文字数 3,659文字


 机に向かい、数学の課題を広げてみても忙しなく動くのはペン先ではなく、机上を小突く指先。思い出したように俯き、問題を読んでみたりするが、視線は文字をなぞらえるだけで解答へ向けての回路はまったく機能しない。
 キシュヴァルディの出現を悪いことだと答えた、クリシュトフのやけに冷めた口ぶりが気になった。
 これまでキシュヴァルディは表に姿を現すことはなかったのだろう。現に、あの晩も公園に気配を感じてはいても、その姿をみることはなかった。
 それがどういうわけか学校にまで入り込んできた。
 それはなぜか。
 いくら想像を巡らせても、肝心のクリシュトフがなにも教えてくれないのだから、推し量ることもできない。そのもどかしさが頂点に達した秀は、とうとう課題を放り出しベランダへ出た。
 僅かばかりの緑を残し、赤や黄に染まる山はそのほとんどを紅葉で燃え上がらせていた。絶景この上ない自然を目にしても、秀の気持ちにそれを楽しむ余裕はない。
 やはり、ここはクリシュトフを問い詰めてでも真実を聞き出すしかないだろう。
 彼の口から語られるまでは問いただしたりしないと誓った、あの時とは状況が違うのだ。
 手摺りから顔を迫り出させ、隣室のベランダを覗き見る。ちらりと見えた窓のカーテンは閉じられたままだった。
 3年と1年では授業のカリキュラムが違うから、下校を共にすることはできない。それでもクラブ活動に参加していないクリシュトフの帰宅は、ほかの生徒に比べれば早いのだし、ここはやはり課題に取り組みつつ彼の帰りを待つことにしよう。
 踵を返し、部屋へと戻る。その同じタイミングでドアがノックされた。一瞬クリシュトフかと思ったが、ドアの向こうの人物は、秀の返事を待っているようで無言のまま数秒が過ぎた。
「……だれ?」
 クリシュトフなら秀の返事など待たずに入ってくるし、クラスメイトなら自分の名前をきちんと名乗る。
 秀は、警戒心を露にしたままドアの前に立った。
「だれ?」
 少しイラついたような声でもう一度訊ねた。
 相手が誰かわからない恐怖が秀の全身を襲う。そして次の瞬間、恐れは戸惑いへと摩り替わった。
「レオだ。……キシュヴァルディ=レオ。朝、挨拶したよね」
 挨拶したとはどのことだと記憶の糸を手繰る。しかし、そんな覚えはまったくない。
「そんな記憶はありません。部屋を間違えていませんか?」
 敵愾心を剥き出しにして答えた。
 だが男は、
「だってきみが鮎川秀でしょ」と飄々と切り返してくる。
「それとも……、いきなりクリシュトフの元を訪ねればいいのかなぁ……?」
 なにかを含んだ言い方に焦りを感じた秀は、開けるつもりはなかったはずのドアを開けた。
 そこには、昼間と同じミリタリールックの男が立っていた。屋内だというのに、パーカーのフードを被っている。そこまで寒くはないだろうと、不機嫌そうに秀は目を眇めた。
「入ってもいいかな? ……それともここで立ち話する?」
 彼もまた意味ありげに目を眇めさせた。意図するところはわかっている。彼が話したい内容も。
「どうぞ」
 不承不承レオを招き入れた。
 彼の後ろ姿を見つめながら、自分の部屋がいやに狭く感じた。クリシュトフほど整頓しているわけではないが、彼の部屋へ行き来するようになってから意識して片付けるようになったのだ。よけいなものは置かないようにしたし、せっかくある収納スペースも有効に使うようになったから、以前に比べれば格段に広くなったはずなのに。
 狭い。
「レオさんの身長はどのくらいあるんですか」
 きっとこの男が不必要に大きいのに違いない。
 レオは放りっぱなしの課題に目を通しながら、「センチで言えば……えっと、185、いや189だったかな?」と鼻の先をぽりぽりと掻きながらなおざりに答えた。
 充分大男だ。
 その割に威圧感はなかった。全校集会で感じたような嫌な印象も今はすっかり薄くなっている。どちらがこの男の本性なのだろうか。
 秀の警戒心はさらに深まる。
「人のノートなんか見て、楽しいですか?」
「いいや? だって日本語は読めないからね」
「そんなに話せるのに?」
「俺にとって文字が読めることよりも、会話できることの方が重要なんでね」
「そうですか」
 確かに今は文法よりも、実践で役立つ英会話に重点を置いたカリキュラムになっていた。
「それで? 僕になんの用ですか。学校経営についての視察に僕が関係しているとは思えませんけど」
「嫌だな……。さっききみは反応したじゃないか。“いきなりクリシュトフを訪ねた方がいいのか?”と俺が言ったとき」
 レオがゆるりと顔をこちらへ向けた。澄んだ翠の瞳が睨むでもなく、秀を捕らえる。
「ほんとうの目的は、……そうだ。きみが想像している通りだよ。鮎川秀くん?」
 どんな魔法を使っているのか知らないが、秀の身体はまるで金縛りにあったように動かない。
 自分の想像通りであるなら、もっとも最悪な終末が訪れることだ。
 醜悪で忌むべき末路。
「そんなに怖がらないでくれるかい? なにもきみを取って喰おうってわけじゃないんだからさ」
 だが、彼のやろうとしていることは秀に同じ結果を齎すのだ。それをどうして怖れずにいられるだろうか。
 そして、それが人間として正しい行いであることも、秀はきちんとわかっている。
「どうして僕に」
 会いにきたのかと続けるところを、レオが取り上げる格好で話し始めた。
「アイツからはどこまで聞かされているんだろうね。血の裁判については? マルギットについてはどう?」
 矢継ぎ早に出される質問に、固まって動かない身体同様、思考も回転しない秀は黙って赤毛の男を睨んだ。
 そのどちらもある程度は聞かされているから、動かせるだけの力で頷く。
 レオが、意外だなと呟いた。
「アイツが日本へ来るまでに殺した人間の数は、優に千を超す。──これは聞いたかい?」
 千という数字に肝が冷えた。
 目を瞠らせ、激しく首を振った。
「そうだろうなぁ。さすがにこれは言えないだろう……。ただ、そんな過去を持つ男だからこそ、これまで他人との距離は一定に保ってきたんだよ……ところが最近のアイツときたらどうだ? 16、7歳の子供相手に真剣になって。──目的を忘れているとしか思えない」
 赤毛の男はくるくると表情を変えながら、肩をそびやかす。外国人特有のアクションも交えつつ、顔を強張らせる秀をみつめた。
 クリシュトフが真剣になっている子供とは、改めて問い返す必要もない。自分を指していることなのだと、刺すようなレオの視線が告げていた。
「血の裁判の現場に居合わせて無事だった人間なんぞ、過去に遡ってみても、そんな報告は聞いたことがない。いるとするなら彼女くらいだろう、……最初の儀式に居合わせたコストラーニ=マルギット」
「あんたは何がしたいんだっ」
 自分になにを聞かせたいのかと、声を荒げた。
 身体は不自由なままで、可能な限りの抵抗は叫ぶことくらいだ。それでもレオにとっては痛くも痒くもないことで、鼻先でふんと嘲られた。
「なにも」
 レオは突き放すように言った。
「なにもしないが、忠告だけはしてやろう。あまり、……アイツに深入りするな」
「そういうわけにはいかない。僕は誓ったんだ、……僕自身に。クリスのために血の裁判を成功させるって」
 レオの表情がするりと冷酷なものへ変わった。翠の双眸が瞬きもせずに近づいてくる。
「“成功”させるだと? なにも聞かされていない子供になにが出来るというんだ」
「なにも聞かされていないわけじゃない! 儀式のことも聞いてるっ」
「では禁忌の所以は?」
「禁忌……?」
「そうだ」
 レオの瞳は揺るがず、真っ直ぐ秀を捕らえている。
 ここは自分の部屋なのに、空間ごと支配されている気がした。SF小説みたいに部屋の時空が歪められていて、ドアの向こうは廊下ではない、別の次元に繋がっているのかもしれない。そんな絵空事がちらりと浮かんだ。
「お前に明かしていない事実はいくらでもあるだろう。それを知らぬまま、殺戮者に手を貸すのか?」
 大きな体躯をくの字に折り曲げ、秀の顔を覗き込む。
「死にゆくものがわざわざ血塗られた過去を正直に話すものか」
 吐き捨てるように言う。
「ヤツに手を貸したキシュヴァルディの末路がどれほど悲惨だったか、……生温い社会の中で育った子供にわかるものか」
 次第にヒートアップしていくレオの形相は恐ろしいほどに歪み、まるで積年の恨みをぶつけるように秀の両肩を力任せに掴んだ。
 傷みから逃れようとしたが、彼に支配されている狭い空間の中では汗を一滴流すことしかできない。
「いた……ぃ。……ッ」
 傷みで瞼を閉じかけた秀が見たのは、殺意が滾るエメラルドグリーンの瞳。彼の透けた瞳のように純粋な殺意に、全身の肌が粟立った。


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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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