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文字数 2,357文字
夕食も済み、ひと息つく時間に秀は隣室を訪ねていた。昼間出会った彼が隣人だと知ると、持ち前の懐こさで部屋へと上がりこんだのだ。
「同じ間取りなのに、住人が違うと雰囲気も変わるもんだなあ」
繁々と見て回る。留学生ということもあるのだろう。荷物はほとんどない。括りつけの本棚には一冊の本も差されてなく、コミック本だらけの秀とは大違いだ。
「日本人は外交的なんだな」
「ハンガリー人はマイペースなんだね」
秀が訪ねたとき、クリシュトフはシャワーを浴びるところだった。普通ならそこで追い返すなり、入浴をずらすなりするものだが彼はなんのためらいもなく秀を迎え入れ、そして自分はバスルームへと直行した。
がらんとした部屋の中へ放置された格好の秀だが、会ったばかりで追い返されるのを覚悟していたから少々のことは黙認する。隣人とは仲良くしたいと思っているし、それ以上にヴェレシュ・クリシュトフという男に興味があった。
濡れた髪から雫が落ちている。
「髪、ちゃんと拭いたら? 雫が落ちてるけど」
「急いで出てきたから、間に合わなかった」
首にかけているスポーツタオルの端を掴み、拭き始める。一応気を使ってくれていたのかと思うと、秀は嬉しくてにんまりと笑った。
「それにしてもすごい偶然。第一から第三寮まであるのに、昼間出会ったクリスと同じ寮でしかも隣同士とはさ。縁があるんだろうね」
「縁?」
「そう縁。これはもう友達になれってことだよね」
「友達?」
「……そう鸚鵡返しされても」
一人で喋っている感じに秀は眉を寄せ苦笑した。
「定住することのない生活が長かったから、友達というものに縁がないんだ。もしかするときみが初めての友達かもしれない」
「それって寂しくない?」
「とくに感じたことはないが……。通常は寂しいものなんだろうか?」
無表情にそう答えるクリシュトフに、秀は脱力する。これが文化の違いというものなのか。それとも彼の性格からくるものなのか。クリシュトフの表情はあまりに乏しく、そこからはなにも掴めない。
「定住することがなかったって。つまり、今回のような留学生活が長いってことなわけ?」
「そう受け取ってもらって構わない」
クリシュトフはそこでようやく立ち話をしている自分たちに気づき、秀に手近な場所へ座るよう促した。
人を第一印象で決め付けてかかるのはイヤなものだが、クリシュトフはその見目と同様に口数は少なかった。会話を投げかけては一言二言返すだけで、話はそこで終わる。そんなやり取りをしているうちに、あることに気づいた。
クリシュトフは自分の過去のことは話したがらないが、歳相応に恋愛話だと微かな反応を示した。その些細な変化を秀は見逃さない。すかさず食いつく。
「留学とかが多いと、彼女とか出来にくくない?」
「彼女とは?」
「恋人のこと」
「ああ……。そうだな、できないな。だが俺はそれでいい」
「できなくていいの? 恋人が? 寂しくないか、それって」
クリシュトフの視線が床へ落ちる。伏せた睫毛の長さに秀は驚いた。やはり彼はきれいだと思いながら、次の言葉を待った。
「いろんな国に恋人を作るのは倫理に反しないか?」
「ええ? ええと、それはそうだけど」
なんだか上手くはぐらかされた気がする。それでも秀は諦めずに話をふる。
「じゃあさ。クリスの中で恋人は一人の女性と決まっている……なんてことも考えられるわけだけど。どう? あたり?」
「一人の女性か……」
俯き加減のクリシュトフの表情が和らいだ気がした。仄かに笑んだ口元。
「だが、時は無情にも人の心を風化させる。ともに過ごせる日々がない者は、どうやってその愛を確かめたらいいのだろうな」
呟きながら顔を上げたクリシュトフは、サファイア色の瞳を深海のように暗く澱ませた。
「そ、それは……僕のスキル程度では答えられないと思う……。ごめん」
「とうぜんだろう」
「とうぜん……って。クリスって見かけによらず不躾なヤローなんだな」
「そうだろうか?」
「ああ、そうだよ。それとも何? 見えない壁を作って僕との距離を縮めないようにしているとか」
「そんなつもりはない。子犬のように懐かれるのは好ましいからな」
無表情で「好ましい」と言われても信用できない。秀は立ち上がり、クリシュトフが腰掛けているベッドへと歩み寄る。
「なにか言いたげだな」
秀は無言でクリシュトフの横へ腰を下ろした。勢い余って二人の尻が一瞬浮いた。
沈黙が続く。
廊下から誰かの駆ける音が聞こえた。時計を見たら9時の消灯近くになっていた。それでも秀は身じろぎせず、黙って座っている。
「ああ、もう! ここは“あっちへ行け”とか“うっとうしい”とか、なんかあるだろうよ!」
「え? そういう言葉が欲しかったのか? そこにいても特にジャマだと思わなかったものだから……。じゃあ、向うへ行け」
「ジャマじゃなかった?」
「向うへ行け」
「だから、ジャマじゃなかったのかって聞き返しているんだけど」
「うっとうしい」
「なあ、わざと? それってわざとか?」
顔を近づけて吠えてみる。するとクリシュトフの表情がゆっくりと和らいでいった。
「きみは面白いな。クルクルとよく表情が動く。それに歳相応の感情の放出が心地いい」
秀は慌てて身体を離した。クリシュトフがシャワーから出てきてずいぶんと時間が経つのに、彼から感じる熱い体温でのぼせそうになった。
「クリス、おっさんくさい!」
照れ隠しのように言い放つ。
暗く澱んでいた虹彩に光が戻った。彼の双眸に見つめられ、緊張のためか今更だが鼓動が早くなる。
忙しなく明日の朝食の約束を取り付け、秀は自室へ戻った。
「同じ間取りなのに、住人が違うと雰囲気も変わるもんだなあ」
繁々と見て回る。留学生ということもあるのだろう。荷物はほとんどない。括りつけの本棚には一冊の本も差されてなく、コミック本だらけの秀とは大違いだ。
「日本人は外交的なんだな」
「ハンガリー人はマイペースなんだね」
秀が訪ねたとき、クリシュトフはシャワーを浴びるところだった。普通ならそこで追い返すなり、入浴をずらすなりするものだが彼はなんのためらいもなく秀を迎え入れ、そして自分はバスルームへと直行した。
がらんとした部屋の中へ放置された格好の秀だが、会ったばかりで追い返されるのを覚悟していたから少々のことは黙認する。隣人とは仲良くしたいと思っているし、それ以上にヴェレシュ・クリシュトフという男に興味があった。
濡れた髪から雫が落ちている。
「髪、ちゃんと拭いたら? 雫が落ちてるけど」
「急いで出てきたから、間に合わなかった」
首にかけているスポーツタオルの端を掴み、拭き始める。一応気を使ってくれていたのかと思うと、秀は嬉しくてにんまりと笑った。
「それにしてもすごい偶然。第一から第三寮まであるのに、昼間出会ったクリスと同じ寮でしかも隣同士とはさ。縁があるんだろうね」
「縁?」
「そう縁。これはもう友達になれってことだよね」
「友達?」
「……そう鸚鵡返しされても」
一人で喋っている感じに秀は眉を寄せ苦笑した。
「定住することのない生活が長かったから、友達というものに縁がないんだ。もしかするときみが初めての友達かもしれない」
「それって寂しくない?」
「とくに感じたことはないが……。通常は寂しいものなんだろうか?」
無表情にそう答えるクリシュトフに、秀は脱力する。これが文化の違いというものなのか。それとも彼の性格からくるものなのか。クリシュトフの表情はあまりに乏しく、そこからはなにも掴めない。
「定住することがなかったって。つまり、今回のような留学生活が長いってことなわけ?」
「そう受け取ってもらって構わない」
クリシュトフはそこでようやく立ち話をしている自分たちに気づき、秀に手近な場所へ座るよう促した。
人を第一印象で決め付けてかかるのはイヤなものだが、クリシュトフはその見目と同様に口数は少なかった。会話を投げかけては一言二言返すだけで、話はそこで終わる。そんなやり取りをしているうちに、あることに気づいた。
クリシュトフは自分の過去のことは話したがらないが、歳相応に恋愛話だと微かな反応を示した。その些細な変化を秀は見逃さない。すかさず食いつく。
「留学とかが多いと、彼女とか出来にくくない?」
「彼女とは?」
「恋人のこと」
「ああ……。そうだな、できないな。だが俺はそれでいい」
「できなくていいの? 恋人が? 寂しくないか、それって」
クリシュトフの視線が床へ落ちる。伏せた睫毛の長さに秀は驚いた。やはり彼はきれいだと思いながら、次の言葉を待った。
「いろんな国に恋人を作るのは倫理に反しないか?」
「ええ? ええと、それはそうだけど」
なんだか上手くはぐらかされた気がする。それでも秀は諦めずに話をふる。
「じゃあさ。クリスの中で恋人は一人の女性と決まっている……なんてことも考えられるわけだけど。どう? あたり?」
「一人の女性か……」
俯き加減のクリシュトフの表情が和らいだ気がした。仄かに笑んだ口元。
「だが、時は無情にも人の心を風化させる。ともに過ごせる日々がない者は、どうやってその愛を確かめたらいいのだろうな」
呟きながら顔を上げたクリシュトフは、サファイア色の瞳を深海のように暗く澱ませた。
「そ、それは……僕のスキル程度では答えられないと思う……。ごめん」
「とうぜんだろう」
「とうぜん……って。クリスって見かけによらず不躾なヤローなんだな」
「そうだろうか?」
「ああ、そうだよ。それとも何? 見えない壁を作って僕との距離を縮めないようにしているとか」
「そんなつもりはない。子犬のように懐かれるのは好ましいからな」
無表情で「好ましい」と言われても信用できない。秀は立ち上がり、クリシュトフが腰掛けているベッドへと歩み寄る。
「なにか言いたげだな」
秀は無言でクリシュトフの横へ腰を下ろした。勢い余って二人の尻が一瞬浮いた。
沈黙が続く。
廊下から誰かの駆ける音が聞こえた。時計を見たら9時の消灯近くになっていた。それでも秀は身じろぎせず、黙って座っている。
「ああ、もう! ここは“あっちへ行け”とか“うっとうしい”とか、なんかあるだろうよ!」
「え? そういう言葉が欲しかったのか? そこにいても特にジャマだと思わなかったものだから……。じゃあ、向うへ行け」
「ジャマじゃなかった?」
「向うへ行け」
「だから、ジャマじゃなかったのかって聞き返しているんだけど」
「うっとうしい」
「なあ、わざと? それってわざとか?」
顔を近づけて吠えてみる。するとクリシュトフの表情がゆっくりと和らいでいった。
「きみは面白いな。クルクルとよく表情が動く。それに歳相応の感情の放出が心地いい」
秀は慌てて身体を離した。クリシュトフがシャワーから出てきてずいぶんと時間が経つのに、彼から感じる熱い体温でのぼせそうになった。
「クリス、おっさんくさい!」
照れ隠しのように言い放つ。
暗く澱んでいた虹彩に光が戻った。彼の双眸に見つめられ、緊張のためか今更だが鼓動が早くなる。
忙しなく明日の朝食の約束を取り付け、秀は自室へ戻った。