文字数 3,332文字

 夏休みに出された課題の一部を午前中に済ませ、気温が急上昇し始めた午後の一時過ぎにはクリシュトフを誘い、湖畔へ向かった。
 エメラルドグリーンの水面を強い日差しが照りつけ、銀鱗の煌きがそこかしこで瞬いている。遊泳禁止の湖で遊ぶにはボートくらいしかなくて、居残り組の寮生の何人かがすでに漕ぎ出していた。
 湖畔を散策すると言い出したのはクリシュトフだった。秀としては皆と同じように水遊びがしたかったのだが、のんびりとした時間を二人で過ごすのも悪くないと思い、承知した。
「もしかしてボートに乗りたかったのかい?」
 茫洋と湖を眺めていたら、クリシュトフはしかつめらしい顔を覗き込ませて訊いてきた。
「え? ち、ちがう、ちがう。ただ眺めていただけ」
 眼前で手を横に振り、友人の問いを否定した。安堵したのか、クリシュトフがゆっくりとその端正な相好を崩していく。
 小さく寄せる淡水の波を足元に受けながら、ジャリジャリと小石を鳴らせて歩いた。そう大きくはない湖の向こうに山の尾根が眺望できた。
 確かに学園の敷地は広大だが、高原でもあるここら一帯はリゾート地でもあり、湖を挟んだ反対側にはログハウスが立ち並び、比較的町に近い位置にはリゾートマンションまで建っている。このまま湖畔を歩き続ければ、いずれその別荘地へ辿り着くだろう。
 秀の額に汗が噴き出し始めた。高原地帯とはいえ、夏の日差しに晒され続けていれば汗も噴き出すというものだ。しかも歩いている。
「ちょっと休まない? 涼みたい」
 熱を持った顔は赤くなっていた。火照った頬を平手で扇ぎながら、今は使用されていないボート小屋を指して言う。
「ああ、構わないよ。秀の顔を見たらずいぶんと暑いようだしね」
「じっさい、暑いんだって」
 暑さでへとへとになっている秀とは違い、クリシュトフは実に涼しい顔をしていた。額に一滴の汗もかいていないばかりか、息も乱していない。
 寮からここまで歩いてきただけですでに体力のゲージが半分以下になっている自分の情けなさに、秀は辟易した。もう少し運動しようと心の中で誓いながら、ボート小屋の方へまっ先に歩き出す。
 ところどころ朽ちて崩れている小屋の前に立ち、半分ほど開いたままになっている引き戸に手をかけた。がたんと大きな音を立てた後、一気に開く。明かりのない薄暗い小屋の中へ一歩踏み出すと、ひやりとした空気に秀は思わず身震いした。
 明り取りのように、崩れた壁から外の光が入ってくるので真っ暗というわけでもなかった。
 先ほど身震いした気温も、頭の先からつま先までの熱を冷ますのにかなりの効果が期待できた。
 グレーのナイロンシートが掛けられているボートを背に、ふうと溜息を吐きながら秀が腰を下ろせば、クリシュトフもその脇へ身を落ち着かせた。
「やっぱり日陰は涼しいなあ。なんかカビ臭いけど、涼しさだけで言えばここは天国だ」
 湿り気を含んだ小屋の空気には、若干腐臭じみたものも含まれているように感じた。自然豊かが売りの学園でもあるし、どこかしらに小動物の死体がありそれが臭っているのかもしれない。
 そんなことよりも、内側から発する熱を下げることの方が先決だ。とはいうものの、時間が経過していくうちにやがてその臭いが鼻につくようになる。
 怪訝そうな顔で眉間にしわを寄せる秀に、どうしたのかとクリシュトフが訊ねた。
「んー? オレがここに入ろうって誘っておいて、こう言うのもなんだけどさ。ここって、なんか臭くないか?」
「臭い?」
 クリシュトフはそう言い置いて、鼻をわずかにひくつかせた。
「俺はあまり気にならないが……秀は気になるのか?」
「気になるっていうか。今まで嗅いだことのないタイプの臭いなんだよな」
「イヤなら場所を移そう。外にも日陰くらいあるだろう」
「そりゃあ、まあ」
 眉間のしわを更に深く刻み込ませながら、人差し指を鼻の下へ当て「うーん」と考え込む仕草を見せる。
「どこかに死骸でもあるのかもしれない。小動物ではなく、タヌキとかもう少し大きな野生動物かもしれないね」
 先にクリシュトフが立ち上がった。尻に付いた木屑や泥を軽く叩き落としている。
「そう……かもな」
 嫌な臭いのする場所で無理に過ごさなくてもいいのだ。暑気は強くても外はここよりも遥かに澄んだ空気だし、遊歩道を挟んで連立するトチノキやミズナラなどの木が日差しを避けてもくれる。
 早々に立ち去ろうと、立ち上がるために手を後方へずらした瞬間だった。掌全体にぬるりとした感触を受け、秀は身体を瞬間的に強張らせた。
 泥のようなざらついた触感はなく、どちらかといえば粘土質に近い感じだった。密度が濃く、水分もある。ぬめぬめとしたそれに近いものを記憶の中から弄るが、浮かぶどれもが見当外れで次第に顔が引き攣っていく。
 嫌な臭いの正体に、自分は素手で触れているのではないかという恐怖だ。
 目の前にいた友人はすでに戸口の方に立ち、こちらを黙って眺めていた。
「ク、クリス!」
 腰が抜けたようにクリシュトフの名を呼ぶと、得体の知れないものに触ってしまったと半泣き状態で訴えた。
 逆光の中でわずかに光線が当たっていたクリシュトフの口唇に、小さな笑みが浮かんだ。
「起き上がれないかい?」
 柔らかく、それでいて楽しそうな声で問いかけながら近づいてくる。言い終えると同時に愉悦のこもった吐息が吐かれたことに、秀は気づかない。腐りきった動物の死骸の中に、己の手が突っ込まれているという醜悪な状況が思考の多くを占めているからだ。
 ほら、と差し出された手に縋りつく姿は、まるで溺れる者は藁をも掴むといった様相だった。
 クリシュトフがくつくつと笑う。半ば放心状態の秀はそれを頭上に聞きながら、ゆるゆると先ほどの右手を上げてみた。
 どす黒い液体が、掌全体にべっとりと付着していた。鼻が近い分、臭いも強烈に感じる。
「なんだろう、これ……」
 不安と恐怖がない交ぜになった瞳を、自分を抱きとめてくれている男へ向けた。クリシュトフの視線が一点へ注がれる。
 答えを待つまでの僅かな時間が、とてつもなく長く感じられた。
 だが、彼の口から出たのは拍子抜けする言葉だった。
「さあ?」
 それが何であるかの答えを期待していただけに、秀の足から一気に力が抜けた。かくんと膝が折れると、クリシュトフは慌てて腰に手を当て支えた。
「だって……これ……これ」
 もう一度自分の目で確かめた。
 黒くて粘りのある液体。だが光線の具合によって別の色素が垣間見れた。いくつもの光の筋の中でもっとも太いものを選び、そこへ右手を差し出した。
 角度を変える。手首に程近い場所のそれが、赤色を浮かび上がらせた。
 思わずクリシュトフの胸へ顔を埋める。次第に大きくなっていく両足の震えは抑えることができない。背後へ突き出した右手を広げた。
「これ血だよ!」
 声を荒げて叫んだが、自分を支えてくれる主の言葉はやはり拍子抜けするものだった。
「そうだね」
 その声にはなんの感情も含まれていなかった。血に触れたことに対して恟恟としている秀とはまったくの対照的なものだった。その落ち着き払った様子に、秀も冷静さを取り戻した。
「どうしてそんなに落ち着いているのか。教えてくれる?」
 腰を抜かすほど取り乱していたはずが、ここへきて理性的になった。そして、クリシュトフの変わらない態度をいぶかしむ。
 彼にはっきりとした答えを望んだのは、空恐ろしい想像を微塵に打ち砕いてほしかったからだ。
 だが存外に彼の口は滑りがよく、しかも悪びれた様子もなかった。
「そのビニールシートの下に死体があることを知っていたからね。確認してみるかい?」
 左手を伸ばし、シートの端を掴んだ。やめろよと秀は阻んだが、シートは大きな音を立てて捲れ、暗闇と薄日が交差する眼前に哀れな骸は現れた。
 ひ、と秀は息を飲んだ。
 急いで目を瞑ったものの、土気色の肌に張り付いた茶髪と首筋から大量に流出したと思われる血の痕が、細かな色あいすら鮮明に網膜へと焼きついた。

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登場人物紹介

鮎川 秀

16歳。全寮制の学園に中学から在籍。外部受験ではなくエスカレーターで高等部へ進級した。

好奇心旺盛で屈託のない性格。

ヴェレシュ・クリシュトフ

通称クリス(秀が勝手につけた)本人曰く18歳のハンガリー人。

表情に乏しく、話し方が少し古臭い。自分のことはあまり話さない秘密主義だが、秀には次第に打ち解けていく。来日の理由も謎。

(彼は外国人なのでアイコン画像とは髪の色など大きく違いますが、表情の雰囲気からこちらを選択いたしました)

キシュヴァルディ=レオ

クリスの秘密に深く関わっている男。大柄のアメリカ人で豪快な性格。彼もまた謎多き男でもある。

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