第5話

文字数 2,474文字

 はあ、はあ、はあ、……。
 息が苦しい。
 激しく打ち続ける鼓動が心臓を今にも破裂させてしまいそうだ。
 はあ、はあ、はあ、……――。
 まるで夢の中で走っているみたいに、足がもつれて早く走れない。
「どうしよう。どうしよう!」
 駆けながら後ろを振り返る。馬房の陰になって見えないが、そこには――彼がいる。彼が――。
「どうしよう……そんなつもりじゃなかったのにっ。――あっ」
 勢い良く転んでしまった。顔が当たったフェンスが派手な音を立てた。痛みよりも、大きな音を立てたことにパニックになる。
 急いで起き上がろうにも、足に力が入らない。腰が立たない。
「怖い、よ。……クリス、クリス」
「そんな場所でなにをしているんだ、シュウ?」
「っ……」
 秀は顔を跳ね上げた。
 見上げた月の無い夜空に、浮かぶように現れたのはレオだった。彼は市内のホテルで宿泊しているはずだ。そのレオが暗くなってから学園の敷地に現れるとは、なにかあるのだろうか。
 そんな疑念が一瞬浮かんだが、すぐに強烈な恐怖に取って代わられた。
「どうしたんだ、そんなおっかない顔して」
 緩い笑顔のまま、レオはフェンス越しに訊ねた。秀の様子がおかしいことに気づいていないはずはないが、あえてそこには触れない。
 秀の瞳は見開かれたまま、じっと赤毛の男をみつめている。なにか逡巡しているようだ。
 やがて、その琥珀色の瞳に涙が溢れた。
「どうしたシュウ」
 少年を落ちつかせようとレオは腰を下ろし、やんわりと視線を返した。
 秀の目からほろりと涙が落ちた。
「……ひとをころした」
 レオの表情が一気に強張る。まるで人が変わったような形相になった。
「“殺した”? いったい誰をだ」
 ガチャガチャと激しくフェンスを揺らし、秀を詰問する。
 堰を切ったように秀は泣き出した。大粒の涙は途切れることなく、その頬を濡らした。


 月の無い夜は心が静かになる。
 だが、今は違う。クリシュトフは足元で冷たく横たわっている青年を見下ろしながら、薄い微笑を浮かべた。
 悲しいほどに胸が弾む。
「秀……秀……――」
 今まで一人で罪を犯してきたのに、秀が、その手を血に染めてしまった。
 こんな悲しいことはないはずなのに……クリシュトフは喜びを感じる自分に驚いた。
 マルギットの復活が叶わないとわかった今、死を望んだばかりだったのに。
 嬉しかった。
 まるでこれが救済にさえ思える。
 罪に手を染めた秀は、これより永劫の刻を自分と過ごすのだ。得られないと思った愛しいひとを、この腕に抱くことができる至福の喜びがクリシュトフの身体を振るわせた。
 懐かしい感覚にも心が震えた。
「いい働きだったな。まさか、こんな結果を招くとは考えてもみなかった」
 光を返さない眼窩は、夜空を虚しく仰いでいる。
 激しく争った痕跡が、乱れた制服の上着に残っていた。
 くつくつと笑い出したクリシュトフは、小さな足音に気づくとさらに声を立てた。
「なにを笑っているんだよ、お前」
 憎悪の篭ったその声は、キシュヴァルディだった。
「愚問、だな」
 満足げな微笑を湛えるクリシュトフは、振り返りもせずに答えた。
 レオは眉を顰め、忌々しげに舌打ちする。
「お前のせいでシュウが人を殺したんだろうが。それを、なんだ? どうして笑っていられるんだ。おかしいんじゃないのか」
「それも愚問だな」
 赤銅色の髪がゆらゆらと揺れる。まるでリズムを取るように愉しげだ。
「俺はもう、ずっと前からおかしいんだよ」
 死者の復活を望み、血の裁判を執行させた時から――クリシュトフは喉を鳴らして笑った。
 ぞくりと冷たいものが背を走る感覚に、レオはおぞましさと共に憐憫の情を沸かせた。
「そいつ……お前が次の生贄に選んでいた男だろう」
「ああ。そう、だな」
「どうするんだ? 学園の生徒が死んだんだ。これまでのような誤魔化しは効かないぞ」
「……そう、だな」
「逃げるのか」
 そう問う言葉に、クリシュトフは口を噤んだ。
 逃げる?
 逃げたい?
 いいや、どれも違う。
 クリシュトフは首を振った。
「秀がいるから逃げない」
「無茶なことを」
 嘲るようにレオが呟いた。
「どうせ儀式は成功しないんだ。これまでのような大義は掲げられない」
「血の裁判に大義は初めから存在しないんだよ。お前がやってきた行為は、今も昔もただの殺戮でしかないのさ」
「手を貸せよ」
「これまで通り、死体の始末をしろっていうのか?」
「この男を殺したのは“ヴェレシュ・クリシュトフ”だとするためにだ」
「罪を被るか。――おやさしいことだな」
「同じことだろう? 理由はどうであれ、秀が犯した罪の原点は俺にある」
「やっと認めるのか。お前なんかと出会わなければ、秀の人生に人殺しなんてものは無縁だったってことが」
 クリシュトフは首を傾げながら、レオを振り返った。
「それは違うな。俺と深く関わることを望んだのは秀だ」
「シュウの手を、お前が振り解けば済んだ話だろう」
 ふっ、とクリシュトフは笑った。
「そうだな。俺はもう飽き飽きしていたのさ。一人きりの世界に……求めてばかりの虚しさに」
「それじゃ、まるでシュウが最後の生贄みたいに聞こえるじゃないか。あの少年が執行者なんだろう?」
「執行者は秀だが、最後の生贄は彼じゃない。――俺だ」
 クリシュトフは、デニムの尻ポケットから小さな折りたたみナイフを取り出した。パチンとナイフの刃を出し、躊躇いもなく、冷たくなった青年の喉を裂いた。
「これでいい」
「警察を甘く見るなよ。そんな傷で誤魔化せると思うのか」
「いいんだ。かく乱させるのが目的じゃないからな。俺が関わっているとさえわかれば、それでいい」
「シュウのためか」
「だってそうだろう?」
 クリシュトフの微笑の中に悲しみを見て取ったレオは、それ以上なにも言わない。
 粛々と、これまでのキシュヴァルディとしての役割を果たすだけだった。
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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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