第3話

文字数 8,588文字


 第二章では、バーの風景を覗き見してみます。六本木の芋洗坂に移転したバーには毎夜、様々な客が訪れます。人生に悩む二十三歳の僕。半身が不自由になった職人風のノブさん。悩めるバブル女性。事業に失敗した男。様々な人達がバーで人の善意に触れ救われます。バーに存在するという幸せのカクテルとは何なんでしょうか。それはマスターの想いが作り出した御伽噺なのでしょうか。それとも、現実にあるカフェ・ソスペーゾという習慣には、世界を変える力があるのでしょうか。


 第二章 『ペイフォワード』

 二十三歳の春。その頃の僕は世の中に目を向ける事も、自分の人生の道標を見付ける事も出来ていなかった。ただ、自分の事だけしか考えられない大勢の中の独り。根拠の無い未来像。同級生達が時代の波に乗り派手になっていく中、毎日、路上ライブとバイトで過ごす僕。六本木の芋洗坂にあるバー。そこで飲んだカクテルと街の人達。今想うと、僕にとって運命的な出逢いだったのかも知れない。それまでの僕は何となく入学した専門学校を卒業し、定職にも就かずにフリーター生活をしていた。学生時代の仲間とカラオケボックスに入り浸る毎日。外界から遮断された世界で僕等だけの歌を唄っていた。その頃の僕は、違う世代の人達に遭遇することもなく、僕ら以外の人と言葉が通じるとも思っていなかった。あの日、バーを訪れるまでは。その日、僕は家路を急ぐ人達の雑踏の中の一人だった。いつもの信号で捕まり、空を仰ぎ見ると目に水滴が入ってきた。アスファルトに黒いしみが幾つも出来た頃、信号が変わった。アパートへの帰り道は、その角を右に曲がった先だった。その時、僕は違う風景が観たかった。角を左に曲がり、普段は通る事のない路地の坂道を下った。思ったより雨脚が激しくなってきた。タバコ屋の軒先で一息つく。雨に煙る通りの向こうに古ぼけたバーの看板が見えた。バーかぁ。さすがに初めてのバーに一人では入れないなぁ。その時、黄色い看板に灯が点った。雨に煙るモノトーンの街で、淡い光が滲むように浮かびあがる。開店したばかりなら他の客もいないか。雨宿りがてら、一杯だけ飲んで帰ろうかな。僕は雨の降る通りを駆け足で横断しバーの扉の前に辿り着いた。重そうな扉。開けづらいなぁ。えいっ。勢いだぁ。カァラァッ、コッロァッ。静寂の世界。薄暗い店内にオレンジ色のランプが点っている。少し湿気のある古木の薫り。目の前のコの字型のカウンターに近づくと、マスターらしき男性がいた。
「いらっしゃいませ」
 マスターの優しい笑顔が緊張を和らげた。
「あのぅ。初めてで。一人なんですけど」
「どうぞ。当店はショットバーです。チャージとかはありません。一杯で幾らだけです。例えば、ジンリッキー一杯で帰れば、飲み物の値段だけです。これ、どうぞ」
 マスターがカウンターのスツールへ、僕を(いざな)い、乾いたスポーツタオルを差し出した。僕は入口近くのスツールに腰掛けると、スポーツタオルを受け取って雨に濡れた体を拭いた。本当に飲み物代だけ済むのかな。
 まぁ、いいか。一杯だけ飲んで帰ろう。
「あのぅ。じゃぁ。ジンリッキーをください。あの、ジンリッキーって何ですか」
「はい。ジンとライムと炭酸水。サッパリしてます。大丈夫ですか」
「あっ、はい。お願いします」
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。マスターが、ライム入りのグラスに氷を入れ、ジンを注ぎ、炭酸水の瓶を開けて注ぐ。
「お待たせしました」
 僕の前に置かれたグラスの中で、泡が暖色の灯かりに煌めき弾けている。
「頂きます」
 何だろう。香辛料のような薫りと爽やかな酸味が口の中で広がり炭酸水が舌の上を刺激する。
「美味しい」
「有難う御座います」
 マスターがグラスを磨きながら微笑む。
 カッ、カッ、カッ、カッ、、、、。微かに聞こえてくるのは柱にある振り子時計の音だ。こんな静かな世界は久しぶり。自分が自分に還っていく感覚。僕の周りは、いつも人工的な音が溢れていた。僕はキョロキョロと店内を見渡し、手元のジンリッキーを見詰め、二口目を飲む。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。店の扉が開き、雨音に混じった車の音が聞こえた。
「よぅ。だいぶ、本降りになって来たな」
 初老の男性客が入って来て、店の奥のカウンター席に座った。左脚を引きずり、左腕も不自由なようだ。
「いらっしゃい、ノブさん。多分、小一時間で止みますよ」
 マスターが男性客にスポーツタオルを差し出した。初老の男性客はマスターが差し出したスポーツタオルを無言で制した。白銀の短髪に雨露が光っている。
「いつもので」
 少し濁った声で男性客が言った。
 ドウクゥッ。ドウクゥッ。カラッ。カラッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。マスターが、ジュースとジンと卵の白身と氷を入れ勢いよくシェークした。男性客の前のグラスにカクテルが注がれる。男性客は天井を仰ぐようにカクテルを飲んだ。僕と一瞬、目が合うと笑顔で言った。
「兄さんも、濡れちまったクチかい」
「えっ。はい。少し」
 男性客は子供のような笑顔で続けて言った。
「まぁ、お天道様にゃあ、敵わんから。一杯飲んでりゃ止むよ」
 グラスを持ち上げ乾杯の仕草をする。
「兄さん、よく来るのかい」
「いえ。初めてなんです」
「ほう。そうかい。わしは、ノブって言います。宜しく」
 男性客が小さく御辞儀をした。
「あっ、はい」
 僕も頭を下げる。
「兄さんは学生さんかい」
「いえ。一応、働いてますけど。んー、でも、何をやっていいのか目標がないんです」
 思わず漏れた心の声。見ず知らずの人に何でだろう。ノブさんはカクテルを勢いよく飲むと言った。
「誰もが特別な目標を持たなくてはいけない事なんてないよ。今を一所懸命に生きれば、無駄な事なんて一つもないんだよ」
 ノブさんは天井を仰ぐようにカクテルを飲み喋り続けた。
「深く考える事なんてない。人生なんて宝くじみたいなもんさ。たまたま大当たりする事も有るし、当たらなくったて、どうって事ない。ここで飲んでるのだって偶然なんだよ。自分で良い縁に気づくか気づかないか、それだけなんだよ」
 年輪を重ねた男の言葉は、僕の胸の奥に染み入る。ノブさんはカクテルをゆっくりと味合うように飲み、誰かに語りかけるように言った。
「わしも悩んだ事があったよ。だがなぁ、一杯の酒で救われる事ってあるんだよ」
 ノブさんは僕を見ると満面の笑顔で言った。
「兄さんは運が良いよ。この店を知って、飲んでいるだけで運が良いんだよ。はぁっ、はぁっ」
 ノブさんは嬉しそうに大笑いし、グラスを掲げて乾杯の仕草をした。
 初めて入ったバー。初めて逢った人達との何気ない交流。その日の出来事が妙に心地好かった。
 


「あっ、その角で止めてください」
 バス通りの角でタクシーが止まりドアが開く。
「有難う御座います。御馳走さまでした」
 あたしは、ぶっきらぼうにタクシーを飛び降りた。
「アミちゃん、家まで送るよ」
 後藤のオッサンがタクシーから降りようとする。
「大丈夫です。うち、親がうるさいんで」
 しつこいオッサンを振り払う決め台詞。親と同居という設定の方が都合良いのよ。後藤のオッサンは渋々とタクシーで帰っていったわ。タクシーのテールランプが夜の闇に溶けていく。華やかなシャンパンパーティーの帰り。疲れたわ。
 マンションの玄関に新聞配達の中年男性がいる。あっ。あたしの郵便ポストに新聞を入れている。
「なぁにぃ。あたし、新聞、とってないわよ」
「はい。今週はサービス週間で無料配布しています」
「要らないわよ。勝手にポストに入れないでよ」
「スミマセン。どちらのポストですか」
「何で、そんな事、教えなきゃいけないのよ。バッカァじゃないの」
 怒鳴りながら、オートロックのドアを開け、エレベーターに乗り込む。
 エレベーターの中で嫌な気持ちになる。言い方、悪かったかな。でも、あたしは悪くない。出来れば、人に優しい人間になりたかった。お母さんのように。子供の頃の記憶しかないけど、世界一優しいお母さん。このまま、部屋に帰りたくなかった。マスターのお店、まだ、やっているかな。エレベーターの一階のボタンを押す。
 静まりかえった街。深夜の空間に淡い光が浮かび上がる。バーの看板が見えた。

  *

 黙々とグラスを磨くマスター。眠そうなノブさん。閉店間際のバー。そろそろ、僕も帰るかな。
 カァラァッ、コッロァッ。扉が開き、派手な、いでたちの女性が入って来た。歳は三十歳手前かな。女性客が僕の後ろを通る。スプリングコートの下にある小枝みたいな肢体から甘い女の薫りが匂いたつ。
「マスター。一杯だけイイ」
「どうぞ。アミさん、こんな時間に珍しいですね」
「うん。何かぁ、あたし、自分が嫌になっちゃって」
「どうしたんですか」
 マスターの問いに、アミさんと呼ばれている女性は黙って下唇をかみしめ、何かに耐えるように表情を歪めた。
「マスター。あれっ、作ってやんなよ。幸せのカクテル」
 居眠りしていたノブさんが、突然、大きな声で言った。
「アミちゃん。この店にわね、誰でも幸せになる、幸せのカクテルっていうのがあるんだよ」
「えっ、本当っ。飲んでみたい。マスター、お願いします」
 どんな飲み物が出てくるんだろう。僕は色とりどりの薫り豊かな魔法の飲物を思い浮べていた。
 ドウクゥッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。カラッ。カラッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァラァ。マスターが、カナディアンクラブウイスキーとリキュールとジュースと氷を入れシェークした。
「お待たせいたしました」
 マスターがアミさんに差し出したのは。んっ。あれっ。何の変哲もないカクテルだ。幸せのカクテルって、なんだろう。
「それって」
 僕の不粋な言葉を遮るように、アミさんが叫んだ。
「まぁ、綺麗」
 目を輝かせて嬉しそうなアミさん。ゆっくりと味合うようにカクテルを飲んだ。マスターは黙って、微笑みながら彼女を見詰めている。アミさんには、僕だけに見えない豪華なカクテルが観えているのだろうか。マスターが優しく言った。
「このカクテルはアミさんの知らない誰かからの贈り物です。お代は要りません」
「えっ。どういう事ですか」
 アミさんがキョトンとして訪ねた。奥の席からノブさんが答えた。
「この店には、あるんだよ。自分の知らない誰かの為に、辛そうな人がいたら、御馳走してやってくれって、代金を前払いしといて。わしも、このカクテルで救われた事があるんだよ。代わりに、わしも誰かの為にと、代金を置いていったんだ」
 しばらく、キョトンとしていたアミさんは、優しい表情でカクテルを眺めながら言った。
「有難う。あたしも誰かに一杯、御馳走させてください」
 アミさんは笑顔で帰っていった。
 カァラァッ、コッロァッ。僕がバーを出ると、白みかけた東の空が赤紫から桃色に染まっていた。

  *

 昨日の女、嫌な奴だった。だけど、気にしていたら切りがないからな。
 所詮、私は事業に失敗して借金だけが残った五十歳の男だ。やっとの思いで住み込みの職を得たのは新聞配達。今夜は久しぶりの休みだ。私は繁華街を少し外れた路地を歩いていた。黄色い看板の淡い光が目に映った。あれはっ。確か、五年程前に何度か行った店だ。バー。そう、あの頃、私は起業したばかりで希望に満ちた日々を過ごしていた。未来への道があった。私は扉の前で立ち止まった。一杯だけ。一杯だけ飲んでいこう。カァラァッ、コッロァッ。店内には誰もいなかった。目の前のコの字型のカウンターの中にマスターがいた。
「一人ですけど、いいですか」
「どうぞ。あっ、どうも。鈴木さん。お元気そうで何よりです」
「あっ、はい」
 えっ。覚えてた。逆に気まずいな。五年前、あまり良い客じゃなかったろうし。会社の事、知られたくないしな。だが、カウンターの席に座ると、聞かれてもいないのに私は自分から喋っていた。
「マスター。私、会社をたたんだんです。また、最初からやり直しです。自分で気づかないうちに会社を広げる事だけが目的になっていて」
 正直に話すとスッキリした。急に肩の荷が下りたようだ。少し歳をとったマスターの笑顔が落ち着く。
「そうですか。鈴木さん、是非、飲んで頂きたいカクテルがあるんです」
「えっ。はい、じゃぁ、それで」
 こちらから要求すれば応じてくれるが、普段は控え目なマスターが、何やら私に飲ませたいらしい。
 カラッ。カラッ。カラッ。ドウクゥッ、ドウクゥッ。ドウクゥッ。サゥァ―。
 マスターが酒の調合をする。ミキシンググラスに氷を入れ、ドライシェリーとドライベルモットとビタースを注ぎ、素早くステアーし、黄金色≪こがねいろ≫の液体をカクテルグラスに注いだ。シェリーとベルモットの香りが立ち上がる。目の前に置かれたグラスの中で、液体が暖色の灯かりに煌めいている。
「美味しい」
「有難う御座います。鈴木さん、このカクテルは鈴木さんの知らない誰かからの贈り物です。お代は要りません」
「えっ。どういう事です」
「実は、この店には、お客さんの間で、幸せのカクテルと呼ばれている飲み物があるんです。誰か知らない人へ、悩んでいる人がいたら御馳走してあげてくださいと、前払いで代金を支払ってくれる人がいるんです」
 私はグラスの中のカクテルを見詰めた。私の知らない誰かの善意がここにある。私の未来が戻ってきたような気がした。
「ありがとう、マスター。私にも誰かに一杯、御馳走させて頂けませんか」
 私は一杯分の代金を置いて店を出た。
 六本木駅近くの高層ビルを見上げると、満月が輝いていた。今夜、街の景色は温かかった。

  *

 僕は週に一回くらいの割合で、バーに通うようになった。大抵、僕がジンリッキーを一杯飲んでいる間に、ノブさんやアミさん、他のお客さんがやって来て、軽く会釈をして、他愛もない話をする。
 お客さんの中には、いかにも金持ちそうな人や、普通だったら、僕の人生で関わる事のないだろう役者風、ミュージシャン風、役人風、職人風、青年実業家、スナックのママ、様々な人が出入りしていた。年齢も人生経験も社会的立場も違う人達。本名も仕事も知らない者同士が、たまたま同じ空間でカクテルを飲んでいたというだけで、同じ目線で互いを尊重し、ひとときを過ごす。時には独り、自分を見詰め直す場所。僕は今迄にない時間をバーで過ごしていた。
 その日のお客はカウンターにアミさんと僕だけだった。
「ねぇ。良い事、教えてあげる」
 アミさんが急に至近距離に、すり寄ってきた。僕の右腕にアミさんの胸が当たった気がした。
「ノブ爺に見つかると、女、子供が何をやってるって言って怒るのよ。バッカァみたい」
 アミさんは飲み終えたジンリッキーのグラスをマスターに差し出して言った。
「ねぇ、マスター。あれ、やってよ」
「はい。いつものね」
 マスターはグラスの中からカットされたライムをトングで取り出し、砂糖を振りかけて小皿に載せた。
「これこれっ」
 アミさんは嬉しそうにライムをかじった。
「美味しい。ねぇ、やってみて」
 子供みたいに、はしゃぐアミさんに僕はドキドキした。僕も自分の飲み終えたジンリッキーのライムに砂糖を振りかけてもらった。
 それは甘酸っぱい御菓子のようで、少し切ないジンの薫りがした。
「ねぇ、美味しいでしょう」
 アミさんが僕に近づいて言った。
 僕はライムをかじりながら実家の事を考えていた。
「マスター。僕の実家、和菓子屋なんです。実は帰って来いって言われてて。いつまでも今のままじゃ駄目だと分かっているんですが」
「成るようにしか成らないよ。悩んだら一杯飲んで。そうだぁ。あれっ。こういう時に、あの幸せのカクテルでしょう。ねっ、マスター」
 アミさんが、はしゃいで言った。
「お作り致しましょう」
 マスターが微笑んだ。
 目の前に置かれたカクテルを一口飲む。心地好い酔いが全身に流れる。
「美味しい。何で、こんなに美味しいんだろう」
 マスターが答える。
「カクテルはね、1プラス1が2じゃ駄目なんですよ。それ以上になるんです。例えば、ジンとライムと炭酸水でジンリッキーという物語りを造るんです」
 僕の前に置かれた一杯のカクテル。僕の知らない誰かの厚意がここにある。
「マスター。僕、マスターみたいな仕事がしたいです。取りあえず、来週、実家に帰ろうと思います」
 自分の人生を歩けるようになってまた、このバーに来たい。

  *

 実家に帰った僕は必死で働いた。時々、バーの事を想い出す。家業を継いだ僕は、今も納得がいく仕事が出来ずに、もがいていた。かつて、ノブさんが言っていたみたいな幸運は何処にあるのだろう。
 突然の知らせだった。けたたましい電話のベルの音は悲報だった。ノブさんが亡くなった。突然の心筋梗塞だった。二十年ぶりのアミさんの声は低く枯れていた。二十年前のアミさんの面影、薫りが蘇る。
 久しぶりの六本木の街。通りを歩くと二十年前の光景が鮮やかに蘇る。すっかり変わった街並みに吹く微風は昔と同じ匂いがした。
 少し歳をとったアミさんは待っていた。シワの数は過ぎていった歳月を語っていた。数年前に結婚したというアミさんの旦那さんは、金持ちのオジサンでも青年実業家でもない。幼馴染だという大工のシゲさんだった。
 僕は初めて、バーを訪れた日の事を想い出していた。
「今夜、バーに行ってみようかな」
「そうね。行ってきなよ。あっ、そうだ。あのお店にさぁ、幸せのカクテルってあったじゃない。あれ、誰が始めた事だか知ってるぅ」
「えっ。知りません」
 考えた事もなかった。
「本当の事か、どうかは知らないんだけど、噂ではね、マスターが辛かった時に、誰か自分の知らない人にカクテルを御馳走になったんだって。イタリアのナポリでは、前もって余分にコーヒーの代金を払うカフェ・ソスペーゾという風習があるんだってさ。その代金で誰でもコーヒーが飲める仕組みをマスターのバーでも始めたらしいのよ」
 知らなかった。考えてみれば、マスターの事も、あの店で出逢った人達の事も、何も知らない。僕は会ったこともない人に救われた。僕だけじゃない、ノブさんも、アミさんも、沢山の人が、この街で暮らし、この街を通り過ぎていった見知らぬ誰かに救われている。
 夕陽で茜色に染まっていく街を僕は眺めていた。

  *

 僕は二十年前の扉を開いた。カァラァッ、コッロァッ。静寂の世界。薄暗い店内にオレンジ色のランプが点っている。少し湿気のある古木の薫り。目の前のコの字型のカウンターに近づくと、少し歳をとったマスターが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、お待ちしていました。今日は何に致しましょう」
「はい。ジンリッキーを頂けますか」
「かしこまりました」
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。マスターが、ライム入りのグラスに氷を入れ、ジンを注ぎ、炭酸水の瓶を開けて注ぐ。
「お待たせしました」
 僕の前に置かれたグラスの中で、泡が暖色の灯かりに煌めき弾けている。
「美味しい」
「有難う御座います」
 マスターがグラスを磨きながら微笑む。誰もいないバーの店内でカクテルを飲みながら、僕は今と過去とを繋ぐ記憶の糸を探していた。バーで出逢ったカクテルと様々な人達の人生の一場面。暖色の灯かりの中で揺らめく懐かしい顔。このバーで一時(いっとき)、同じ空間を過ごしたというだけで何も知らない人達。やっぱり、ノブさんは正しかった。僕は運が良い幸せ者だ。僕はマスターに声をかけた。
「マスター。お願いがあるんだ。もし、この店に悩んでいる人、辛そうな人が来たら、一杯、カクテルを御馳走して欲しいんだ。代金は前払いで置いていきますから」
 僕は余分な代金と勘定を支払い席を立った。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。その時、店の扉が開き、雨音に混じった車の音が聞こえ、二十歳代前半の若い男性客が入店してきた。
「あのぅ。初めてで。一人なんですけどぉ」
「どうぞ。当店はショットバーです。チャージとかはありません。一杯で幾らだけです。例えば、ジンリッキー一杯で帰れば、飲み物の値段だけです。これ、どうぞ使ってください」
 マスターがカウンターのスツールへ若者を誘い、乾いたスポーツタオルを差し出した。若者は入口近くのスツールに腰掛けると、スポーツタオルを受け取って、雨に濡れた体を拭いた。
「雨、降ってますか」
 僕が若い男性客に声をかけると、若者は少し驚いた表情をした後、答えた。
「えっ。はいっ。少し」
 僕は笑顔で言った。
「まぁ、お天道様には、敵わないから。一杯飲んでいれば止みますよ」
 僕は若者とマスターに軽く頭を下げ、店を出ようとした。
「あの、傘、持って行ってください」
 マスターが傘を差しだしたが、僕は右手を上げ無言で制した。
「また、来ます」
 僕はバーの扉を開けた。
 六本木の駅近くで夜空を見上げると、雨は止んでいた。雲の切れ間から月の光が差し込む。
 マスター。ノブさん。アミさん。そして、僕の知らない誰か。ありがとう。
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  •  第一章 『アドニス』

  • 第1話
  • 注釈・参照

  • 第2話
  •  第二章 『ペイフォワード』

  • 第3話
  •  第三章 『アムール』

  • 第4話
  • 追記。 『おわりに』

  • 第5話
  • 付録・バーのショートショートストーリー五選『今宵、バーの片隅で』

  • 第6話
  • 質問『お客様との会話で印象的だったことはありますか?』

  • 第7話
  • 質問『日本のバーについて思う事はありますか?』

  • 第8話
  • 質問『是非、行ってほしいバーとは、どんなバーですか?』

  • 第9話
  • 質問『日本のバーは、どのように発展していくでしょうか?』

  • 第10話
  • 質問『バーで飲む為の嗜み方はありますか?』

  • 第11話
  • 質問『バーとは、どんな場所ですか?』

  • 第12話
  • 質問『印象深いバーやバーテンダーの方はいらっしゃいますか?』

  • 第13話
  • 質問『最近、マニアックな専門店のバーがありますが、どのように考えていますか?』

  • 第14話
  • 質問『出入り禁止になる人って、本当にいるんですか?』

  • 第15話
  • 文中の一部を抜粋

  • 第16話

登場人物紹介

登場人物はありません

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