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文字数 5,024文字
いつものように肩を並べて食堂へ向かうが、今朝は会話が一言もない。秀が話しかけなければ言葉を発しないクリシュトフは、無言のまま歩いている。そんな状況に一番苦痛を感じているのは他でもない秀だった。
昨夜のことが聞きたいのに、友人を自慰の対象にしてしまった罪悪感からなにも言い出せずにいた。
さすがのクリシュトフも秀の様子に気がつく。なにか言いたげに時折自分を見上げてくるが、じっとみつめるだけでなにも言わない。そして脱力したように肩を落とし、俯くということを何度も繰り返していているのだ。気づかないはずがない。
辿り着いた食堂のドアに手をかけ、なにか言いたいことがあるのかと訊いてみると秀は顔を斜めに向けて口を開いた。
「夕べさ。夜中にどこかへ出かけていただろ?」
「夕べ?」
「うん。夜中に目が覚めて……ベランダに出てぼんやりしていたら、寮に戻ってくるクリスを見たんだ」
「俺を見た?」
「そうだよ。いったいあんな時間までなにしていたんだ?」
ここでようやくクリシュトフの方へと顔を向けた。クリシュトフは少しの間だけ考え込むような仕草で目を伏せる。ノブを握る手に力を込め、ドアを押し開けながら、
「いつもの散歩だよ。ただ、戻ってくる途中で名前のわからない綺麗な花をみつけて眺めていたら、思っていた以上に時間が経っていたようだ。秀に言われるまで、自分が戻ってきたのが真夜中だったなんて今の今まで気づかなかった」
ふふと軽く鼻で笑う。
でも、ともう一度質問しようと秀が口を開くのと同時に、食堂内の騒々しさが二人を飲み込んだ。
「なに? この騒ぎ……」
「さあ?」
朝は大抵にぎやかだが、今朝はいつものそれと違っていた。にぎやかと言うよりも、騒然としていると言った方がいい。
「なんかあったのか?」
秀は手近にいる同学年の生徒に訊いてみた。質問された彼は朝食を乗せたトレーをテーブルに置きながら、食堂の中央に置かれてあるテレビを顎で指した。
「さっきから同じニュースやってるんだよ。なんか、この近くの山ん中で変死体が発見されたって」
「変……死体?」
「うん。頚動脈切断で失血死っていうのか? それで殺人事件だーって大騒ぎなんだよ」
「それにしても、この騒ぎぶりは……」
秀が不思議そうに食堂内を見渡すと、先ほどの同級生が「そりゃあ、この学校の敷地内が発見現場だからだろ」と補足した。
落ち着いて食事ができる雰囲気ではなく、秀とクリシュトフは早々に切り上げて自室へ戻ることにした。
色めき立っているのは寮の中だけではなく、校内も同じだった。むしろ警察車両が出入りする分、寮の中よりも浮き足立っているようにも見えた。
はっきりとしたことがわからないまま時間だけが過ぎ、通常の授業だけで1日が終わった。補習授業やクラブ活動などは当面自粛するという形となり、いつもより早い時間に寮へ戻れることを喜ぶ生徒もいれば、外出することが厳しい管理化に置かれることに不平を漏らす者もいた。
秀はそのどちらでもなかったが、夜に山中を散歩するというクリシュトフの身を案じた。
「夜に寮を抜け出すのはもう止めたほうがいいよ」
着替えを終え、その足ですぐにクリシュトフの部屋を訪ねた秀はそう言って友人の反応を待った。
簡易キッチンでコーヒーを淹れていた青い瞳が小さく笑う。今朝のニュースに事件性を感じていないのか、それとも彼にとって人が死ぬということは日常的過ぎて気に留めるほどのことでもないのか。クリシュトフは琥珀色の液体をゆっくりとカップに注ぎ、秀の方にだけミルクと砂糖をたっぷりと入れた。
笑い声しか聞こえないキッチンへ、秀が膨れた顔を向けた。
「クリス! 僕は本気で心配してんだからな! 笑い事なんかじゃないんだぞ?」
クリシュトフが両手にマグカップを持ってやってきた。顔は笑ったままだ。
「すまない。悪気があって笑ったわけじゃない」
「悪気がなくたって、心配してる僕はすごく気分が悪いんだけど?」
唇を尖らせ、差し出されたカップを受け取りながらさらに詰め寄った。
「犯人の目星も付いてないし、とりあえず死体がみつかった裏山へは行かない方がいいって……。いったい何のために夜中の山ン中へ行くのか知らないけどさ」
真夜中の散歩だなどと誰が信じるだろう。秀は真実が知りたくて、わざと本音をちらつかせる。
「犯人……ねえ。でも日本の警察は優秀なのだろう? それならそのうちきっと捕まるよ」
カップから上がる湯気の向こうでクリシュトフがにこりと笑った。
「だけど秀がそんなに心配するのなら、気をつけるよ」
「気をつけるんじゃなくて、僕はやめて欲しいって意味で言ってるんだけど」
「ああ……。気をつける」
頑として譲らないクリシュトフを前に、秀は大きく溜息を吐いた。この調子だと夜中に出かける理由を問いただしたとしても、上手くはぐらかされてしまうに違いない。
悪びれた様子を小指の先ほども見せず、クリシュトフはテラスへ出て行った。天気は荒れ模様で、飴色の髪が風になんども攫われていく。曇天の空を青い瞳が見上げた。
「今夜はどのみち夜中の散歩は無理そうだ。その内雨が落ちてくる」
晴れていれば行く気だったのかと秀は呆れたように呟いた。
雨が降り始めたのはそれから間もなくだった。
夕食が済み、秀は一旦クリシュトフと別れた。さすがに1日中張り付いているわけにもいかない。窓を叩く雨はかなり強くなっていて、屋根つきであるにもかかわらずテラスは水浸しになっていた。
時刻も9時を回っている。あと少しで点呼の時間だ。秀は急いでシャワーを浴び、それに備えた。
廊下で整列していると、少し遅れて部屋から出てきたクリシュトフが秀をみつけて意味ありげに笑う。
秀の唇が出歩くなよと象ると、クリシュトフは目を細めて小さく頷いて見せた。
あの笑顔はどこか信用できないと思った。
秀は点呼の後、わざとらしく部屋の明かりを消して寝たふりをした。もちろんこっそり出かけるにしても、点呼が終わったばかりで寮内はまだざわついているからそうすぐにいなくなることはないだろう。
それでも息を殺して気配を窺っていないと裏をかかれてしまうんじゃないかと思ったのだ。
外は相変わらずの土砂降りだった。いくらなんでも出歩いたりしないだろうという気もしなくもない。
ベッドの上であぐらをかき、壁にもたれた。
気づくとうとうととしている自分に驚いて顔を上げた。慌てて壁の時計に目をやる。夜光塗料で光る文字盤の1時を短針が指していた。
「え、もうそんな時間? クリスは?」
壁に耳を押し付けてもなにも聞こえるはずがない。防音設備整うこの寮で、隣室の小さな物音がこちらへ届くわけもない。
辺りはしんと静まり返っている。雨はどうやら止んでいるようだった。月明かりが差し込んでいるわけではないが、あれほど賑やかだった雨音が今はしない。
物音がしないのは眠っているからなのか。それとも雨が止むのを待って出かけてしまったから静かなのか。
秀は自室を出て、隣の部屋へ向かう。
非常灯だけが点いている廊下は最小限の明かりで薄暗い。場所によっては真っ暗なところもあった。
秀は怖気をふるいながら周囲を見渡す。とうぜんだが誰もいない。いたらその方が怖い。
二の腕辺りを両手で擦りながらクリシュトフの部屋の前に立つ。
ドアを叩こうか。
だがもしも眠っていたら、こんな時間に訪ねてくるなんて非常識だろうし、第一出かけたかもしれないのだと疑っていたことがバレてしまう。
ノックするために振り上げた拳をゆっくりと下ろした。
俯いて再度考え込んだ。
脳裏には夕食時に流れていた事件の続報が浮かぶ。
被害者は頚動脈を切断されての失血死という、朝のニュースとほぼ同じ内容だった。しかし遺体の一部が白骨化していたらしく、死亡したのは一ヶ月ほどくらい前になるらしい。未だに凶器は発見されていない上に、犯人の目星も付いていない。通り魔的殺人なのか怨恨なのかもわかっていない。夕方の段階ではっきりしたことと言えば被害者を死に至らしめた直接的な原因と死亡時期のみだ。
その内被害者の身元もはっきりするのだろう。
だが人がこの学校の敷地内で死んでいたのだ。殺された場所がどこかもまだ発表されてはいなかったが、殺人を犯した者が平然とこの辺りをうろついているのかもしれないと思うと空恐ろしかった。
ましてやクリシュトフはその山中を歩き回っている。
被害に合うかもしれないし、もしかすると。
そこで秀の思考が停止した。
自分がほんとうに不安に思うのはそこなのじゃないかと気づいたからだ。
犯人がクリシュトフかもしれない、ということ。
どくんと大きく心臓が波打った。先ほどとは違う怖気が身を襲う。
どうして彼を犯人かもしれないと思ってしまうのか。彼はただの散歩だと言っているのに、なぜそれを疑ってしまうのか。
とつぜん背後に気配を感じ、秀は振り返った。
そこには外出から戻ってきたクリシュトフがいた。首を傾げて「どうしたんだい? こんな時間に」と笑顔で訊ねてくる。
「どうしてって……」
答えあぐねていた秀は、クリシュトフの上着を見てぎくりとした。雨でぐっしょりと濡れている。秀が部屋を出るときにはもう雨は止んでいたはずだ。窓を開けて確認したわけではないが、クリシュトフの上着をここまで濡らしてしまうほどの雨は降っていなかったはずだ。
それは彼が、雨が降っている頃合いに出かけたという証に他ならない。
「雨……。まだすごいのか?」
カマをかけるつもりで訊いてみた。
クリシュトフは上着に手を当て、静かに口元を緩ませた。
「上着が濡れているからそう思ったんだね? 今はもう止んでいるよ。これは出掛けに濡れたんだ。それはもうすごい土砂降りで驚いたよ」
悪びれずに答える。
「危ないから……出かけるなって言ったよね?」
緊張の糸が切れかかっているのか、声が震える。
「こんな時間に出かけて……事件に巻き込まれたらどうするんだよ。犯人に……──犯人に間違われたらどうするんだよ」
声を抑えて話す秀の頬に、クリシュトフの冷たい指先が触れると、秀は弾かれたように一歩下がった。
背中にドアノブが当たる。
「大丈夫だから」
なんの説得力も根拠もない言葉を吐かれ、秀は睨みつけるようにクリシュトフを見上げた。
「大丈夫なわけないだろ? 事件があったばかりだから、警察だって巡回してるだろうしさ。そんなところへノコノコ現れたら、ソッコー逮捕だよ」
「いきなり逮捕されるのかい?」
「……ええと。任意同行ってやつだっけ? と、とりあえず! しばらくは大人しくしててくれよ」
「なぜ?」
その言葉に違和感を覚えた秀は、クリシュトフの顔を黙ったまま見つめた。友人の身を案じている者に対して発せられる言葉ではないと思ったからだが、視線の先にある信じがたいものに秀は言葉を失う。
「どうしたんだい、秀? ああ、これのことかな」
凝視する視線の先に気づいたクリシュトフは、事も無げに笑う。
「同意の上での行為だったのに、いざとなると怖気づいたのか知れないが、いきなり噛みつかれてね。唇の端を少し切ったんだよ……。なに、そう心配するほどのことじゃないさ」
そう言って口の端を伝う血の一筋を無造作に拭った。
「眠れないのならいっしょにベッドへ入ろうか? 秀がそれを望むなら俺は大歓迎だ」
くつくつと笑いながら、隣人は秀の背後にあるドアノブへと手を伸ばした。秀は動けずにいて、ただ視線をクリシュトフの動きに合わせて移動させていく。その先には拭われても尚痕跡を残す血の痕がある。
非常灯の薄明かりに浮かぶ、生々しい血の色。
「いっしょに眠るかい?」
楽しげにクリシュトフは自室へと誘う。秀は慌てて首を振り、その場を飛び退いた。
静かな廊下にドアの閉まる小さな金属音が響く。
閉ざされた灰色の扉を秀は凝視した。
「今のはクリス……なのか?」
青白い非常灯の明かり。友人の口元を象る蠱惑的な笑み。それを彩る鮮烈な赤い血。
ふらふらと覚束ない足取りで秀は部屋へと戻った。
昨夜のことが聞きたいのに、友人を自慰の対象にしてしまった罪悪感からなにも言い出せずにいた。
さすがのクリシュトフも秀の様子に気がつく。なにか言いたげに時折自分を見上げてくるが、じっとみつめるだけでなにも言わない。そして脱力したように肩を落とし、俯くということを何度も繰り返していているのだ。気づかないはずがない。
辿り着いた食堂のドアに手をかけ、なにか言いたいことがあるのかと訊いてみると秀は顔を斜めに向けて口を開いた。
「夕べさ。夜中にどこかへ出かけていただろ?」
「夕べ?」
「うん。夜中に目が覚めて……ベランダに出てぼんやりしていたら、寮に戻ってくるクリスを見たんだ」
「俺を見た?」
「そうだよ。いったいあんな時間までなにしていたんだ?」
ここでようやくクリシュトフの方へと顔を向けた。クリシュトフは少しの間だけ考え込むような仕草で目を伏せる。ノブを握る手に力を込め、ドアを押し開けながら、
「いつもの散歩だよ。ただ、戻ってくる途中で名前のわからない綺麗な花をみつけて眺めていたら、思っていた以上に時間が経っていたようだ。秀に言われるまで、自分が戻ってきたのが真夜中だったなんて今の今まで気づかなかった」
ふふと軽く鼻で笑う。
でも、ともう一度質問しようと秀が口を開くのと同時に、食堂内の騒々しさが二人を飲み込んだ。
「なに? この騒ぎ……」
「さあ?」
朝は大抵にぎやかだが、今朝はいつものそれと違っていた。にぎやかと言うよりも、騒然としていると言った方がいい。
「なんかあったのか?」
秀は手近にいる同学年の生徒に訊いてみた。質問された彼は朝食を乗せたトレーをテーブルに置きながら、食堂の中央に置かれてあるテレビを顎で指した。
「さっきから同じニュースやってるんだよ。なんか、この近くの山ん中で変死体が発見されたって」
「変……死体?」
「うん。頚動脈切断で失血死っていうのか? それで殺人事件だーって大騒ぎなんだよ」
「それにしても、この騒ぎぶりは……」
秀が不思議そうに食堂内を見渡すと、先ほどの同級生が「そりゃあ、この学校の敷地内が発見現場だからだろ」と補足した。
落ち着いて食事ができる雰囲気ではなく、秀とクリシュトフは早々に切り上げて自室へ戻ることにした。
色めき立っているのは寮の中だけではなく、校内も同じだった。むしろ警察車両が出入りする分、寮の中よりも浮き足立っているようにも見えた。
はっきりとしたことがわからないまま時間だけが過ぎ、通常の授業だけで1日が終わった。補習授業やクラブ活動などは当面自粛するという形となり、いつもより早い時間に寮へ戻れることを喜ぶ生徒もいれば、外出することが厳しい管理化に置かれることに不平を漏らす者もいた。
秀はそのどちらでもなかったが、夜に山中を散歩するというクリシュトフの身を案じた。
「夜に寮を抜け出すのはもう止めたほうがいいよ」
着替えを終え、その足ですぐにクリシュトフの部屋を訪ねた秀はそう言って友人の反応を待った。
簡易キッチンでコーヒーを淹れていた青い瞳が小さく笑う。今朝のニュースに事件性を感じていないのか、それとも彼にとって人が死ぬということは日常的過ぎて気に留めるほどのことでもないのか。クリシュトフは琥珀色の液体をゆっくりとカップに注ぎ、秀の方にだけミルクと砂糖をたっぷりと入れた。
笑い声しか聞こえないキッチンへ、秀が膨れた顔を向けた。
「クリス! 僕は本気で心配してんだからな! 笑い事なんかじゃないんだぞ?」
クリシュトフが両手にマグカップを持ってやってきた。顔は笑ったままだ。
「すまない。悪気があって笑ったわけじゃない」
「悪気がなくたって、心配してる僕はすごく気分が悪いんだけど?」
唇を尖らせ、差し出されたカップを受け取りながらさらに詰め寄った。
「犯人の目星も付いてないし、とりあえず死体がみつかった裏山へは行かない方がいいって……。いったい何のために夜中の山ン中へ行くのか知らないけどさ」
真夜中の散歩だなどと誰が信じるだろう。秀は真実が知りたくて、わざと本音をちらつかせる。
「犯人……ねえ。でも日本の警察は優秀なのだろう? それならそのうちきっと捕まるよ」
カップから上がる湯気の向こうでクリシュトフがにこりと笑った。
「だけど秀がそんなに心配するのなら、気をつけるよ」
「気をつけるんじゃなくて、僕はやめて欲しいって意味で言ってるんだけど」
「ああ……。気をつける」
頑として譲らないクリシュトフを前に、秀は大きく溜息を吐いた。この調子だと夜中に出かける理由を問いただしたとしても、上手くはぐらかされてしまうに違いない。
悪びれた様子を小指の先ほども見せず、クリシュトフはテラスへ出て行った。天気は荒れ模様で、飴色の髪が風になんども攫われていく。曇天の空を青い瞳が見上げた。
「今夜はどのみち夜中の散歩は無理そうだ。その内雨が落ちてくる」
晴れていれば行く気だったのかと秀は呆れたように呟いた。
雨が降り始めたのはそれから間もなくだった。
夕食が済み、秀は一旦クリシュトフと別れた。さすがに1日中張り付いているわけにもいかない。窓を叩く雨はかなり強くなっていて、屋根つきであるにもかかわらずテラスは水浸しになっていた。
時刻も9時を回っている。あと少しで点呼の時間だ。秀は急いでシャワーを浴び、それに備えた。
廊下で整列していると、少し遅れて部屋から出てきたクリシュトフが秀をみつけて意味ありげに笑う。
秀の唇が出歩くなよと象ると、クリシュトフは目を細めて小さく頷いて見せた。
あの笑顔はどこか信用できないと思った。
秀は点呼の後、わざとらしく部屋の明かりを消して寝たふりをした。もちろんこっそり出かけるにしても、点呼が終わったばかりで寮内はまだざわついているからそうすぐにいなくなることはないだろう。
それでも息を殺して気配を窺っていないと裏をかかれてしまうんじゃないかと思ったのだ。
外は相変わらずの土砂降りだった。いくらなんでも出歩いたりしないだろうという気もしなくもない。
ベッドの上であぐらをかき、壁にもたれた。
気づくとうとうととしている自分に驚いて顔を上げた。慌てて壁の時計に目をやる。夜光塗料で光る文字盤の1時を短針が指していた。
「え、もうそんな時間? クリスは?」
壁に耳を押し付けてもなにも聞こえるはずがない。防音設備整うこの寮で、隣室の小さな物音がこちらへ届くわけもない。
辺りはしんと静まり返っている。雨はどうやら止んでいるようだった。月明かりが差し込んでいるわけではないが、あれほど賑やかだった雨音が今はしない。
物音がしないのは眠っているからなのか。それとも雨が止むのを待って出かけてしまったから静かなのか。
秀は自室を出て、隣の部屋へ向かう。
非常灯だけが点いている廊下は最小限の明かりで薄暗い。場所によっては真っ暗なところもあった。
秀は怖気をふるいながら周囲を見渡す。とうぜんだが誰もいない。いたらその方が怖い。
二の腕辺りを両手で擦りながらクリシュトフの部屋の前に立つ。
ドアを叩こうか。
だがもしも眠っていたら、こんな時間に訪ねてくるなんて非常識だろうし、第一出かけたかもしれないのだと疑っていたことがバレてしまう。
ノックするために振り上げた拳をゆっくりと下ろした。
俯いて再度考え込んだ。
脳裏には夕食時に流れていた事件の続報が浮かぶ。
被害者は頚動脈を切断されての失血死という、朝のニュースとほぼ同じ内容だった。しかし遺体の一部が白骨化していたらしく、死亡したのは一ヶ月ほどくらい前になるらしい。未だに凶器は発見されていない上に、犯人の目星も付いていない。通り魔的殺人なのか怨恨なのかもわかっていない。夕方の段階ではっきりしたことと言えば被害者を死に至らしめた直接的な原因と死亡時期のみだ。
その内被害者の身元もはっきりするのだろう。
だが人がこの学校の敷地内で死んでいたのだ。殺された場所がどこかもまだ発表されてはいなかったが、殺人を犯した者が平然とこの辺りをうろついているのかもしれないと思うと空恐ろしかった。
ましてやクリシュトフはその山中を歩き回っている。
被害に合うかもしれないし、もしかすると。
そこで秀の思考が停止した。
自分がほんとうに不安に思うのはそこなのじゃないかと気づいたからだ。
犯人がクリシュトフかもしれない、ということ。
どくんと大きく心臓が波打った。先ほどとは違う怖気が身を襲う。
どうして彼を犯人かもしれないと思ってしまうのか。彼はただの散歩だと言っているのに、なぜそれを疑ってしまうのか。
とつぜん背後に気配を感じ、秀は振り返った。
そこには外出から戻ってきたクリシュトフがいた。首を傾げて「どうしたんだい? こんな時間に」と笑顔で訊ねてくる。
「どうしてって……」
答えあぐねていた秀は、クリシュトフの上着を見てぎくりとした。雨でぐっしょりと濡れている。秀が部屋を出るときにはもう雨は止んでいたはずだ。窓を開けて確認したわけではないが、クリシュトフの上着をここまで濡らしてしまうほどの雨は降っていなかったはずだ。
それは彼が、雨が降っている頃合いに出かけたという証に他ならない。
「雨……。まだすごいのか?」
カマをかけるつもりで訊いてみた。
クリシュトフは上着に手を当て、静かに口元を緩ませた。
「上着が濡れているからそう思ったんだね? 今はもう止んでいるよ。これは出掛けに濡れたんだ。それはもうすごい土砂降りで驚いたよ」
悪びれずに答える。
「危ないから……出かけるなって言ったよね?」
緊張の糸が切れかかっているのか、声が震える。
「こんな時間に出かけて……事件に巻き込まれたらどうするんだよ。犯人に……──犯人に間違われたらどうするんだよ」
声を抑えて話す秀の頬に、クリシュトフの冷たい指先が触れると、秀は弾かれたように一歩下がった。
背中にドアノブが当たる。
「大丈夫だから」
なんの説得力も根拠もない言葉を吐かれ、秀は睨みつけるようにクリシュトフを見上げた。
「大丈夫なわけないだろ? 事件があったばかりだから、警察だって巡回してるだろうしさ。そんなところへノコノコ現れたら、ソッコー逮捕だよ」
「いきなり逮捕されるのかい?」
「……ええと。任意同行ってやつだっけ? と、とりあえず! しばらくは大人しくしててくれよ」
「なぜ?」
その言葉に違和感を覚えた秀は、クリシュトフの顔を黙ったまま見つめた。友人の身を案じている者に対して発せられる言葉ではないと思ったからだが、視線の先にある信じがたいものに秀は言葉を失う。
「どうしたんだい、秀? ああ、これのことかな」
凝視する視線の先に気づいたクリシュトフは、事も無げに笑う。
「同意の上での行為だったのに、いざとなると怖気づいたのか知れないが、いきなり噛みつかれてね。唇の端を少し切ったんだよ……。なに、そう心配するほどのことじゃないさ」
そう言って口の端を伝う血の一筋を無造作に拭った。
「眠れないのならいっしょにベッドへ入ろうか? 秀がそれを望むなら俺は大歓迎だ」
くつくつと笑いながら、隣人は秀の背後にあるドアノブへと手を伸ばした。秀は動けずにいて、ただ視線をクリシュトフの動きに合わせて移動させていく。その先には拭われても尚痕跡を残す血の痕がある。
非常灯の薄明かりに浮かぶ、生々しい血の色。
「いっしょに眠るかい?」
楽しげにクリシュトフは自室へと誘う。秀は慌てて首を振り、その場を飛び退いた。
静かな廊下にドアの閉まる小さな金属音が響く。
閉ざされた灰色の扉を秀は凝視した。
「今のはクリス……なのか?」
青白い非常灯の明かり。友人の口元を象る蠱惑的な笑み。それを彩る鮮烈な赤い血。
ふらふらと覚束ない足取りで秀は部屋へと戻った。