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文字数 2,363文字
秀はここ数日に渡り、睡眠不足だった。
眠れないと呟きながら視線を落とした先には、クリシュトフの噛み傷がある。噛み傷といってもすでに痕跡すらないのだが、確かに何日か前まではあったのだ。その傷があった場所をみつめながら、秀はため息を吐く。
飛び起きた拍子に膝までずり落ちてしまった薄い肌掛けに手をやり、不覚にももよおしてしまっている自分の股間を見てさらにため息を吐いた。
これまでは特に意識していなかったクリシュトフの瑠璃色の瞳。他人の指を咥え、さらには舌さえも這わせる彼の色香に、まだ少年の域を達しきれていない秀にとって刺激的以外のなにものでもなかった。整い過ぎて冷たささえ感じるクリシュトフの瞳が、あの時ほど熱っぽく見えたことはない。
起きて、目覚めてクリスと面と向かって接するときにはどうとも思わないのに、深い眠りに入ると夢に見るのだ。
底のない深い闇にも似た瑠璃色の瞳と白い肌。艶かしく指を舌が這い、熱い息がかかる。心臓が破裂しそうなくらいに脈打ち、耐え切れずにクリシュトフの名前を呼ぶと、ふたつの瑠璃がゆっくりとこちらを見る。
凝視するその双眸に光が燈る。細められて笑うクリシュトフの瞳。──俺の印。と彼の弾む声が耳をくすぐり、そしてその声はやがて秀の別の場所へと移動を始める。
どくん、と脈が打った。
先ほどまで見ていた生々しい夢の記憶を辿っただけであるのに、秀の股間はその先を期待して震えている。
まるで盛りのついた獣のようだ。
夢だけでは射精にまで至らない。だから微妙な違和感だけがそこに残っている。トイレにでも行って用を足せば誤魔化せるのかもしれないが、幼さの残る秀がそんなおざなりな処理の仕方を知るはずもない。結局、収まりが悪い自分の欲望を自らの手で済ませるほかなかった。
手淫を始める際には欲望を満たすこと以外は考えられない。指を使い、貪るように快楽を追う。だがそれを終えた後の嫌な罪悪感にはどうしても馴染めない。なぜそう感じるのかもわからないが、ひどく悪いことをしている気がしてならないのだ。
同年代の男ならば皆やっていることだろう。それはクラスでもときどき話題になったりもする。ただそういった話題の中では、行為そのものを直接結びつける表現はやはり避けられるものだ。極少数の仲間内にでもなれば、もっと踏み込んだ話にもなるのだろうが、秀はそういった話題に入れないでいた。
興味がないわけではない。健康男児なのだ。異性に興味を持つのは自然のことである。
ただこれまで自分が性処理を行うときには、その対象はあくまで女性だったはずだ。それなのにここ数日見る夢はクリシュトフのことばかりだった。
クリシュトフは同性だ。なぜ彼にこのような邪まな思いを抱くのかが理解できないでいた。
今夜もそうだ。クリシュトフの夢を見て勃起して、その欲望を抑えるために自慰を行った。達する瞬間にさえ、頭に浮かんだのはクリシュトフの端整な顔だった。
赤銅色の長い睫毛がゆっくりと上がり、深い闇に似た瑠璃色の瞳が秀を見る。その瞬間に白濁の液が放たれた。放出したばかりの気だるさと、性の対象として友人を見てしまった罪悪感で秀は息苦しくなる。
火照る身体を冷ますために、丸めたティッシュをゴミ箱へ放り投げながらベランダの戸を開けた。
雨が近いのか、湿気を帯びた生ぬるい風が秀の頬をなぶった。素足のままベランダへ出る。背後の部屋から洩れるフットライトの僅かな明かり以外ないその場所では、どこへ視線をやっても暗闇だった。時折強く吹く風が木々を揺らし、枝葉がざわつくことで、目の前にあるのはよく知っている林や森などだとわかる。
手すりに凭れかかり、茫洋とした闇を見つめる。その時だった。風に揺れた枝葉の音に混じり、何かの足音が聞こえてきた。
それはちょうど秀のベランダの下方辺りからする。犬や猫の類ではない。かなり重いものが歩いている足音だ。秀は目を凝らして下を覗き込んでみる。
ベランダの真下はコンクリだ。そこで聞こえた足音で、正体が人であることがわかった。運動靴ではなく、ヒールのある靴音だ。それは足音を忍ばせる風でもなく寮へと近づいてくる。
秀は相手が見えやすいように回り込んだ。その足音は一度立ち止まり、また歩き出した。この下には寮への入り口はないからだろう。正体不明の人物が寮へ侵入しようとしている。これは寮監へ知らせるべきだろうと秀が部屋へと方向転換したときだ。
雲間が現れ、月が現れた。月光が注がれ周囲が明るくなる。秀はもう一度ベランダに戻り、足音の主を探した。ヤツは建物の角に差し掛かったところだった。
羽織っているジャケットが翻り、なぶる風に髪が舞い上がる。青白い光の中でその髪はとても目立つ色をしていた。
光線の具合から飴色に輝く髪。
そんな色をした髪の人間など一人しか知らない。
「クリス……」
秀は小さく呟いた。
眠るタイミングを逃し、ベッドの中で横になったまま秀はクリシュトフのことを考えていた。薄手のカーテンの向こうから朝日が差し込んでくる。もうすぐ夜明けだ。
ごろりと寝返りを打ち、まぶたを閉じた。
前にも同じことがあったはずだ。あれは確か始業式の前夜で、解熱剤を寮監から貰い、自室へと戻る途中気分が悪くなって蹲っていたとき彼が現れた。
あの時は、慣れない土地で寝付けなかったからだと言っていた。だがあれからかなりの時間が経過している。学校も始まっているし、不慣れな土地とはもう言えないだろう。
ではなぜ今夜も彼はこんな夜中まで外出していたのだろうか。
防音完備の部屋では隣室の様子は窺えない。秀はいつもより1時間近く早く置き出し、身支度を整えた。
眠れないと呟きながら視線を落とした先には、クリシュトフの噛み傷がある。噛み傷といってもすでに痕跡すらないのだが、確かに何日か前まではあったのだ。その傷があった場所をみつめながら、秀はため息を吐く。
飛び起きた拍子に膝までずり落ちてしまった薄い肌掛けに手をやり、不覚にももよおしてしまっている自分の股間を見てさらにため息を吐いた。
これまでは特に意識していなかったクリシュトフの瑠璃色の瞳。他人の指を咥え、さらには舌さえも這わせる彼の色香に、まだ少年の域を達しきれていない秀にとって刺激的以外のなにものでもなかった。整い過ぎて冷たささえ感じるクリシュトフの瞳が、あの時ほど熱っぽく見えたことはない。
起きて、目覚めてクリスと面と向かって接するときにはどうとも思わないのに、深い眠りに入ると夢に見るのだ。
底のない深い闇にも似た瑠璃色の瞳と白い肌。艶かしく指を舌が這い、熱い息がかかる。心臓が破裂しそうなくらいに脈打ち、耐え切れずにクリシュトフの名前を呼ぶと、ふたつの瑠璃がゆっくりとこちらを見る。
凝視するその双眸に光が燈る。細められて笑うクリシュトフの瞳。──俺の印。と彼の弾む声が耳をくすぐり、そしてその声はやがて秀の別の場所へと移動を始める。
どくん、と脈が打った。
先ほどまで見ていた生々しい夢の記憶を辿っただけであるのに、秀の股間はその先を期待して震えている。
まるで盛りのついた獣のようだ。
夢だけでは射精にまで至らない。だから微妙な違和感だけがそこに残っている。トイレにでも行って用を足せば誤魔化せるのかもしれないが、幼さの残る秀がそんなおざなりな処理の仕方を知るはずもない。結局、収まりが悪い自分の欲望を自らの手で済ませるほかなかった。
手淫を始める際には欲望を満たすこと以外は考えられない。指を使い、貪るように快楽を追う。だがそれを終えた後の嫌な罪悪感にはどうしても馴染めない。なぜそう感じるのかもわからないが、ひどく悪いことをしている気がしてならないのだ。
同年代の男ならば皆やっていることだろう。それはクラスでもときどき話題になったりもする。ただそういった話題の中では、行為そのものを直接結びつける表現はやはり避けられるものだ。極少数の仲間内にでもなれば、もっと踏み込んだ話にもなるのだろうが、秀はそういった話題に入れないでいた。
興味がないわけではない。健康男児なのだ。異性に興味を持つのは自然のことである。
ただこれまで自分が性処理を行うときには、その対象はあくまで女性だったはずだ。それなのにここ数日見る夢はクリシュトフのことばかりだった。
クリシュトフは同性だ。なぜ彼にこのような邪まな思いを抱くのかが理解できないでいた。
今夜もそうだ。クリシュトフの夢を見て勃起して、その欲望を抑えるために自慰を行った。達する瞬間にさえ、頭に浮かんだのはクリシュトフの端整な顔だった。
赤銅色の長い睫毛がゆっくりと上がり、深い闇に似た瑠璃色の瞳が秀を見る。その瞬間に白濁の液が放たれた。放出したばかりの気だるさと、性の対象として友人を見てしまった罪悪感で秀は息苦しくなる。
火照る身体を冷ますために、丸めたティッシュをゴミ箱へ放り投げながらベランダの戸を開けた。
雨が近いのか、湿気を帯びた生ぬるい風が秀の頬をなぶった。素足のままベランダへ出る。背後の部屋から洩れるフットライトの僅かな明かり以外ないその場所では、どこへ視線をやっても暗闇だった。時折強く吹く風が木々を揺らし、枝葉がざわつくことで、目の前にあるのはよく知っている林や森などだとわかる。
手すりに凭れかかり、茫洋とした闇を見つめる。その時だった。風に揺れた枝葉の音に混じり、何かの足音が聞こえてきた。
それはちょうど秀のベランダの下方辺りからする。犬や猫の類ではない。かなり重いものが歩いている足音だ。秀は目を凝らして下を覗き込んでみる。
ベランダの真下はコンクリだ。そこで聞こえた足音で、正体が人であることがわかった。運動靴ではなく、ヒールのある靴音だ。それは足音を忍ばせる風でもなく寮へと近づいてくる。
秀は相手が見えやすいように回り込んだ。その足音は一度立ち止まり、また歩き出した。この下には寮への入り口はないからだろう。正体不明の人物が寮へ侵入しようとしている。これは寮監へ知らせるべきだろうと秀が部屋へと方向転換したときだ。
雲間が現れ、月が現れた。月光が注がれ周囲が明るくなる。秀はもう一度ベランダに戻り、足音の主を探した。ヤツは建物の角に差し掛かったところだった。
羽織っているジャケットが翻り、なぶる風に髪が舞い上がる。青白い光の中でその髪はとても目立つ色をしていた。
光線の具合から飴色に輝く髪。
そんな色をした髪の人間など一人しか知らない。
「クリス……」
秀は小さく呟いた。
眠るタイミングを逃し、ベッドの中で横になったまま秀はクリシュトフのことを考えていた。薄手のカーテンの向こうから朝日が差し込んでくる。もうすぐ夜明けだ。
ごろりと寝返りを打ち、まぶたを閉じた。
前にも同じことがあったはずだ。あれは確か始業式の前夜で、解熱剤を寮監から貰い、自室へと戻る途中気分が悪くなって蹲っていたとき彼が現れた。
あの時は、慣れない土地で寝付けなかったからだと言っていた。だがあれからかなりの時間が経過している。学校も始まっているし、不慣れな土地とはもう言えないだろう。
ではなぜ今夜も彼はこんな夜中まで外出していたのだろうか。
防音完備の部屋では隣室の様子は窺えない。秀はいつもより1時間近く早く置き出し、身支度を整えた。