す。
 クリシュトフが唇を耳に押し当ててきて、秀は肩を竦めた。
 囁かれた言葉に甘さは微塵もない。それなのに、秀の胸は切なさで押し潰されそうになった。
 秀はやっぱり変わらず俺の大切な存在だ――。
 もう一度、秀の頬を涙が伝った。

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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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