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文字数 5,536文字
ジーンズの裾を膝近くまで織り上げて、なんとか濡れるのを免れながら血に塗れた手を湖水で洗い落としていた。海ほどの強い波は来ないから、ふくらはぎまで水に浸かっていても怖れることもないが、それでも濡れないに越したことはない。
掌の細かなしわに入り込んだ血液は水だけでは落ちなかった。それでも汚れのほとんどを落とせたのはラッキーだ。
右手を振り、軽く水をきる。ハンカチを持ち歩かない自分の悪癖を今ほど後悔したことはない。布で拭き取ればもっと汚れは落ちるのに、と秀は嘆息した。
波に濡れない場所へ置いた靴と靴下へと戻る。その横では涼しい顔をしたクリシュトフが、まるで木陰で休んでいるかのように和んだ表情を見せていた。
秀の「有り得ない」と呟いたのが聞こえたらしく、青い瞳がこちらへと向けられた。
「ハンカチを持ち歩くのは身だしなみだと思うんだが、現代日本は違うのかい?」
現代日本?
クリシュトフの言動の一部に眉を顰めたが、すぐに話題を先ほどの死体へと移らせた。
「どうしてあそこに死体があるって知ってたんだ?」
睥睨しながら率直に訊ねた。
「知っているもなにも、あそこに俺もいたからね。とうぜんだ」
自然な語り口はまるで世間話のようだ。尻のポケットから取り出したハンカチを、秀へと差し出しながらのそれは、まるで誰もが知っているティーンズ雑誌のアイドル情報にも思えた。もちろん内容はそんなのん気で華やいだものではない。
ギリ、と音が聞こえそうなほどきつく唇を噛み締めて、否定してくれることを期待しながら呟いた。
「こ、殺した?」
自らの口から発せられた殺人の言葉は、それでもまだ現実味が薄く感じられた。嘘でもクリシュトフが知らぬ存ぜぬを通してくれれば、それだけで秀の心は満たされるのだ。
だがクリシュトフはその願いを悉く打ち砕いた。
「殺した」
梢を揺らす高原のそよ風のように、彼の声音は秀の耳殻へと柔らかく響いた。
不穏な言葉を吐きながら、彼の長い指は秀のぶらりと下がった右手を取り、残っている水気を丁寧に拭い始める。秀の中ではまだ物事の整理がついていないようで、胡乱な瞳は暗く沈んだままだった。
ぎこちない動きで顔を上げ、友人を捉えた双眸には、疑問、不安、恐怖。そのどれもが混在していた。乞うように、縋るようにクリシュトフを見つめ、固く閉じていた口唇をやがて開ける。
「なぜ」
そこまで告げて俯いた。
続く二の句に迷いが生じた。なぜ殺したのか。なぜ、あそこに死体があると知っていて自分を行かせたのか。
どちらの疑問が自分にとって重要なのかを考えたとき、秀は手前勝手な思いに襲われた。
自分はクリシュトフにとって特別な存在である、ということだ。それはヘマトディプシアを告白してくれたことに起因するのだが、それだけではないことが起きている。
先ほどまでハンカチで拭ってくれていた右手を、クリシュトフが強く握り締めてきた。骨ばった指を絡め、きつく締めつける。その痛みの強さがクリシュトフの叫びに思えた。
秀はそれ以上訊ねなかった。
そこにはクリシュトフが殺人を犯したという厳然たる事実だけが存在していた。理由はあるのだろう。もちろん訊ねればクリシュトフはきっと答えるに違いない。汗の臭いに纏いつく、羽虫を追い払う程度に容易い質問なのだろうから。
いつもよりは幾分静かな食堂内で、普段と同じような夕食の風景が見られた。人数が少なく閑散とした感は否めないが、時折上がる笑い声に心が休まる気がした。
秀は黙々と食事を口へ運んでいた。今夜は豚カツのおろしソースがけで、成長期にある十六歳には垂涎もののメニューなのに、昼間の光景がフラッシュバックのように思い出されて、この主菜に手をつけることができなった。
早々に箸を置いた。
嘆息しながら真向かいに座る男を見る。日本に来て間がないという割には器用な箸使いを見せるクリシュトフ。涼しげな顔で、秀が一口も付けられなかった揚げ物を細かく切り分け、口へと運ぶ。
クリシュトフはなにか言いたそうな秀を一瞥すると、
「今夜は少食だね。夜中にお腹が空いたと俺のところへ来られてもなにも振舞ってあげられないが、いいのかい?」
唇の端に付いたソースを舌先で舐め取り、首を傾がせながら訊ねてくる。
秀はすぐに俯いて、空になった汁椀の底をもう一度手に取った箸で弄りながら、
「あれが頭をチラついて……食べられないよ」
独り言のように呟いた。
「それはまあ仕方のないことだね」
クリシュトフは何事もなかったように薄笑いを浮かべ、切り分けた肉を再度口へと運んだ。
殺人者へかける言葉など思い浮かばない秀は、様子を窺うような上目遣いで呑気な隣人を見た。それでもこれからのことを考えると、場所を移して真剣に話し合いたいと思った。
「なあ、クリシュトフ……!」
そう告げようと口を開くと、いきなりテレビの音量が大きくなり、秀とクリシュトフは弾かれたように食堂の隅へ顔を向けた。
大型液晶テレビに映し出されているのは、どこかの山を空中撮影しているところだった。入り口付近に座っているため食堂奥に据え置かれているテレビの映像は確認できるものの、画面上部に現れている文字までは読めない。
それでも聞こえてくるニュースキャスターの言葉は、画面に映し出されている場所を遺体発見現場からの中継であると伝えていた。
思わず秀の指先から箸が落ちる。短く息を吸ったあと、吐き出すのを忘れている。
遺体は崖下からの発見らしい。警察は事故と事件の両面から捜査していると、女性キャスターは淡々と告げた。
十六歳の少年の頭には、昼間みつけた見知らぬ男性の死体が浮かび上がっていた。ボート小屋の中に隠されていた死体だ。血まみれで、少し腐乱していた肉の塊。
う、と嘔吐をついた。口元を隠し、慌てて席を立つ。込み上げてくる吐き気を懸命に堪えながら、慌しく食堂を駆け出した。
ばたばたと室内履きを鳴らしながら自室へ駆け込む。部屋付きのトイレではなく、ミニキッチンへと向かい、喉元まであがっていた胃の内容物をすべて吐瀉した。
腹と背中の筋肉が痛むくらいに吐き続けた。そして一応の落ち着きを取り戻すと涙と鼻水にまみれた顔をタオルで拭いながら、溜息交じりに水栓を開き吐瀉物を流す。
秀、と声をかけられ、振り返ると心配そうな顔をしたクリシュトフがいた。
「そんなに気分が悪いとは思わなかった。無神経ですまない」
身体をくの字に曲げている秀の傍へ歩み寄り、吐き続けていたことで強張ってしまった背を擦りながら謝った。
無神経とはどういう意味かと訊きたかったが、悪心が治ったわけではなく、背中に施される優しい手当てに甘えるように、秀の瞼はゆっくりと閉じていった。
まさかここの生徒まで手に掛けたのか、と秀は震える声で問い詰めた。
今しがた部屋に寮監夫妻が訪れて、昨日帰省したはずの生徒のひとりが自宅に戻ってきていないのだと告げに来たのだ。寮の出発日を確認するために、生徒の親が電話を寄越してきてわかったことだった。
寮監は、「なにか聞いていないかな?」と訊ねたが、一年生の秀にとって該当する生徒は上級生にあたり、まったくといっていいほど接点がなかった。顔も朧にしか思い出せないほどだ。だから夫妻が期待するような答えを言えるはずもなく、秀は申し訳なさそうに頭を下げただけだった。
だが思い当たる節がないわけでもない。
夕食に途中で気分を悪くした秀の介抱のために部屋を訪れている男。クリシュトフだ。
「食堂でやっていた報道番組のニュース。あれはクリスがやったことか?」
まずは一つ目の質問をぶつける。
クリシュトフは返事の代わりに瞬きをひとつした。
「それからあのボート小屋の死体。あれもクリスなんだよな」
この質問には軽く頷いて見せた。青い瞳がゆらりと揺らめく。
秀はこくりと唾を飲み込んだ。
「さっきの話、聞こえていたよな? あれもそうなのか?」
クリシュトフが微かに首を傾げた。それは疑問からの所作ではない。彼の口元には笑みが零れていた。秀の頭へ一気に血が上る。人の生き死にの話をしているというのに、笑い事ではないはずだ。
「クリス! まさかと思うけど。日本へは人殺しのために来たのか?」
我ながらストレートな質問だと思ったが、酷薄の笑みで頬を緩ませる男にはちょうどいいくらいだ。
だが、昼間の殺人を軽く言ってのけたわりに、クリシュトフの口から出た言葉は意外なものだった。
「人殺しのためじゃない」
秀の椅子に腰掛け、肘を机へ軽く乗せた彼は、「愛するひとのためだ」と甘く囁くように答えた。
「黙ってくれていた礼に、話してあげるよ。聞いてくれるね?」
クリシュトフの言葉には妙な威圧感があった。ぎし、と椅子のスプリングが軋んだ。クリシュトフは立ち上がり、石のように固まっている秀の傍へと歩み寄った。
自分を見下ろす宵闇の双眸はやがて細められ、普段は優しい声を紡ぎ出す唇からは蠱惑的な吐息が吐かれた。秀はぞくりと身震いする。
体温が感じられるほどに近づいたクリシュトフの身体を突き放してしまえばいい。本能が何度もそう警告しているのに、毒牙にかかった哀れな蝶は己を喰らう捕食者へとその身を差し出している。
クリシュトフはその赤い唇を僅かに開きながら、秀の耳朶へと寄せた。熱く息を吹きかけ、耳の後ろへと肉厚の舌を這わせる。すると途端に秀の膝がかくんと落ちた。
床へ座り込み、茫洋とした瞳をクリシュトフへと向ける。その虹彩には淫靡な行為を咎める色は宿っていない。
赤い唇がぬらりと光った。
「怖がることはない。きみはただその身を捧げればいいだけだ」
クリシュトフは秀の頤を掴み、上向かせると小さく震える唇を柔らかく塞いだ。熱に濡れた口腔内へ舌を差し入れると、秀が小さく呻いた。
「やがて訪れる快楽にその身を委ねていれば」
今しがた塞いでいた唇の端を、熱い雫が流れ落ちていくのを見て、クリシュトフは息を飲んだ。
「秀?」
名前を呼ばれて、「クリス」と掠れた声で答えた秀の瞳に生気が戻っていた。
涙が溢れているそこには、憐憫以外の感情も含まれていた。
「愛するひとのために……人を殺してきたのか?」
秀は震える両手でクリシュトフの頬を覆った。その行動は、他者の命を喰らってきた男に驚きと戸惑いを齎したらしい。クリシュトフは目を瞠り、頬を強張らせ、口元は攣っている。
「僕に明かしてくれた秘密は、真実じゃなかったのか?」
秘密の共有を絆の深さだと思っていた秀にとって、彼がヘマトディプシアではないことの方がむしろ問題のようだった。
「血が欲しかったんじゃないのか?」
驚愕の表情を浮かべる友人の顔が一気に歪む。涙が止め処なく溢れてきて、彼の表情を読み取れなくなった。それでも秀は想いを吐き続ける。
「人を殺したかった……だけ?」
僕も殺すのか、と続くはずの言葉はクリシュトフの口づけで途切れた。涙で濡れた秀の唇を、クリシュトフの薄い口唇が貪るように食む。
歯列を割り、戸惑っている舌を吸い上げる。逃げようとする秀の腰を抱き寄せた。秀のなにに欲情したのか本人ですらわかっていない。これまでにはない感覚にクリシュトフ自身も戸惑っていた。それでも身体は求めている。
「……っや……めろ……!」
秀の抵抗も激しくなるが、それ以上の力をもって捻じ伏せる。やがて秀の身体から力が抜けていき、自分を抱きすくめる男へ身を委ねた。
抵抗をやめるとクリシュトフの拘束も和らいだ。秀は浅い呼吸を繰り返しながら、汗ばむクリシュトフの胸に額を寄せた。
「嘘はいい。真実を話して」
知らないから怖いのだ。思考がそう行き着いた秀は、クリシュトフに真実の吐露を迫った。
静かな部屋にエアコンの送風音だけが響いた。残っていた寮生たちも皆それぞれの部屋へ戻ったようで、廊下は真夜中のように静まり返っている。
「秀にとって殺人でしかないことも、俺にとってはラディエニエという立派な儀式のひとつなんだ。そしてそれは俺の愛するひとを蘇らせる、唯一の方法でもある」
クリシュトフの腕が緩み、視線を下ろす。
「血の裁判を成功させるために俺は旅をしてきた」
海の底をした瞳が闇色に染まる。
「馬鹿げているときみは言うかもしれないが、俺はそのために何人もの命を喰らってきた。今更後戻りはできやしない」
成し遂げるだけだ、と言いきった声には嘆きが含まれていた。
秀は緩やかに顔を上げ、「僕の命も喰らうのか?」と再度訊ねれば、クリシュトフは弱々しげに首を振った。
「きみとは関わりすぎてしまった。正直、どうしていいのかすらわからない状態だ」
利用しようと思っていた。それでいいと思っていたと、クリシュトフはそれすら吐露した。だが秀は顔色ひとつ変えずにそれらを聞いている。
そしていつもの幼げな微笑みを浮かべ、明日の約束でも取り付けるような気安さで言った。
「だったらすべてを話して、クリスの荷物を僕にもわけてくれない?」
涙が乾いた頬は、笑うと少し引き攣った。
ひやりとした床に手をつき、互いの額をつき合わせ、みつめ合う。
孤独の旅路の果てにみつけた理解者に、クリシュトフは本来の笑顔を見せた。筋の通った鼻梁にわずかな皺を寄せ、細めた瑠璃色の虹彩は闊達な笑みに煌いた。
それでも命を奪う儀式が終わることはない。
掌の細かなしわに入り込んだ血液は水だけでは落ちなかった。それでも汚れのほとんどを落とせたのはラッキーだ。
右手を振り、軽く水をきる。ハンカチを持ち歩かない自分の悪癖を今ほど後悔したことはない。布で拭き取ればもっと汚れは落ちるのに、と秀は嘆息した。
波に濡れない場所へ置いた靴と靴下へと戻る。その横では涼しい顔をしたクリシュトフが、まるで木陰で休んでいるかのように和んだ表情を見せていた。
秀の「有り得ない」と呟いたのが聞こえたらしく、青い瞳がこちらへと向けられた。
「ハンカチを持ち歩くのは身だしなみだと思うんだが、現代日本は違うのかい?」
現代日本?
クリシュトフの言動の一部に眉を顰めたが、すぐに話題を先ほどの死体へと移らせた。
「どうしてあそこに死体があるって知ってたんだ?」
睥睨しながら率直に訊ねた。
「知っているもなにも、あそこに俺もいたからね。とうぜんだ」
自然な語り口はまるで世間話のようだ。尻のポケットから取り出したハンカチを、秀へと差し出しながらのそれは、まるで誰もが知っているティーンズ雑誌のアイドル情報にも思えた。もちろん内容はそんなのん気で華やいだものではない。
ギリ、と音が聞こえそうなほどきつく唇を噛み締めて、否定してくれることを期待しながら呟いた。
「こ、殺した?」
自らの口から発せられた殺人の言葉は、それでもまだ現実味が薄く感じられた。嘘でもクリシュトフが知らぬ存ぜぬを通してくれれば、それだけで秀の心は満たされるのだ。
だがクリシュトフはその願いを悉く打ち砕いた。
「殺した」
梢を揺らす高原のそよ風のように、彼の声音は秀の耳殻へと柔らかく響いた。
不穏な言葉を吐きながら、彼の長い指は秀のぶらりと下がった右手を取り、残っている水気を丁寧に拭い始める。秀の中ではまだ物事の整理がついていないようで、胡乱な瞳は暗く沈んだままだった。
ぎこちない動きで顔を上げ、友人を捉えた双眸には、疑問、不安、恐怖。そのどれもが混在していた。乞うように、縋るようにクリシュトフを見つめ、固く閉じていた口唇をやがて開ける。
「なぜ」
そこまで告げて俯いた。
続く二の句に迷いが生じた。なぜ殺したのか。なぜ、あそこに死体があると知っていて自分を行かせたのか。
どちらの疑問が自分にとって重要なのかを考えたとき、秀は手前勝手な思いに襲われた。
自分はクリシュトフにとって特別な存在である、ということだ。それはヘマトディプシアを告白してくれたことに起因するのだが、それだけではないことが起きている。
先ほどまでハンカチで拭ってくれていた右手を、クリシュトフが強く握り締めてきた。骨ばった指を絡め、きつく締めつける。その痛みの強さがクリシュトフの叫びに思えた。
秀はそれ以上訊ねなかった。
そこにはクリシュトフが殺人を犯したという厳然たる事実だけが存在していた。理由はあるのだろう。もちろん訊ねればクリシュトフはきっと答えるに違いない。汗の臭いに纏いつく、羽虫を追い払う程度に容易い質問なのだろうから。
いつもよりは幾分静かな食堂内で、普段と同じような夕食の風景が見られた。人数が少なく閑散とした感は否めないが、時折上がる笑い声に心が休まる気がした。
秀は黙々と食事を口へ運んでいた。今夜は豚カツのおろしソースがけで、成長期にある十六歳には垂涎もののメニューなのに、昼間の光景がフラッシュバックのように思い出されて、この主菜に手をつけることができなった。
早々に箸を置いた。
嘆息しながら真向かいに座る男を見る。日本に来て間がないという割には器用な箸使いを見せるクリシュトフ。涼しげな顔で、秀が一口も付けられなかった揚げ物を細かく切り分け、口へと運ぶ。
クリシュトフはなにか言いたそうな秀を一瞥すると、
「今夜は少食だね。夜中にお腹が空いたと俺のところへ来られてもなにも振舞ってあげられないが、いいのかい?」
唇の端に付いたソースを舌先で舐め取り、首を傾がせながら訊ねてくる。
秀はすぐに俯いて、空になった汁椀の底をもう一度手に取った箸で弄りながら、
「あれが頭をチラついて……食べられないよ」
独り言のように呟いた。
「それはまあ仕方のないことだね」
クリシュトフは何事もなかったように薄笑いを浮かべ、切り分けた肉を再度口へと運んだ。
殺人者へかける言葉など思い浮かばない秀は、様子を窺うような上目遣いで呑気な隣人を見た。それでもこれからのことを考えると、場所を移して真剣に話し合いたいと思った。
「なあ、クリシュトフ……!」
そう告げようと口を開くと、いきなりテレビの音量が大きくなり、秀とクリシュトフは弾かれたように食堂の隅へ顔を向けた。
大型液晶テレビに映し出されているのは、どこかの山を空中撮影しているところだった。入り口付近に座っているため食堂奥に据え置かれているテレビの映像は確認できるものの、画面上部に現れている文字までは読めない。
それでも聞こえてくるニュースキャスターの言葉は、画面に映し出されている場所を遺体発見現場からの中継であると伝えていた。
思わず秀の指先から箸が落ちる。短く息を吸ったあと、吐き出すのを忘れている。
遺体は崖下からの発見らしい。警察は事故と事件の両面から捜査していると、女性キャスターは淡々と告げた。
十六歳の少年の頭には、昼間みつけた見知らぬ男性の死体が浮かび上がっていた。ボート小屋の中に隠されていた死体だ。血まみれで、少し腐乱していた肉の塊。
う、と嘔吐をついた。口元を隠し、慌てて席を立つ。込み上げてくる吐き気を懸命に堪えながら、慌しく食堂を駆け出した。
ばたばたと室内履きを鳴らしながら自室へ駆け込む。部屋付きのトイレではなく、ミニキッチンへと向かい、喉元まであがっていた胃の内容物をすべて吐瀉した。
腹と背中の筋肉が痛むくらいに吐き続けた。そして一応の落ち着きを取り戻すと涙と鼻水にまみれた顔をタオルで拭いながら、溜息交じりに水栓を開き吐瀉物を流す。
秀、と声をかけられ、振り返ると心配そうな顔をしたクリシュトフがいた。
「そんなに気分が悪いとは思わなかった。無神経ですまない」
身体をくの字に曲げている秀の傍へ歩み寄り、吐き続けていたことで強張ってしまった背を擦りながら謝った。
無神経とはどういう意味かと訊きたかったが、悪心が治ったわけではなく、背中に施される優しい手当てに甘えるように、秀の瞼はゆっくりと閉じていった。
まさかここの生徒まで手に掛けたのか、と秀は震える声で問い詰めた。
今しがた部屋に寮監夫妻が訪れて、昨日帰省したはずの生徒のひとりが自宅に戻ってきていないのだと告げに来たのだ。寮の出発日を確認するために、生徒の親が電話を寄越してきてわかったことだった。
寮監は、「なにか聞いていないかな?」と訊ねたが、一年生の秀にとって該当する生徒は上級生にあたり、まったくといっていいほど接点がなかった。顔も朧にしか思い出せないほどだ。だから夫妻が期待するような答えを言えるはずもなく、秀は申し訳なさそうに頭を下げただけだった。
だが思い当たる節がないわけでもない。
夕食に途中で気分を悪くした秀の介抱のために部屋を訪れている男。クリシュトフだ。
「食堂でやっていた報道番組のニュース。あれはクリスがやったことか?」
まずは一つ目の質問をぶつける。
クリシュトフは返事の代わりに瞬きをひとつした。
「それからあのボート小屋の死体。あれもクリスなんだよな」
この質問には軽く頷いて見せた。青い瞳がゆらりと揺らめく。
秀はこくりと唾を飲み込んだ。
「さっきの話、聞こえていたよな? あれもそうなのか?」
クリシュトフが微かに首を傾げた。それは疑問からの所作ではない。彼の口元には笑みが零れていた。秀の頭へ一気に血が上る。人の生き死にの話をしているというのに、笑い事ではないはずだ。
「クリス! まさかと思うけど。日本へは人殺しのために来たのか?」
我ながらストレートな質問だと思ったが、酷薄の笑みで頬を緩ませる男にはちょうどいいくらいだ。
だが、昼間の殺人を軽く言ってのけたわりに、クリシュトフの口から出た言葉は意外なものだった。
「人殺しのためじゃない」
秀の椅子に腰掛け、肘を机へ軽く乗せた彼は、「愛するひとのためだ」と甘く囁くように答えた。
「黙ってくれていた礼に、話してあげるよ。聞いてくれるね?」
クリシュトフの言葉には妙な威圧感があった。ぎし、と椅子のスプリングが軋んだ。クリシュトフは立ち上がり、石のように固まっている秀の傍へと歩み寄った。
自分を見下ろす宵闇の双眸はやがて細められ、普段は優しい声を紡ぎ出す唇からは蠱惑的な吐息が吐かれた。秀はぞくりと身震いする。
体温が感じられるほどに近づいたクリシュトフの身体を突き放してしまえばいい。本能が何度もそう警告しているのに、毒牙にかかった哀れな蝶は己を喰らう捕食者へとその身を差し出している。
クリシュトフはその赤い唇を僅かに開きながら、秀の耳朶へと寄せた。熱く息を吹きかけ、耳の後ろへと肉厚の舌を這わせる。すると途端に秀の膝がかくんと落ちた。
床へ座り込み、茫洋とした瞳をクリシュトフへと向ける。その虹彩には淫靡な行為を咎める色は宿っていない。
赤い唇がぬらりと光った。
「怖がることはない。きみはただその身を捧げればいいだけだ」
クリシュトフは秀の頤を掴み、上向かせると小さく震える唇を柔らかく塞いだ。熱に濡れた口腔内へ舌を差し入れると、秀が小さく呻いた。
「やがて訪れる快楽にその身を委ねていれば」
今しがた塞いでいた唇の端を、熱い雫が流れ落ちていくのを見て、クリシュトフは息を飲んだ。
「秀?」
名前を呼ばれて、「クリス」と掠れた声で答えた秀の瞳に生気が戻っていた。
涙が溢れているそこには、憐憫以外の感情も含まれていた。
「愛するひとのために……人を殺してきたのか?」
秀は震える両手でクリシュトフの頬を覆った。その行動は、他者の命を喰らってきた男に驚きと戸惑いを齎したらしい。クリシュトフは目を瞠り、頬を強張らせ、口元は攣っている。
「僕に明かしてくれた秘密は、真実じゃなかったのか?」
秘密の共有を絆の深さだと思っていた秀にとって、彼がヘマトディプシアではないことの方がむしろ問題のようだった。
「血が欲しかったんじゃないのか?」
驚愕の表情を浮かべる友人の顔が一気に歪む。涙が止め処なく溢れてきて、彼の表情を読み取れなくなった。それでも秀は想いを吐き続ける。
「人を殺したかった……だけ?」
僕も殺すのか、と続くはずの言葉はクリシュトフの口づけで途切れた。涙で濡れた秀の唇を、クリシュトフの薄い口唇が貪るように食む。
歯列を割り、戸惑っている舌を吸い上げる。逃げようとする秀の腰を抱き寄せた。秀のなにに欲情したのか本人ですらわかっていない。これまでにはない感覚にクリシュトフ自身も戸惑っていた。それでも身体は求めている。
「……っや……めろ……!」
秀の抵抗も激しくなるが、それ以上の力をもって捻じ伏せる。やがて秀の身体から力が抜けていき、自分を抱きすくめる男へ身を委ねた。
抵抗をやめるとクリシュトフの拘束も和らいだ。秀は浅い呼吸を繰り返しながら、汗ばむクリシュトフの胸に額を寄せた。
「嘘はいい。真実を話して」
知らないから怖いのだ。思考がそう行き着いた秀は、クリシュトフに真実の吐露を迫った。
静かな部屋にエアコンの送風音だけが響いた。残っていた寮生たちも皆それぞれの部屋へ戻ったようで、廊下は真夜中のように静まり返っている。
「秀にとって殺人でしかないことも、俺にとってはラディエニエという立派な儀式のひとつなんだ。そしてそれは俺の愛するひとを蘇らせる、唯一の方法でもある」
クリシュトフの腕が緩み、視線を下ろす。
「血の裁判を成功させるために俺は旅をしてきた」
海の底をした瞳が闇色に染まる。
「馬鹿げているときみは言うかもしれないが、俺はそのために何人もの命を喰らってきた。今更後戻りはできやしない」
成し遂げるだけだ、と言いきった声には嘆きが含まれていた。
秀は緩やかに顔を上げ、「僕の命も喰らうのか?」と再度訊ねれば、クリシュトフは弱々しげに首を振った。
「きみとは関わりすぎてしまった。正直、どうしていいのかすらわからない状態だ」
利用しようと思っていた。それでいいと思っていたと、クリシュトフはそれすら吐露した。だが秀は顔色ひとつ変えずにそれらを聞いている。
そしていつもの幼げな微笑みを浮かべ、明日の約束でも取り付けるような気安さで言った。
「だったらすべてを話して、クリスの荷物を僕にもわけてくれない?」
涙が乾いた頬は、笑うと少し引き攣った。
ひやりとした床に手をつき、互いの額をつき合わせ、みつめ合う。
孤独の旅路の果てにみつけた理解者に、クリシュトフは本来の笑顔を見せた。筋の通った鼻梁にわずかな皺を寄せ、細めた瑠璃色の虹彩は闊達な笑みに煌いた。
それでも命を奪う儀式が終わることはない。