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文字数 5,437文字
点呼が終わったのはかれこれ四時間ほど前になる。今は午前二時。
耳鳴りがするほどの静けさが秀を襲う。冷たい廊下の上に腰を下ろし、真夜中の散歩へと忍び出たクリシュトフの部屋の前でひとり佇む。
いつもは聞こえる梟やみみずくの鳴き声が、今夜に限ってしない。しんと静まり返った冷たい鉄筋の建物の中で、秀は背を丸めて蹲った。
昼間学校で決めたこと。
真夜中に出かけなければならない理由を問いただすことだ。
なんども口を開けては言いよどむ秀に、クリシュトフが「なにか言いたいことがあるのか」と問いかけてきたが、勝手にはぐらかされるに違いないと思い込み、首を振ってノーのサインを送った。
午前を過ぎ、寮を抜け出す彼の姿をこっそりと見送りながらなにも聞けなかったことを悔やんだ結果、クリシュトフの部屋の前で帰りを待つことに決めた。
日中は初夏の陽気で汗ばむほどの気温だが、山間の夜ともなるとその寒暖の差はきつい。なにも羽織らずにいた秀はぶるっと身震いをして、両肩を自らの腕で抱き締める。
彼は音もなく現れた。
まるで影の中から現れたように思えるほど、気づかないうちに秀の目の前で立っている。
出て行ったときと同じ、オフホワイトのニットの上着と膝辺りがほつれているヴィンテージのデニム。足音がしなかったのは部屋履きを履いていないせいだろうか。クリシュトフは素足のままだった。
「今夜も待ち伏せかい?」
柔らかい声が降ってくる。戸惑いの色が感じられた。
秀はゆっくりと立ち上がりながら「うん」と素直に答えた。
「どうする? 今夜は室内に入るかい?」
この間の夜のように秀が拒むと高を括っているのか、クリシュトフの声にあった戸惑いの色は形を潜めてしまい、代わりに悪戯っぽい含みが取って代わった。
「話があるから、今日は入る」
目を逸らさずに告げた。クリシュトフへ寄せる、普通ではない感情も今は関係ない。放埓に繰り返す夜歩きの理由とそれから……──唇に付着していた血の正体。
なにやら覚悟めいた顔で「今日は入る」と答えた秀に、思いがけずクリシュトフは表情を緩ませた。
「それなら冷たい缶コーヒーででももてなそう」
「も、もてなしてくれなくてもいい」
聞きづらいことを訊ねるのだから、たとえ出されるものが缶コーヒーであってもそんなことをされては却って気が引けてしまう。
秀の背がさらに丸まった。
部屋の中央でもじもじとしている秀に缶コーヒーを手渡しながら、クリシュトフは訝しげに顔を覗き込んだ。
「どうした? いつもの場所へ腰を下ろしたらいい」
「いつもの場所……」
「ああ、そうだ」
缶のプルトップを開け、クリシュトフは喉を鳴らしながら豪快に飲み下していく。
彼が言ういつもの場所とはベッドの上を指す。
秀は変に畏まった様子で移動した。握り締めたアイスの缶コーヒーが温くなってしまいそうだ。
努めて平静を装うとした。部屋を訪ねたのは友人としてであって、けしてやましい気持ちなどないのだ。要件は殺人事件が解決するまでの間、夜歩きを止めてもらうよう頼むことと、それができないのならせめて理由を教えてくれるように乞うこと。この二点に尽きるのだ。
仲良くしてくれている、仮にも先輩という立場の人を性欲の捌け口に使ったなどと悟られてはいけない。
「秀?」
クリシュトフの声とベッドが沈んだのはほぼ同時だった。
ただそれだけのことで、秀の心臓は壊れるかと思うほどの早さで脈を打ち始めた。
頭の芯が痺れたように感じるのは、眠気のせいなのか。だがその割には目が冴えている。
「最近の秀はときどき深く考え込む仕草をするときがある。なにか悩みでもあるのか? 話というのはそのことかい?」
秀はふるふると首を振ると、柔らかいネコっ毛がルームライトの中で小さく跳ねた。
「今日、こんな時間までクリスの帰りを待っていたのは知りたいことがあったからなんだ」
「……知りたい……こと?」
うん、と子供のように秀は頷いた。
「みんなにバレないように寮を抜け出すのには理由があると思うんだ。そうじゃなきゃ、解決されてない殺人事件が起きているのに出歩いたりしないだろ? 違う?」
「理由、か……。それは確かにある」
「僕がそれを知ることでクリスの夜歩きが無くならないかなって思うんだけど……これって楽天的過ぎるかな」
「楽天的とは思わないけど」
クリシュトフはいつまでたっても缶を開けない秀の手からコーヒーを取り上げ、代わりにプルタブを上げた。はい、と缶を手渡しながら「好奇心が旺盛なんだと思うよ、秀は」と口元に笑みを浮かべた。
「好奇心かもしれないけど、クリスが心配なのもほんとうなんだからな!」
「俺を心にかけてくれるのは嬉しいよ。だけど……きみには重すぎると思うから」
目を細めて微苦笑を浮かべた。
「重いもなにも、聞いてみないとわからないし」
なにより秀の方にも秘密はある。それこそ口になどできやしない淫猥な行為。
「それと……」
一旦口篭り、クリシュトフの青い瞳をじっとみつめた。その双眸が揺らめくように細められるのを見届けて「もうひとつ訊きたいことがある」と呟いた。
二つの質問のうち、一番聞きづらく、そしてもっとも重要な疑問だ。
「あの雨の晩、クリスの唇の端に付いていた血のこと……──」
「……血?」
クリシュトフの表情がスッと冷たく変貌する。深海を思わせる青い瞳が、身体の芯まで凍らせてしまうほどの寒々しい色へと変わった。
秀は口内に滲み出た唾液を嚥下する。それでも一度口から出てしまった言葉は元に戻らない。知る以外に進むべき道はなかった。
「知りたいんだよ、クリスのこと……」
なにもかも、と思わず続けてしまいそうになるのを堪える。なにもかもとはどういう意味だという心のうちを悟られないよう自問自答したが、答えはみつからなかった。
するとおもむろにクリシュトフが自分の左腕の袖を捲くり始めた。
「気温の高さに関係なく、俺が常に長袖を着ていることに秀は気づいていたか?」
言われてみて初めてそうだと気づいた。
6月も近いこの季節では、少しでも日差しが強まればすぐに気温が二十度を超える。建物の中にいて薫風の心地よい風にでも吹かれればそうは思わないまでも、屋外で運動のひとつでもすればたちまち汗が噴き出してくる。
そんな中、この友人は顔色ひとつ変えずに長袖の開襟シャツに長袖のジャージに身を包んでいた。
確かにそぐわない。これまで意識したことはなかったが、考えてみれば額や鼻の頭に滲んだ汗を拭うクラスメイトたちの中にあってひとり涼しい顔をしているのは奇妙な姿だ。
ぬっと腕を差し出され、驚いたように視線を下ろす。そこにあるものに秀はぎょっとした。肘から手首にかけての無数の裂傷。細かなそれらは完治している古いものから、まだうっすらと血が滲む真新しい傷もあった。
なにも言葉が出てこず、視線をクリシュトフの腕からその顔へと上下に動かすことしかできない。
何度目かの視線の往復の後、クリシュトフが眉根を寄せて秀の名前を呼んだ。
「……秀。これはべつに死にたくて付けた傷じゃないんだよ。かといって心の苦しみを誰かに訴えたくてやっているわけでもない」
秀はただ唇をパクパクと動かしているだけで、なにも答えることができない。
「俺の身を案じてくれる秀だから打ち明けるんだ。このことは誰にも言わないでくれるね? 俺は……──ヘマトディプシアなんだ」
「ヘマト……?」
「ヘマトディプシア。血液嗜好症と言った方がわかりやすいかな」
「血液嗜好症……」
初めて耳にする言葉に秀の脳は一旦停止する。血液と嗜好と単語を分離して考えてみた。
血液を好む。血を……好む。
「血を?」
クリシュトフは袖を下ろしながら「ああ」と短く答えた。
「高揚した気持ちを落ち着かせるのには、これが一番なんだ」
手首の程近い場所にある、まだ生々しい傷跡に歯を立てる。気のせいか、犬歯がいやに尖って見えた。
がりっと鈍い音がする。
クリシュトフが「ほら」と言って溢れ出す赤い液体を見せつけた。
「こうして傷を付けて……流れ出した血を……舐め取るんだ」
肉厚の舌が色素の薄い唇の間から現れ、手首を滴る血を舐め上げた。瞼を閉じ、手首の傷までゆっくりと舌が這う。一文字に切りつけられた傷へ舌が到着すると、手首ごと咥えるようにクリシュトフは吸い付いた。強く吸引する音が耳に飛び込んでくる。
濡れた音が秀の下半身を刺激する。音だけで興奮してしまいそうだった。
ちゅ、と短い音を立て、クリシュトフの唇が離れた。
「こうすると興奮していた気持ちが自然と落ち着くんだよ。──おかしいだろう?」
秀は赤い顔を激しく横へと振った。
「おかしくない……おかしくないよ」
そうだ。たった今、自分の身体に起きた変化に比べれば、クリシュトフの行為はおかしくない。血液嗜好症というれっきとした名称の病気なら、少しもおかしくはない。
疼く下半身を押さえ、秀はなんども「おかしくない」と繰り返した。
「だからあの晩も……みんなに知られないよう人目のない山奥へ入り込んでいたんだ。あの時間の山中なら誰も来やしないだろう? ……どうした、秀」
様子が違う秀にクリシュトフはぶっきらぼうに問いかけた。
「クリスはどこもおかしくない。ヘンなことを訊いたりした僕が悪かった」
身体の変化を悟られたくない秀は、捲くし立てるように答える。ふう、と小さな溜息が聞こえ、秀はクリシュトフを見上げた。呆れられてしまったと思ったのに、そこにある表情はべつのものだった。
頭の中で光がスパークする。細切れのような記憶が、古い記録映画のように秀の脳裏に次々と浮かんでくる。
薄く開いた唇。そこから覗く赤い舌。ゆっくり上がっていく唇の端が象る淫猥な笑み。
咥え込まれた指先が、思い出したようにちりちりと痛み始めた。
クリシュトフの青い瞳が近づいてくる。吐き出される吐息を甘く感じながら、秀はその身体の芯を痺れさせていった。
生温かい息が耳殻へ吹き込まれ「秘密がこれでふたつになった」と低い声で囁かれた。秀は堪えきれずに目を瞑り、両手で下腹部を押さえ込む。
逆上せ上がったように脈打つ中心部に手をやり、途方に暮れた。
「部屋に帰りたい……」
泣きそうな声で呟いた。
クリシュトフの視線を浴びる。恥ずかしくて気が変になりそうだ。完全に勃起してしまったそこは、両手で覆っても隠しきれるものではなかった。
同性に欲情し、その本人を前に勃起する。果たしてこれに付けることのできる病名はあるんだろうか。
「秘密は三つ……だな」
クリシュトフの呟きは平然としていた。それが幸いなことなのかわからないが、とりあえず秀は頷いていた。
「秘密! 秘密な! ぜったい内緒だからな!」
「誰にも言わないよ。秀は大切な友人じゃないか」
その友人が、友人相手に欲情しているのだが。
「なんなら俺の部屋で処理して行っても構わないが? 遠慮はいらないから」
「いや……断固、遠慮させていただきます」
軽口を叩き、互いの顔を見合って笑う。
初めの頃の緊張感がそこにはなくなっていた。秀は安堵していた。夜歩きの原因も、唇に付着していた血の理由も知ることができた。ただ、クリシュトフの秘密を暴いたことは否めず、少なからず胸は痛んだが共通の秘密が増えたことは単純に嬉しかった。
かなり自分に不利な秘密が含まれてしまったが、些細なことだ。
一時でも友人を疑ってしまった自分を恥じた。殺人事件に彼が関わっているなど有り得ないことだ。彼は一般人が持つ以上の苦悩を抱えている。
ヘマトディプシア──血液嗜好症。
これまで誰にも明かさなかっただろう秘密を、彼は自分にだけ打ち明けてくれた。その喜びが真実を見極める本能を鈍らせた。
秀をみつめるふたつの瑠璃がゆっくりと細められていく。クリシュトフはただの一言も、あのときの血が己のものだとは言っていないのだ。
「君に秘密を教えてしまった以上、わざわざ外へ行くこともない。これからは秀の言うように、真夜中の山中へは行かないことにしよう」
喜びに表情を綻ばせる秀の頭を抱き寄せた。
「こんなに安らいだ気持ちになったのは……どれくらいぶりだろうな」
鼻先に当たる、柔らかなクセ毛から香る秀の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら、
「秀がいてくれて良かった」
感謝の言葉を紡いだ後、秀の額に唇を押し当てた。
秀は照れくさそうに額のキスを受け、小さく笑った。
クリシュトフの瞳と同じ色の夜明けの空を窓の外に眺め、じきにやって来る夏休みのことを話した。
長期休暇でも帰国はしないと言ったクリシュトフに合わせるように、秀も居残り組として寮へ残ることを決めた。
クリシュトフを残して帰省することが不安でたまらないのもひとつの理由だが、なによりも彼の傍に長くいたいことを望む気持ち強かった……それが最大の理由だ。
血を欲するほどに感情が昂ぶったときは、隠さず自分へ明かすようにと秀はクリシュトフに約束させた。そして彼はその約束を破ることなく、長い夏休みを迎えることになった。
耳鳴りがするほどの静けさが秀を襲う。冷たい廊下の上に腰を下ろし、真夜中の散歩へと忍び出たクリシュトフの部屋の前でひとり佇む。
いつもは聞こえる梟やみみずくの鳴き声が、今夜に限ってしない。しんと静まり返った冷たい鉄筋の建物の中で、秀は背を丸めて蹲った。
昼間学校で決めたこと。
真夜中に出かけなければならない理由を問いただすことだ。
なんども口を開けては言いよどむ秀に、クリシュトフが「なにか言いたいことがあるのか」と問いかけてきたが、勝手にはぐらかされるに違いないと思い込み、首を振ってノーのサインを送った。
午前を過ぎ、寮を抜け出す彼の姿をこっそりと見送りながらなにも聞けなかったことを悔やんだ結果、クリシュトフの部屋の前で帰りを待つことに決めた。
日中は初夏の陽気で汗ばむほどの気温だが、山間の夜ともなるとその寒暖の差はきつい。なにも羽織らずにいた秀はぶるっと身震いをして、両肩を自らの腕で抱き締める。
彼は音もなく現れた。
まるで影の中から現れたように思えるほど、気づかないうちに秀の目の前で立っている。
出て行ったときと同じ、オフホワイトのニットの上着と膝辺りがほつれているヴィンテージのデニム。足音がしなかったのは部屋履きを履いていないせいだろうか。クリシュトフは素足のままだった。
「今夜も待ち伏せかい?」
柔らかい声が降ってくる。戸惑いの色が感じられた。
秀はゆっくりと立ち上がりながら「うん」と素直に答えた。
「どうする? 今夜は室内に入るかい?」
この間の夜のように秀が拒むと高を括っているのか、クリシュトフの声にあった戸惑いの色は形を潜めてしまい、代わりに悪戯っぽい含みが取って代わった。
「話があるから、今日は入る」
目を逸らさずに告げた。クリシュトフへ寄せる、普通ではない感情も今は関係ない。放埓に繰り返す夜歩きの理由とそれから……──唇に付着していた血の正体。
なにやら覚悟めいた顔で「今日は入る」と答えた秀に、思いがけずクリシュトフは表情を緩ませた。
「それなら冷たい缶コーヒーででももてなそう」
「も、もてなしてくれなくてもいい」
聞きづらいことを訊ねるのだから、たとえ出されるものが缶コーヒーであってもそんなことをされては却って気が引けてしまう。
秀の背がさらに丸まった。
部屋の中央でもじもじとしている秀に缶コーヒーを手渡しながら、クリシュトフは訝しげに顔を覗き込んだ。
「どうした? いつもの場所へ腰を下ろしたらいい」
「いつもの場所……」
「ああ、そうだ」
缶のプルトップを開け、クリシュトフは喉を鳴らしながら豪快に飲み下していく。
彼が言ういつもの場所とはベッドの上を指す。
秀は変に畏まった様子で移動した。握り締めたアイスの缶コーヒーが温くなってしまいそうだ。
努めて平静を装うとした。部屋を訪ねたのは友人としてであって、けしてやましい気持ちなどないのだ。要件は殺人事件が解決するまでの間、夜歩きを止めてもらうよう頼むことと、それができないのならせめて理由を教えてくれるように乞うこと。この二点に尽きるのだ。
仲良くしてくれている、仮にも先輩という立場の人を性欲の捌け口に使ったなどと悟られてはいけない。
「秀?」
クリシュトフの声とベッドが沈んだのはほぼ同時だった。
ただそれだけのことで、秀の心臓は壊れるかと思うほどの早さで脈を打ち始めた。
頭の芯が痺れたように感じるのは、眠気のせいなのか。だがその割には目が冴えている。
「最近の秀はときどき深く考え込む仕草をするときがある。なにか悩みでもあるのか? 話というのはそのことかい?」
秀はふるふると首を振ると、柔らかいネコっ毛がルームライトの中で小さく跳ねた。
「今日、こんな時間までクリスの帰りを待っていたのは知りたいことがあったからなんだ」
「……知りたい……こと?」
うん、と子供のように秀は頷いた。
「みんなにバレないように寮を抜け出すのには理由があると思うんだ。そうじゃなきゃ、解決されてない殺人事件が起きているのに出歩いたりしないだろ? 違う?」
「理由、か……。それは確かにある」
「僕がそれを知ることでクリスの夜歩きが無くならないかなって思うんだけど……これって楽天的過ぎるかな」
「楽天的とは思わないけど」
クリシュトフはいつまでたっても缶を開けない秀の手からコーヒーを取り上げ、代わりにプルタブを上げた。はい、と缶を手渡しながら「好奇心が旺盛なんだと思うよ、秀は」と口元に笑みを浮かべた。
「好奇心かもしれないけど、クリスが心配なのもほんとうなんだからな!」
「俺を心にかけてくれるのは嬉しいよ。だけど……きみには重すぎると思うから」
目を細めて微苦笑を浮かべた。
「重いもなにも、聞いてみないとわからないし」
なにより秀の方にも秘密はある。それこそ口になどできやしない淫猥な行為。
「それと……」
一旦口篭り、クリシュトフの青い瞳をじっとみつめた。その双眸が揺らめくように細められるのを見届けて「もうひとつ訊きたいことがある」と呟いた。
二つの質問のうち、一番聞きづらく、そしてもっとも重要な疑問だ。
「あの雨の晩、クリスの唇の端に付いていた血のこと……──」
「……血?」
クリシュトフの表情がスッと冷たく変貌する。深海を思わせる青い瞳が、身体の芯まで凍らせてしまうほどの寒々しい色へと変わった。
秀は口内に滲み出た唾液を嚥下する。それでも一度口から出てしまった言葉は元に戻らない。知る以外に進むべき道はなかった。
「知りたいんだよ、クリスのこと……」
なにもかも、と思わず続けてしまいそうになるのを堪える。なにもかもとはどういう意味だという心のうちを悟られないよう自問自答したが、答えはみつからなかった。
するとおもむろにクリシュトフが自分の左腕の袖を捲くり始めた。
「気温の高さに関係なく、俺が常に長袖を着ていることに秀は気づいていたか?」
言われてみて初めてそうだと気づいた。
6月も近いこの季節では、少しでも日差しが強まればすぐに気温が二十度を超える。建物の中にいて薫風の心地よい風にでも吹かれればそうは思わないまでも、屋外で運動のひとつでもすればたちまち汗が噴き出してくる。
そんな中、この友人は顔色ひとつ変えずに長袖の開襟シャツに長袖のジャージに身を包んでいた。
確かにそぐわない。これまで意識したことはなかったが、考えてみれば額や鼻の頭に滲んだ汗を拭うクラスメイトたちの中にあってひとり涼しい顔をしているのは奇妙な姿だ。
ぬっと腕を差し出され、驚いたように視線を下ろす。そこにあるものに秀はぎょっとした。肘から手首にかけての無数の裂傷。細かなそれらは完治している古いものから、まだうっすらと血が滲む真新しい傷もあった。
なにも言葉が出てこず、視線をクリシュトフの腕からその顔へと上下に動かすことしかできない。
何度目かの視線の往復の後、クリシュトフが眉根を寄せて秀の名前を呼んだ。
「……秀。これはべつに死にたくて付けた傷じゃないんだよ。かといって心の苦しみを誰かに訴えたくてやっているわけでもない」
秀はただ唇をパクパクと動かしているだけで、なにも答えることができない。
「俺の身を案じてくれる秀だから打ち明けるんだ。このことは誰にも言わないでくれるね? 俺は……──ヘマトディプシアなんだ」
「ヘマト……?」
「ヘマトディプシア。血液嗜好症と言った方がわかりやすいかな」
「血液嗜好症……」
初めて耳にする言葉に秀の脳は一旦停止する。血液と嗜好と単語を分離して考えてみた。
血液を好む。血を……好む。
「血を?」
クリシュトフは袖を下ろしながら「ああ」と短く答えた。
「高揚した気持ちを落ち着かせるのには、これが一番なんだ」
手首の程近い場所にある、まだ生々しい傷跡に歯を立てる。気のせいか、犬歯がいやに尖って見えた。
がりっと鈍い音がする。
クリシュトフが「ほら」と言って溢れ出す赤い液体を見せつけた。
「こうして傷を付けて……流れ出した血を……舐め取るんだ」
肉厚の舌が色素の薄い唇の間から現れ、手首を滴る血を舐め上げた。瞼を閉じ、手首の傷までゆっくりと舌が這う。一文字に切りつけられた傷へ舌が到着すると、手首ごと咥えるようにクリシュトフは吸い付いた。強く吸引する音が耳に飛び込んでくる。
濡れた音が秀の下半身を刺激する。音だけで興奮してしまいそうだった。
ちゅ、と短い音を立て、クリシュトフの唇が離れた。
「こうすると興奮していた気持ちが自然と落ち着くんだよ。──おかしいだろう?」
秀は赤い顔を激しく横へと振った。
「おかしくない……おかしくないよ」
そうだ。たった今、自分の身体に起きた変化に比べれば、クリシュトフの行為はおかしくない。血液嗜好症というれっきとした名称の病気なら、少しもおかしくはない。
疼く下半身を押さえ、秀はなんども「おかしくない」と繰り返した。
「だからあの晩も……みんなに知られないよう人目のない山奥へ入り込んでいたんだ。あの時間の山中なら誰も来やしないだろう? ……どうした、秀」
様子が違う秀にクリシュトフはぶっきらぼうに問いかけた。
「クリスはどこもおかしくない。ヘンなことを訊いたりした僕が悪かった」
身体の変化を悟られたくない秀は、捲くし立てるように答える。ふう、と小さな溜息が聞こえ、秀はクリシュトフを見上げた。呆れられてしまったと思ったのに、そこにある表情はべつのものだった。
頭の中で光がスパークする。細切れのような記憶が、古い記録映画のように秀の脳裏に次々と浮かんでくる。
薄く開いた唇。そこから覗く赤い舌。ゆっくり上がっていく唇の端が象る淫猥な笑み。
咥え込まれた指先が、思い出したようにちりちりと痛み始めた。
クリシュトフの青い瞳が近づいてくる。吐き出される吐息を甘く感じながら、秀はその身体の芯を痺れさせていった。
生温かい息が耳殻へ吹き込まれ「秘密がこれでふたつになった」と低い声で囁かれた。秀は堪えきれずに目を瞑り、両手で下腹部を押さえ込む。
逆上せ上がったように脈打つ中心部に手をやり、途方に暮れた。
「部屋に帰りたい……」
泣きそうな声で呟いた。
クリシュトフの視線を浴びる。恥ずかしくて気が変になりそうだ。完全に勃起してしまったそこは、両手で覆っても隠しきれるものではなかった。
同性に欲情し、その本人を前に勃起する。果たしてこれに付けることのできる病名はあるんだろうか。
「秘密は三つ……だな」
クリシュトフの呟きは平然としていた。それが幸いなことなのかわからないが、とりあえず秀は頷いていた。
「秘密! 秘密な! ぜったい内緒だからな!」
「誰にも言わないよ。秀は大切な友人じゃないか」
その友人が、友人相手に欲情しているのだが。
「なんなら俺の部屋で処理して行っても構わないが? 遠慮はいらないから」
「いや……断固、遠慮させていただきます」
軽口を叩き、互いの顔を見合って笑う。
初めの頃の緊張感がそこにはなくなっていた。秀は安堵していた。夜歩きの原因も、唇に付着していた血の理由も知ることができた。ただ、クリシュトフの秘密を暴いたことは否めず、少なからず胸は痛んだが共通の秘密が増えたことは単純に嬉しかった。
かなり自分に不利な秘密が含まれてしまったが、些細なことだ。
一時でも友人を疑ってしまった自分を恥じた。殺人事件に彼が関わっているなど有り得ないことだ。彼は一般人が持つ以上の苦悩を抱えている。
ヘマトディプシア──血液嗜好症。
これまで誰にも明かさなかっただろう秘密を、彼は自分にだけ打ち明けてくれた。その喜びが真実を見極める本能を鈍らせた。
秀をみつめるふたつの瑠璃がゆっくりと細められていく。クリシュトフはただの一言も、あのときの血が己のものだとは言っていないのだ。
「君に秘密を教えてしまった以上、わざわざ外へ行くこともない。これからは秀の言うように、真夜中の山中へは行かないことにしよう」
喜びに表情を綻ばせる秀の頭を抱き寄せた。
「こんなに安らいだ気持ちになったのは……どれくらいぶりだろうな」
鼻先に当たる、柔らかなクセ毛から香る秀の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら、
「秀がいてくれて良かった」
感謝の言葉を紡いだ後、秀の額に唇を押し当てた。
秀は照れくさそうに額のキスを受け、小さく笑った。
クリシュトフの瞳と同じ色の夜明けの空を窓の外に眺め、じきにやって来る夏休みのことを話した。
長期休暇でも帰国はしないと言ったクリシュトフに合わせるように、秀も居残り組として寮へ残ることを決めた。
クリシュトフを残して帰省することが不安でたまらないのもひとつの理由だが、なによりも彼の傍に長くいたいことを望む気持ち強かった……それが最大の理由だ。
血を欲するほどに感情が昂ぶったときは、隠さず自分へ明かすようにと秀はクリシュトフに約束させた。そして彼はその約束を破ることなく、長い夏休みを迎えることになった。