第4話
文字数 4,599文字
赤みの強いブロンドが、柔らかいルームライトの中で揺れた。窓越しに眺めているのは、家々の明かりが密集している小高い丘。
闇に溶け込み始めた茜色の空に、うっすらと浮かび上がる稜線。点在するあの明かりの中に、討つべきクリシュトフがいる。
『元気にしているのかしら? レオがニホンに行ったことを知ってから、アルベルトったら急にニホンについて勉強するって張りきりだしたの。なにかに興味を持つのはいいことだけど……気持ちは複雑ね。次はいつオラデアに帰ってくるの? 私は貴方が無事ならそれでいいの。キシュヴァルディの掟なんて、本当はどうだっていいのよ。大きな声じゃ言えないけれど、……レオだから話しているのよ? ……あら、アルベルトが呼んでるわ。なにかしら……また電話するわね。次は伝言じゃなくて、貴方の声が聞きたいから、それじゃ』
伝言サービスを聞き終えると、レオの表情に苦悶の色が浮かぶ。
「“次はいつ帰ってくるの”、か……。それがわかれば苦労しないんだがな」
携帯を閉じながら、苦笑する。
やっかいなことに、秀の気持ちはクリシュトフに傾倒してしまっていた。脅せば簡単に逃げ出すと思っていたが、存外に強情な少年である。
「さて、どうしたもんかねえ」
救うとはっきり口にしてみたものの、秀はあまり理解していない気がした。
深く関わる前に、はまり込む前に引き離したかったのだが……。
肉体関係を持っていないことが、かえって結びつきを強くさせているようだ。ドロドロとした愛憎劇にでもなれば、いくらでも利用できたのに。
純愛ごっこならまだしも、クリシュトフは実際に人間の命を奪っているのだ。秀はそれを知りながら、手を貸そうというのだから始末におえない。
しかも――。
レオの脳裏にクリシュトフの言葉が浮かぶ。
手放す気はないと断言した。そんな男から秀を引き剥がせるだろうか。
「……クソッ」
こんなことは想定外だ。
クリシュトフの中に、愛した女はもう……存在していないのか――。
真っ暗な部屋の中で、のそりと動くもの。
ベッドから起き上がったのはクリシュトフだった。
眠れない。ここのところずっとだ。胸の奥がざわざわと、気持ちが悪いほどに波立って落ち着かない。
キッチンへ行き、蛇口をひねる。静寂の中でシンクを打つ水の音が騒がしい。伏せていたカップに水を注ぎ、一息に煽る。
そんなことをした所で喉が潤う感覚はない。生きていた頃のくせだ。味もわからないし、温度も微妙だ。極端に冷たかったり、熱かったりすればわかるが、そのどちらでもない温度になるとまったくわからない。
五感のほとんどが失われているのだ。
目的を果たすためだけの存在に、味覚や嗅覚などは無用ということだろう。望むのは、マルギットの復活だけ――。
それを果たすために、キシュヴァルディから逃げられればよかった。
その一族も、いつの頃からか死体の始末を始めた。あれは何年ごろだったか?
フラッシュバックのように記憶が明滅する。過去が瞬くたびに目の奥に痛みが走った。ベッドへ戻ろうとするも足がもつれて倒れこむ。テーブルが派手な音を立てた。
そのままごろりと仰向けになる。
カーテンの隙間から、外灯の明かりが差し込み、直線状に伸びていた。暗闇の中を、弄るように手を伸ばす。外灯の真っ白な蛍光管の色は、生気のないクリシュトフの指を不気味に浮き立たせた。
「マルギット」
ぽつりと呟く。彼女の髪の色は何色だったろうか?
瞳の色はブルーだった気がするのだが……。
声は?
好きな色は――?
苛むように古い記憶は蘇るが、肝心のことは思い出せない。愛して、愛し尽くして――。焦がれた挙句に、復活の儀式のためだからと骨まで盗んだマルギットのことを、ほとんど思い出せないでいる。
クリシュトフの脳裏に、小さな青磁の壺が浮かび上がる。
顔を傾けて、デスクの上の棚にある白い包みをみつめた。なんども儀式に使い、残りは白い粉末だけになってしまった。
次こそ成功させなければならない。
だが、それは何のためだろうか。顔も声も、髪に色さえも思い出せない女性を蘇らせるため?
「……プロセスに意味は無い」
クリシュトフの表情が暗く冷えたものに変わった。
欲しい結果はマルギットの復活でしかない。彼女のことを思い出せないのは、愛が褪せたわけではない。時間が経ち過ぎただけなのだ。だから――。
「彼女が蘇ればすべてが上手く回るんだ」
儀式を成功させればいいだけの話である。
運命を覆すためにタブーを犯したのだ。だから、今、自分の胸の中で起きているこの不可思議極まりない感情は、神がもたらした試練なのだろう。
苦く、せつない感情であり、ゆったりした甘い心は乾ききった亡者の胸に染み込んでく。
「……シュ……ウ……」
クリシュトフの唇から零れ出た名前。眉を潜め、唇へ指先をあてがう。
小さくドアをノックされ、クリシュトフの肩がびくりと跳ねた。
「クリス? さっき大きな音がしたけど、だいじょうぶか?」
「……」
秀の声を耳にして、クリシュトフは切なげに瞳を閉じた。唇を噛み締め、溜息を吐いた後、意を決して身体を起こす。
「鍵は開いているよ」
今にも震え出しそうな声で答えた。
ドアがゆっくりと開き、薄闇の中で秀らしき影が顔を覗かせた。少しの間を置くと、慌てるように入ってきた。
「え! ちょっとほんとうに平気なのか?」
テーブルの脇で、足を投げ出したまま横になっている姿を見て、秀は驚いた声で訊ねる。
「テーブルに足をひっかけただけだから、平気だ……」
右手を差し出し、秀の手を探した。自分のそれより僅かに小さい手が闇から現れて、手首を掴むと勢いよく引き上げられた。立ち上がると眩暈でもしたのか、バランスを崩すと思わず秀に寄りかかった。
いつもと違う自分の身体の感覚に、クリシュトフは小さく首を傾げた。
「クリスらしくないなあ。大体、こんなに真っ暗にしなくてもいいじゃん。間接照明でも点けておけば、夜中にトイレに行っても転ばないよ?」
無邪気な声で提案してくる秀の身体を、無意識に引き寄せ、抱き締めた。彼の身体に触れていると、とても心地がいいのだ。柔らかい髪は指触りがよくていつまででも触れていたいと思うし、明るく弾む声は耳殻を震わせるだけでなく、閉ざした心も、ささくれた精神もみな――煌く湖上の波みたいに胸を波立たせる。
「……えっと。どうしたのかな、クリス。あの、あの」
腕の中で秀が居心地悪そうに動いた。彼が、抱き締められることを拒む理由は知っている。
――ほかの人間のように抱いたりしない。
その言葉は秀を縛ったようだが、真実はべつにある。彼の存在は熱を帯びていて、クリシュトフの精神を焼き尽くそうとする。
試練なのか、罰なのか。
抑えられない衝動に、亡者は抗えずにいる。血を求めるのとはまったく別の渇きが、クリシュトフを襲っていた。
「秀」
「なに?」
「秀、秀……シュウ……シュ、ウ。――秀」
「どうしたんだよ、クリス」
抑え、ら、れない……。腹の底から熱が噴き出してくる思いに、クリシュトフは身を預けた。
秀の頬を両手で挟み、貪るように唇を重ねる。驚きで撥ね退けようとした秀の腕を掴み、力でねじ伏せた。
「んっ……ク、ク……クリ……ス、……ん」
秀の声が耳をくすぐるたびに、身体の芯が疼いた。触れるところにその存在がいる。手の届く場所に触れたい者がいる、その――幸せ。
しあわせ。
「!」
クリシュトフは驚き、秀の傍から飛びのいた。
自分の心を溢れさせたものに気づき、激しく動揺する。唇を震わせながら、視線は秀を捉えたままだ。
秀も同じように瞠目したまま、とつぜん口づけてきたクリフシュトフを凝視している。
どれほど互いを見つめ合っていただろうか。先に口を開いたのはクリシュトフだった。
視線を逸らした後、両手で顔を覆いながら呟いた。
「望んだのはマルギットの復活。もう一度会いたい。……声が聞きたい」
その言葉が秀を打ちのめすことを知っていて、わざと口にした。
抱き締めてキスをして、それらを打ち消すには傷つけるほかないと思ったからだ。
秀は、贄ではない。唯一無二の執行者だ。自分が彼に惹かれてもいけないし、秀が自分の惹かれてもいけない。
そうでなければ……最後の瞬間に、迷いが生じてしまう。
「えっと……どうしてとかって、聞かない方がよさそうだね。……はは」
俯いた秀が、小さく空笑いする。
部屋に差し込む筋状の明りが、零れ落ちるなにかを光らせた。
「秀はとても大切な存在だ。だから、――すまないことをしたと思ってる」
「うん、わかってる」
それでも秀は顔を上げない。
帰る、と一言告げて、部屋を後にした。
「初めに望んだのは彼女の復活だった。その為に手を汚してきたというのに。今の望みは、……なんだ? 秀とともに、だと? 叶うはずもない。――ああ、だからこその試練であり、罰なのか」
くつくつと自虐的に笑う。
秀と出会った頃には思い出せていたはずのマルギットの声も、笑顔も、髪の色も瞳の色もなにもかもが思い出せない――!
「そうか……」
クリシュトフはベッドへ腰を下ろした。自嘲じみた微笑が彼の白皙を覆い尽くす。
儀式は成功しない。
「残念だったな、キシュヴァルディ。儀式を阻止するという一族の悲願はここで潰えたな」
血が足らなかったわけではない。もはやそれは溢れすぎていたのだ。
マルギットへの献身的で不変の愛を誓って大罪を犯し、罪に塗れた自身を最後に捧げることで赦しを得る。
だがこの赦しを受けない代わりに復活を望み、果たすのが血の裁判である。
魂の救済を捨ててまで誓ったマルギットの復活は、もう叶わない。クリシュトフの心がすでにそれを望んでいないからだ。
今、彼の心を満たし、切望しているのは――。
「秀とともに」
瑠璃色の瞳が闇に溶け、渇いた笑いが部屋に響く。
「叶うはずがない。それなら……いっそ……殺してくれっ」
だが、自分を殺せるのは執行者のみ。――鮎川秀。
これまで流したことのない涙が、クリシュトフの頬を滑り落ちていく。
俺は、愛した者の傍では生きられないのか……?
否。
俺はもう死んでいるじゃないか。
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掲載日2009年 06月06日 15時23分最終更新日-- 更新していません --
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闇に溶け込み始めた茜色の空に、うっすらと浮かび上がる稜線。点在するあの明かりの中に、討つべきクリシュトフがいる。
『元気にしているのかしら? レオがニホンに行ったことを知ってから、アルベルトったら急にニホンについて勉強するって張りきりだしたの。なにかに興味を持つのはいいことだけど……気持ちは複雑ね。次はいつオラデアに帰ってくるの? 私は貴方が無事ならそれでいいの。キシュヴァルディの掟なんて、本当はどうだっていいのよ。大きな声じゃ言えないけれど、……レオだから話しているのよ? ……あら、アルベルトが呼んでるわ。なにかしら……また電話するわね。次は伝言じゃなくて、貴方の声が聞きたいから、それじゃ』
伝言サービスを聞き終えると、レオの表情に苦悶の色が浮かぶ。
「“次はいつ帰ってくるの”、か……。それがわかれば苦労しないんだがな」
携帯を閉じながら、苦笑する。
やっかいなことに、秀の気持ちはクリシュトフに傾倒してしまっていた。脅せば簡単に逃げ出すと思っていたが、存外に強情な少年である。
「さて、どうしたもんかねえ」
救うとはっきり口にしてみたものの、秀はあまり理解していない気がした。
深く関わる前に、はまり込む前に引き離したかったのだが……。
肉体関係を持っていないことが、かえって結びつきを強くさせているようだ。ドロドロとした愛憎劇にでもなれば、いくらでも利用できたのに。
純愛ごっこならまだしも、クリシュトフは実際に人間の命を奪っているのだ。秀はそれを知りながら、手を貸そうというのだから始末におえない。
しかも――。
レオの脳裏にクリシュトフの言葉が浮かぶ。
手放す気はないと断言した。そんな男から秀を引き剥がせるだろうか。
「……クソッ」
こんなことは想定外だ。
クリシュトフの中に、愛した女はもう……存在していないのか――。
真っ暗な部屋の中で、のそりと動くもの。
ベッドから起き上がったのはクリシュトフだった。
眠れない。ここのところずっとだ。胸の奥がざわざわと、気持ちが悪いほどに波立って落ち着かない。
キッチンへ行き、蛇口をひねる。静寂の中でシンクを打つ水の音が騒がしい。伏せていたカップに水を注ぎ、一息に煽る。
そんなことをした所で喉が潤う感覚はない。生きていた頃のくせだ。味もわからないし、温度も微妙だ。極端に冷たかったり、熱かったりすればわかるが、そのどちらでもない温度になるとまったくわからない。
五感のほとんどが失われているのだ。
目的を果たすためだけの存在に、味覚や嗅覚などは無用ということだろう。望むのは、マルギットの復活だけ――。
それを果たすために、キシュヴァルディから逃げられればよかった。
その一族も、いつの頃からか死体の始末を始めた。あれは何年ごろだったか?
フラッシュバックのように記憶が明滅する。過去が瞬くたびに目の奥に痛みが走った。ベッドへ戻ろうとするも足がもつれて倒れこむ。テーブルが派手な音を立てた。
そのままごろりと仰向けになる。
カーテンの隙間から、外灯の明かりが差し込み、直線状に伸びていた。暗闇の中を、弄るように手を伸ばす。外灯の真っ白な蛍光管の色は、生気のないクリシュトフの指を不気味に浮き立たせた。
「マルギット」
ぽつりと呟く。彼女の髪の色は何色だったろうか?
瞳の色はブルーだった気がするのだが……。
声は?
好きな色は――?
苛むように古い記憶は蘇るが、肝心のことは思い出せない。愛して、愛し尽くして――。焦がれた挙句に、復活の儀式のためだからと骨まで盗んだマルギットのことを、ほとんど思い出せないでいる。
クリシュトフの脳裏に、小さな青磁の壺が浮かび上がる。
顔を傾けて、デスクの上の棚にある白い包みをみつめた。なんども儀式に使い、残りは白い粉末だけになってしまった。
次こそ成功させなければならない。
だが、それは何のためだろうか。顔も声も、髪に色さえも思い出せない女性を蘇らせるため?
「……プロセスに意味は無い」
クリシュトフの表情が暗く冷えたものに変わった。
欲しい結果はマルギットの復活でしかない。彼女のことを思い出せないのは、愛が褪せたわけではない。時間が経ち過ぎただけなのだ。だから――。
「彼女が蘇ればすべてが上手く回るんだ」
儀式を成功させればいいだけの話である。
運命を覆すためにタブーを犯したのだ。だから、今、自分の胸の中で起きているこの不可思議極まりない感情は、神がもたらした試練なのだろう。
苦く、せつない感情であり、ゆったりした甘い心は乾ききった亡者の胸に染み込んでく。
「……シュ……ウ……」
クリシュトフの唇から零れ出た名前。眉を潜め、唇へ指先をあてがう。
小さくドアをノックされ、クリシュトフの肩がびくりと跳ねた。
「クリス? さっき大きな音がしたけど、だいじょうぶか?」
「……」
秀の声を耳にして、クリシュトフは切なげに瞳を閉じた。唇を噛み締め、溜息を吐いた後、意を決して身体を起こす。
「鍵は開いているよ」
今にも震え出しそうな声で答えた。
ドアがゆっくりと開き、薄闇の中で秀らしき影が顔を覗かせた。少しの間を置くと、慌てるように入ってきた。
「え! ちょっとほんとうに平気なのか?」
テーブルの脇で、足を投げ出したまま横になっている姿を見て、秀は驚いた声で訊ねる。
「テーブルに足をひっかけただけだから、平気だ……」
右手を差し出し、秀の手を探した。自分のそれより僅かに小さい手が闇から現れて、手首を掴むと勢いよく引き上げられた。立ち上がると眩暈でもしたのか、バランスを崩すと思わず秀に寄りかかった。
いつもと違う自分の身体の感覚に、クリシュトフは小さく首を傾げた。
「クリスらしくないなあ。大体、こんなに真っ暗にしなくてもいいじゃん。間接照明でも点けておけば、夜中にトイレに行っても転ばないよ?」
無邪気な声で提案してくる秀の身体を、無意識に引き寄せ、抱き締めた。彼の身体に触れていると、とても心地がいいのだ。柔らかい髪は指触りがよくていつまででも触れていたいと思うし、明るく弾む声は耳殻を震わせるだけでなく、閉ざした心も、ささくれた精神もみな――煌く湖上の波みたいに胸を波立たせる。
「……えっと。どうしたのかな、クリス。あの、あの」
腕の中で秀が居心地悪そうに動いた。彼が、抱き締められることを拒む理由は知っている。
――ほかの人間のように抱いたりしない。
その言葉は秀を縛ったようだが、真実はべつにある。彼の存在は熱を帯びていて、クリシュトフの精神を焼き尽くそうとする。
試練なのか、罰なのか。
抑えられない衝動に、亡者は抗えずにいる。血を求めるのとはまったく別の渇きが、クリシュトフを襲っていた。
「秀」
「なに?」
「秀、秀……シュウ……シュ、ウ。――秀」
「どうしたんだよ、クリス」
抑え、ら、れない……。腹の底から熱が噴き出してくる思いに、クリシュトフは身を預けた。
秀の頬を両手で挟み、貪るように唇を重ねる。驚きで撥ね退けようとした秀の腕を掴み、力でねじ伏せた。
「んっ……ク、ク……クリ……ス、……ん」
秀の声が耳をくすぐるたびに、身体の芯が疼いた。触れるところにその存在がいる。手の届く場所に触れたい者がいる、その――幸せ。
しあわせ。
「!」
クリシュトフは驚き、秀の傍から飛びのいた。
自分の心を溢れさせたものに気づき、激しく動揺する。唇を震わせながら、視線は秀を捉えたままだ。
秀も同じように瞠目したまま、とつぜん口づけてきたクリフシュトフを凝視している。
どれほど互いを見つめ合っていただろうか。先に口を開いたのはクリシュトフだった。
視線を逸らした後、両手で顔を覆いながら呟いた。
「望んだのはマルギットの復活。もう一度会いたい。……声が聞きたい」
その言葉が秀を打ちのめすことを知っていて、わざと口にした。
抱き締めてキスをして、それらを打ち消すには傷つけるほかないと思ったからだ。
秀は、贄ではない。唯一無二の執行者だ。自分が彼に惹かれてもいけないし、秀が自分の惹かれてもいけない。
そうでなければ……最後の瞬間に、迷いが生じてしまう。
「えっと……どうしてとかって、聞かない方がよさそうだね。……はは」
俯いた秀が、小さく空笑いする。
部屋に差し込む筋状の明りが、零れ落ちるなにかを光らせた。
「秀はとても大切な存在だ。だから、――すまないことをしたと思ってる」
「うん、わかってる」
それでも秀は顔を上げない。
帰る、と一言告げて、部屋を後にした。
「初めに望んだのは彼女の復活だった。その為に手を汚してきたというのに。今の望みは、……なんだ? 秀とともに、だと? 叶うはずもない。――ああ、だからこその試練であり、罰なのか」
くつくつと自虐的に笑う。
秀と出会った頃には思い出せていたはずのマルギットの声も、笑顔も、髪の色も瞳の色もなにもかもが思い出せない――!
「そうか……」
クリシュトフはベッドへ腰を下ろした。自嘲じみた微笑が彼の白皙を覆い尽くす。
儀式は成功しない。
「残念だったな、キシュヴァルディ。儀式を阻止するという一族の悲願はここで潰えたな」
血が足らなかったわけではない。もはやそれは溢れすぎていたのだ。
マルギットへの献身的で不変の愛を誓って大罪を犯し、罪に塗れた自身を最後に捧げることで赦しを得る。
だがこの赦しを受けない代わりに復活を望み、果たすのが血の裁判である。
魂の救済を捨ててまで誓ったマルギットの復活は、もう叶わない。クリシュトフの心がすでにそれを望んでいないからだ。
今、彼の心を満たし、切望しているのは――。
「秀とともに」
瑠璃色の瞳が闇に溶け、渇いた笑いが部屋に響く。
「叶うはずがない。それなら……いっそ……殺してくれっ」
だが、自分を殺せるのは執行者のみ。――鮎川秀。
これまで流したことのない涙が、クリシュトフの頬を滑り落ちていく。
俺は、愛した者の傍では生きられないのか……?
否。
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掲載日2009年 06月06日 15時23分最終更新日-- 更新していません --
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