文字数 4,430文字

 消灯時間を迎え、各自がそれぞれの部屋の前に立ち並ぶ。寮の管理を任せられているのは年配の夫婦だが、生徒そのものの管理は彼らの中から選出された者が行う決まりだ。
 この学園の寮は全部で3棟ある。第一寮から第三寮だ。そして各寮にそれぞれ一人ずつの寮長が据えられているが、一人で76室もの個室すべてを回るわけにはいかない。そこで各階に寮長補佐というものが存在し、彼らに成り代わり点呼を取ることになっていた。
 秀は中等部からの慣れもあり、あくびを噛み殺しながらの点呼待ちだったが、隣室のクリシュトフはなんだか緊張の面持ちで立っている。
「クリス。緊張してる?」
「なんだか軍隊みたいで、落ち着かないな」
「へー」
 15、6歳で兵役の経験はないから、曖昧な相槌を打つ。ただ、彼が日本人ではないことから、そういった経験もあるのかな、といった程度の感情しか抱かなかった。
 緊張しているとは言え、背筋を伸ばし、顎を引き、少し足を開いて立つ彼の姿はなかなか堂に入っていてかなりの見栄えだ。黒のハイネックに赤銅色の髪は際立って見えた。廊下の安っぽい蛍光灯に照らされているのに、クリスの髪はその流れまでが流麗でつい見惚れてしまう。気づくと自分の名前が呼ばれていて驚いた。
「なにか俺の顔に付いていた?」
「き、綺麗な髪だなって思ってたら……見惚れてた」
「そう」
 表情筋の動きが乏しいクリスが、少しだけ微笑ってみせた。彼にそんな顔をさせたことがなんだか嬉しくて、得意な気分でその場を別れ、就寝した。

 ***

「家を飛び出すなんて……あまり感心できないな」
「……んっ……」
 説教じみたセリフを吐く唇は、自分の身体の下で艶めかしく腰を揺らす青年の首筋へと移動する。口づけるわけでもなく、ただ熱い息をやわやわと吐き出し、青年の劣情を煽るだけ。
「だって……そうでもしなきゃ……アンタ、と……こうして会えない……か、ら」
「俺のせい……とでも?」
 闇に紛れた深海の瞳がきらりと光る。シャツの上からでもそれとわかる、小さく尖った突起を指の腹で撫で上げられて、青年はくぐもった声で喘いだ。
「きみの身体……とても熱くなってる」
「だって……ここまでされりゃ、誰だって興奮するでしょ?」
「そうだね。しかもここは屋外だ。否が応でも燃え上がる」
 鼻にかかった声で甘く笑った男は、薄い唇をゆっくりと開く。足元の落葉が乾いた音を立てた。青年は凭れていた木に背を押し付けるように喉を反らす。木々の合間から零れ落ちてくる月の煌きに紛れ、不健康そうな白い肌に青く血管が浮き上がる。
 青年が一際切なくわなないた。開け放たれているジーンズの前から露になっている屹立を、なんの前触れもなく男に扱かれたからだ。
「きみを味わいたい」
 男が囁く。遠くで生き物の気配を感じた。夜目のきく梟か。
「ああっ」
 さらに青年は喉を仰け反らし、自らの手を男のそれに重ねた。
 わずかに零れ始めた蜜が、糸を引きながら地面へと伸びる。
「そうか……逝く……か?」
「……もっと……もっと」
 青年はその先に待つ深い闇を知らず、快楽をねだった。そして足元から崩れ落ちる。悦楽の波に身を委ねたからではない。
一筋の血が首から滑り落ち、肌蹴たシャツに朱の染みを滲ませ、そしてくすんだ葉のひとひらへと零れる。
 男の喉仏が上下にゆっくりと動いた。嚥下したものは血だ。青年の血を飲み下し、その魂を喰らう。
これでいいと男が呟いた。
 足元にくず折れる死体に視線を遣り、満足げな笑みを浮かべた。酷薄のその笑いは闇に紛れていく。口角から零れ落ちた血の筋を舌先で舐め取り、夜空を仰いだ。
 幾年過ぎようとも変わらない星の煌き。手を伸ばしても、指を広げても掴み取れない光の数々。だが俺は違う。
 幾千もの血と魂を喰らい、罪を犯し、この身を穢し続ける。
 そして儀式時こそ、俺の願いは叶い、罪は赦される。
 男はまだ温もりの残る青年の肉体を抱え上げた。支えを失った首はぐらぐらと揺れ、光を宿さない双眸はじっと天を仰ぐ。
 夜目のきく鳥のように男は森の中を進み、やがて崖の縁へと立った。そこはすでに月に照らされ、真昼のように明るかった。男は無造作に谷底へと荷物を放り投げた。数十分前までは生きていた青年の肉体が崖を転げ落ちていく。
 石と人間とが転げていく音。合間に聞こえる梟の声。
 空から零れ落ちてくる月の雫に、赤銅色の髪は時折飴色に輝いた。

 ***

 子供の頃からの癖のようなものだった。行事の前日前夜、秀は決まって熱を出す。幼いころに比べ、高い熱ではなくなったけれど、それでも39度近い熱では足元もふらつくというものだ。
 買い置きの解熱剤が無くなり、秀は寮監の元を訪れた。事情は向うも承知しているから薬もすんなりと渡してもらえる。部屋へ戻ってから飲むつもりで、秀は寮監の部屋を出た。連れて行ってあげると言われたが、そこまで子供ではないし酷くもない。秀は「平気です」と笑ってその申し出を断った。
 そうは言ったものの、熱のせいで関節の至るところが痛み、階段を一段上がるのも骨が折れた。二階へ続く階段の踊り場まで辿り着き、腰を下ろした。
 非常灯のグリーンの明かりよりも、窓から差し込む月光の方が明るい。膝を折り、体育座りで溜息を吐きながらなにげなく視線を一階へ向けた。長い影が非常灯のグリーンではなく、青い月光に照らされて薄暗い廊下を伸びる。
 秀の身体が瞬間的に強張った。足音も無く、影がやって来る。発熱で震えているのか、恐怖で震えているのか。がちがちと歯が音を立てる。
 長い影が次第に短くなり、階段脇に辿り着いた。見えたのは足先だった。続いて壁に添えられた手。
 もうその時には、秀の足は恐怖で竦み、動けなくなっていた。なまじ歴史のある学校が故に、こういったときに脳を巡るのはくだらない七不思議ばかりなのだ。
 だが次に現れたのは見知った顔だった。踊り場にある窓から差し込んでくる月明かりに照らされて、青い陰影を湛えた隣人の顔だ。
 彼はこちらを見上げ、不思議なものでも見るように問いかけてきた。
「秀? 夜中にあまり出歩くものではないと思うが」
 それはこちらのセリフだと反論したかったが、如何せん声が出ない。恐怖と安堵が綯い交ぜになり、秀の意識は一気に落ちていく。
 気づいたのは、等間隔に揺れる自分の腕と爪先のせいだった。クリシュトフに抱き上げられ、廊下を運ばれているようだ。
 顔を上げると、不機嫌そうな声が降ってきた。
「熱があるのに出歩くことに意味を感じない」
「それは……買い置きの解熱剤がなくなっていて。寮母さんのところへもらいに行っていたからで……。そういうクリスこそ、どこに行ってたわけ? 明らかに外出してたって感じなんだけど?」
 彼の上着が纏っている冷気は、明らかに外気によるものだ。だがクリシュトフは顔色ひとつ変えずに答える。
「不慣れな土地ではなかなか寝付けないものだからね。散歩をしていた」
「こんな夜中に?」
「ああ。静かで、ひとりになれる」
「ひとりに、って。僕……うっとうしかった?」
「秀のことが? まさか……。俺が言うひとりというのは孤独を指すわけじゃない。孤独は嫌だ。だが一人にはなりたい。一人になってひとりの俺に戻るんだ」
「よく……わからない」
 熱がさらに上がったようで、自力で頭を支えることもできなくなった。雛鳥のようにくらりと天井を仰ぐと、心配そうに覗き込むクリシュトフの視線とかち合った。大きく上半身が揺れた後、秀の頬はクリシュトフの胸へ抱き込まれていた。首がぐらつかないように配慮してくれたらしい。
「ありがとう」
 秀が小さく呟く。
「これくらい構わない。今夜は朝まで傍にいてあげるよ」
 病のときは誰も心細いものだから。クリシュトフはそう言って秀の髪に口づけた。母親にだってされたことのないキスだったが、秀の気持ちは充分癒された。
 部屋のベッドへ寝かしつけられて、安堵の溜息を吐いた。クリシュトフの腕の中も居心地はいいが、上下に揺れながらはさすがに苦しいものだ。
 ベッドの脇へイスを寄せ、クリシュトフが腰を落ち着かせる。手馴れた様子で秀の額に手を当て、熱を測る。外気でかなり冷やされた彼の掌は氷のように冷たかった。
「こんなに冷えて……。朝までその上着一枚で過ごすつもりか?」
 体温の高い手が、クリシュトフを掴む。
「寒いのには慣れている。気にしないでいい。きみはそのまま目を閉じて眠るんだ」
 振り払いもせず、淡々と答えるクリシュトフ。
 基本的に来客があっても寮への宿泊はしないから、いくら個室であっても予備の寝具類は置いていない。かといって部屋の空調は自動になっているから、手動でスイッチを入れても送風程度でたいした役にはならない。
「僕のこれは毎度のことなんだ。式典とか行事とか。そういうのの前日に決まって熱を出すのって、子供のころからの癖みたいなもので慣れてるんだ。だからクリスに朝まで看てもらわなきゃならないほど酷いものじゃないから、部屋に帰ってもいいよ」
「だが心細いだろう?」
 クリシュトフは秀の指先を軽く擦った。
「親と離れて暮らしていての病気は、ひどく心を痛ませるものだ。それは病そのものよりもやっかいなことだと、俺は知っているから傍にいたいんだ。もちろん秀が嫌であるなら、俺は部屋へ帰るが」
 視線を落としたクリシュトフの顔を、部屋のフットライトが照らす。クリーム色の明かりなのに、やはり彼の顔は青白く見えた。落ち窪んだ瞳は嘆いているようにも取れた。
「それなら……こっちに来なよ。伝染る病気じゃないし、いっしょに寝たって大丈夫だから。もちろんシングルで狭いことは覚悟してもらわなくちゃいけないけどね」
 無理やり笑顔を作ったら、こめかみの部分に鋭い痛みが走った。だが、そう言ったあとのクリシュトフの顔は、なにものにも替え難いものだと思った。
 綻ばせた表情で首を傾げ、生気の無い頬を赤く染めた。
「誰かとベッドを共にするなんて……どれくらいぶりだろう」
「……クリス。その言い方だと……ちょっとやらしいよ?」
 こぼすように言いながらベッドの奥へと身体をずらす。脱いだ上着をイスの背もたれに掛けたクリシュトフが、遠慮がちに入ってくる。
 ひやりとした空気も初めだけで、ベッドの中はすぐに温かくなった。
「おやすみ、クリス」
「ああ。秀……おやすみ」
 クリシュトフの指先が秀の手を握り込む。こうすると傍にいることが感じられて安心できるからだと囁いた。だがその指先は、人肌を懐かしむように撫で擦った。体温を味わうように。冷たい指先を何度も肌の上に滑らせた。
 熱い肢体の内を巡る血潮を慈しむように。

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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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