第4話

文字数 10,101文字

 第三章 『アムール』

 平成三十一年三月十七日、日曜日。
 久しぶりに赤坂の街を訪れました。電子マネーで自動改札を出ると、エスカレーターを上がります。家電量販店の広告を横目にして、通りへ出ます。チェーン店が増えたなと感じます。あの頃のように、ワサワサとした人間達の活気は感じません。次々と新しいビルが建つ街並みになっていました。雲一つない天気の青い空に誘われて、あてもなく街に出たのです。気づいたら、私は赤坂の街を歩いました。三十年前の路地はなくなり、道が分からなくなってしまいました。ここです。ホテルの一階部分はオープンカフェになっています。スポーツ中継が店内のスクリーンで放映されています。通りは、大きなスーツケースを持った外国人観光客で賑わっています。しばらく、立ち尽くしてホテルの外観を見渡します。多分、右側の搬入口のあたりでしょう。あそこに彼女がいたのです。小料理ハナで働く忍がいたのです。眩しい笑顔が色あせてゆきます。私はホテルのロビーに入っていきます。フロントの従業員が笑顔で会釈をします。私は軽く頭を下げ、気のない素振りで窓際へ歩き出します。白い壁に飾られた小さな水彩画がありました。季節外れの構図ですが違和感はありません。それは、淡い水色の江戸風鈴の絵です。バックにはオレンヂ色の打ち上げ花火が彩られています。懐かしい風景です。構図だけではなく色遣い、線の筆運びまでが懐かしく感じます。そんな筈ないのになと想いを巡らせます。私は絵なんて鑑賞する習慣はありません。誰が描いたか知らないですが偶々、私の若い時の記憶とリンクして感傷に浸ってしまったのでしょうか。
「健一君。健一君だね」
 不意に声をかけられました。振り向くと、色黒の御老人が立っています。
「あっ。あぁ。お久しぶりです」
 小料理ハナの常連客だった広告代理店の元局長です。
「懐かしいなぁ。健一君、今、どうしているの」
「はい。ここを立ち退きになって、今は六本木の芋洗坂でバーをやっています」
「そう。良かった。健一君は幾つになったの」
「はい。五十四歳になりました」
「あぁ、若いね。私は今年で八十五だよ。みんな亡くなっちゃてね。ハナさんところの常連客で、私が一番若手だったから。お茶でも飲もうよ。時間あるでしょ」
 元局長が手をあげると、ホテルのスタッフがやって来てラウンジに案内されました。
「赤坂も変わったねぇ。あの頃は元気だったなぁ。みんな」
 八十五歳にしては色気のある元局長が懐かしそうに笑いました。私は忍の事を聞いてみたかったですが言葉にする勇気がありません。私は沢山のものを見失ってきました。独り言のように私は呟いていました。
「過去は変えられませんからね」
「えっ。どうしたの。何かあったの」
 私は我に返って、笑顔でごまかします。一瞬の沈黙の後、元局長が口を開きました。
「健一君。過去って変えられるんだよ。過去という世界は存在しないんだよ。過去っていうのはね、記憶でしかないんだ。あの時、ああしていれば、こんな筈じゃなかった。って思うか。あの時、失敗した御蔭で頑張ったから今は幸せだと思うか。過去の景色を変えるのは今の生き方なんだよ」
 元局長は真顔で遠くを観ながら答えました。私の中を一気に過去の記憶が駆け巡り、今の私が呼吸を始めました。
「そういえば、健一君、今日はどうしたの。忍ちゃんと待ち合わせかい」
「えっ。まさかっ」
 心臓が止まりそうになりました。
「忍ちゃん来るよ。もうそろそろ来るんじゃないかな。毎月、ホテルの絵の交換に来るんだよ。今時分にね」
「えっ。忍さん、画家になったんですか」
「はっはっはぁ。時々、絵は描いてるみたいだけど、趣味の延長じゃない。自分で買い付けた絵を飾ってるみたいだよ。レンタル業のほかに今じゃ、画廊のオーナーもしているんだよ」
「えぇ、そうなんですかっ。何でぇ。あぁ、八神さんの遺産ですか」
「そうねぇ。八神さん、罪滅ぼしだったのかねぇ」
「はぁっ。どういう事ですか」
「健一君、知らなかったのぉ。忍ちゃんの子供、八神さんの息子さんの子なんだよ」
 私の全ての細胞が固まってしまいました。息をするのを忘れ、考える事が出来ません。あの時、何があったというのでしょう。
「ここの開発が始まった時、忍ちゃんも地権者だから相談にも乗ってたんだけど、八神さん、体調、崩してて。息子の浩一君に任せてたんだ。その頃、ハナさんの認知症も進行して、忍ちゃんも病気したらしいじゃない。精神的にも体力的にも限界だったんじゃないの。結局、気付いたら浩一君と、そういう関係になったらしくて。子供が産まれた時に浩一君と奥さんとの子は中学生だったんだけど、大モメしてね。忍ちゃんの子、認知しなかったんだよ。それで、八神さんが激怒して。家裁で強制認知するの、どうのって話までいって。何ていったて、ハナさん時もそうだったから。忍ちゃんの父親、八神さんの部下だったでしょう。八神さんからしたら、息子を勘当してでも忍ちゃんと子供を守りたかったんじゃない」
 知らなかったです。忍の人生に、私は何も関わっていなかったのです。
「それで結局、子供は認知されたんですか」
「それが浩一君が一年後に交通事故で亡くなってしまってね。八神さんからしたら本妻の子も、忍ちゃんの子も孫だから。家庭裁判所で死後認知する方法もあるらしいけどね。八神さんも歳だし。持病も悪化しててね。早く、何とかしてやりたいって思ったんじゃないの。それにしても、戸籍上だけとはいえ入籍するとはね。子供は八神さんが認知したんだよ。御蔭で八神さんの遺産の四分の三は忍ちゃんと子供に渡たんじゃない」
「そうだったんですか」
 どんな気持ちで子育てをしていたんだろう。私は忍の気持ちを想像してみました。
「健一君。じゃ、そろそろ行くから」
 伝票を持って、元局長が立ち上がりました。
「あ、はい。有難う御座います。御馳走さまでした」
 元局長の去った後、私もホテルを出ました。
 平成という時代が終わろうとしている歳の早春。西の空がオレンヂ色から赤紫に変わります。薄暮の空に吹く風が春の薫りを運んで来ました。
 かつて、小料理ハナがあった場所に白髪交じりの女性の姿があります。シワの数が遠く過ぎていった歳月を蘇らせます。その女性は真っ直ぐに私を見ています。五十四歳になった忍でした。
「あっあぁ」
 言の葉を失った私に、忍はまるで、よそよそしい他人のように無言で御辞儀をしました。
「やぁ、久しぶり」
 私は新人俳優のように棒読みの台詞を言いました。他の言葉が見つからなかったのです。
「お久しぶりです」
 それは少し、トーンの低くなった忍の声でした。花の蜜のような香りは、もうしません。歳相応になり年輪を重ねた女性がそこにいました。
 上下が黒のパンツ姿は動きやすそうで身軽ないでたちです。背筋の伸びた姿は昔のままでした。私は少し落ち着きを取り戻します。
「そういえば、今は八神忍さんだっけ。お子さんもいるんだよね」
「そう。もう、二十六歳なの」
「えぇ。そうなんだぁ。凄いなぁ。二十六歳の子の母親なんだ。男の子だっけ。名前は」
「佳伸。母の両親から一文字ずつ取ったの」
 忍は、気負いもなく自然な笑顔で日常会話をします。私も重い荷物をおろしたかのように身体が軽くなっていくのを感じました。楽に話ができました。
「そういえば、障害があるって聞いたんだけど」
「うん。ダウン症」
「今、どうしているの」
「週に四日ぐらい働いているわよ。食堂の洗い場で」
「へぇ。会いたいな。会ってみたいよ」
「うん。来ているわよ。車の中に」
 忍が玄関に停めてある車に目をやります。後部座席に人影が見えました。忍が産んだ子供がそこにいるのです。忍が車の扉を開け、佳伸君を連れてきます。大きいです。忍より大きい佳伸君が目の前にいます。想像していたより大人でした。トレーナーにズボン姿です。マジックテープの靴を履いています。忍が小さな声で佳伸君に話しかけます。
「沢村さんよ。お母さんのお友達」
「さっさわぁむぅらさっ。こんにちわっ」
 姿勢が定まらず、私と目線が合う事はないですが考えていたより、しっかりした挨拶でした。
「はい。こんにちは。有難う。うん。私はお母さんに御世話になった沢村です。宜しく御願いします」
「おっおねがいしぁす」
 優しい母親の顔をした忍が佳伸君を見守っています。
「凄いね。しっかりしているね」
 忍が気遣うような表情で私に尋ねました。
「沢村さんは、どうしているんですか。今」
「あぁ。六本木の芋洗坂でバーをやっているよ。食べていくのがやっと」
「ご結婚は」
「うん。中学の同級生と結婚したんだ。十年前に離婚したけどね」
 私は笑ってみせましたが、忍は真顔でした。
「ふーん。でも、お店、続けているんですね。凄いですね」
「いや。ぜんぜん。何とかやっている程度。今度、飲みに来なよ。一杯ぐらい御馳走するよ。佳伸君はお酒は飲めないの」
「飲むのよ。シェリー酒が好きなの」
 そう言って忍は笑いました。佳伸君も忍を見て笑います。二人を見ていて、私の過去が変わっていくのに気付きました。
 ふと、ホテルのロビーに飾ってあった水彩画を思い出します。
「そういえば、ロビーにあった水彩画。もしかしたら、忍さんが、」
 その時、私の携帯電話が鳴りました。プルルッ、プルルッ。電話は娘の弥生からでした。
「お父さん。元気」
「あぁ、どうしたんだよ。何かあったのか」
「うん。あたし、子供が出来たの。今年の七月が予定日だから。お父さん、絶対に会いに来てよね」
「あぁ、分かったよ」
 どうやら気づくと、私に孫が出来たらしいのです。 
「どうしたの。健一さん、何だか嬉しそう」
「えぇ、そうかぁ」
 オレンヂ色になった太陽の光が忍の笑顔を照らします。あの頃の面影が蘇ります。
「また会いたいな」
「健一さん、私なんかじゃなくて、もっと若い()の方が良いでしょう」
「俺、もう孫がいるんだぜぇ。あはっはぁ。先の事は分からないよ。今は、また会いたいんだ。いいかな」
「はい。私で良ければ」

 平成三十一年三月二十四日、日曜日。
 忍と表参道で待ち合わせ、渋谷に出ました。地下鉄の車内。揺れる電車の中で、触れ合う肩の距離が忍との二人の関係でした。
 久しぶりの渋谷の街です。通りを歩くと数十年前の光景が鮮やかに蘇ります。すっかり変わった街並みに吹く微風は昔と同じ匂いがしました。
 駅ビルの屋上へ忍を誘いました。青い空に映える五十四歳になった忍の笑顔が過ぎていった季節を教えてくれます。
 太陽がまだ高い位置にいましたが、私は二つの缶ビールの栓を開け、一つを忍に差し出します。喉を鳴らし缶ビールを飲みます。遠くの空を眺めながら言いました。
「今頃、八神さんも一緒に飲んでるんじゃないか」
「うん、そうね」
 青い空に浮かぶ遠くの雲に向かって、乾杯するように缶ビールを掲げながら私は微笑みました。雲の上を音もなく白い飛行機が飛んでゆきます。
 楽に話が出来ました。二十代の頃、必死に前に進もうとしていた私は何を生き急いでいたのてしょう。あの頃の熱い血潮が戻ることはあるのでしょうか。
 夕陽で茜色に染まっていく渋谷の街を眺めながら私と忍はビールを飲み干しました。

 令和元年五月十二日、日曜日。
 昭和という時代が終わった時。あの頃、街は見えない不安と理由のない高揚感に溢れていました。ニュースを観て、最近、やっと年号が変わった事を認識し始めました。平成が終わったという実感はありません。あの時とは違うなと思います。昭和が終わったあの歳。あれから三十年の歳月が過ぎていました。私は今年、五十四歳になります。髪が白くなり、新聞を読む時には眼鏡を外します。新しい時代の始まり。令和元年の東京の街。西の空がオレンヂ色から赤紫に変わろうとしています。
 永い闇の中を走り続けた地下鉄の列車が一瞬、地上を走り抜けていく時に眩いばかりの外の世界が広がったかと思うと、ビル街に反射した赤みがかった斜陽が乗客の女性の顔を光らせました。女性の連れの男性は、その輝きに気付きもせずに携帯電話をいじり続けています。私には陽の光よりも眩しい彼女の笑顔が、若い時に観た桜の華のように、私の胸を締め付け、頭から離れません。
 忍と、週に一度くらいのペースで会うようになっていました。落ち着いた雰囲気のイタリアンバールで、食べ終えたパスタのお皿を下げてもらうと、コーヒーが運ばれてきました。
「時間は大丈夫なの」
「えぇ。あと一時間くらい。五時に佳伸を迎えに行くので」
「そう。じゃ、どうする。車だからお酒は飲めないし。買い物でも、」
「アタシは、ここで」
「あっ、そう。じゃ、ジェラートでも頼むかな」
 コーヒーを飲み干し、私はメニューを手に取ります。
「アタシはコーヒーだけでイイわ」
「えっ、いいの。冷めちゃってるけど」
 冷めたコーヒーカップと忍を私は見比べました。
「アタシね、冷めたコーヒーが好きなの。酸味、苦み、甘みや旨みが口の中に広がるの」
「アイスコーヒーじゃ駄目なの」
「ううん。駄目。苦くて熱いコーヒーが冷めなきゃ駄目なの」
「へぇー。そんな趣向もあるのかね。俺も、もう一杯、コーヒーにするか」
 私は手をあげて店員さんを呼びました。
 運ばれてきた二杯目のコーヒーには手をつけませんでした。三十分ほど忍と他愛も無い話をします。
 道路を(せわ)しく行き交う人達は何かに追われているようです。
「そういえば来年、東京オリンピックだね。オリンピック、観に行くの」
「ううん。多分、テレビだけ」
「そう。来年、隅田川の花火、出来るのかな」
「開催日がずれるという案もあるらしいわよ」
「そうなんだ」
 私は冷めたコーヒーに口を付けました。先程飲んだ熱いコーヒーとは違い、優しい甘みが広がります。後から懐かしい苦みが追ってきます。冷めたコーヒーの味は、まるで私と忍の今の関係に似ているのではないかと想像してみました。
 私も冷めたコーヒーが好きになりました。

 令和元年七月十六日、火曜日。
 今日は線香花火をする約束でした。日暮れ時に忍の家を訪れました。玄関先で忍が準備をしています。
「やぁ、お待たせ。ビール買ってきたよ」
「ありがとう。健一さん、家に上がって。今、送り火の準備をしてて、すぐに終わるから」
「あぁ。そうかぁ。俺も参加していいかな」
 忍がオガラに火をつけます。真っ白の煙が紫色に変わった空へと昇っていきます。白い煙は幾つもの過ぎていった季節を一緒に運んでいくようです。八神さんの面影が消えていきます。玄関に飾られた茄子の牛は何も語りません。オガラが燃え尽きた後、忍は八神さんとハナさんの写真を部屋に戻し、きび餅を供えて手を合わせています。佳伸君は線香花火を手に持って、既に興奮気味です。
「うっ、わぁっ」
 笑顔の忍が花火の準備をします。きっと、毎年、二人で同じ事を繰り返しているのでしょう。
「健一さんも、はい」
 私も子供のように線香花火を手渡されました。
 バァバァバッー、バァバァバッー。
 線香花火の火花が煌めき、忍の顔を照らします。黒色火薬の匂いの合間にシャンプーの薫りが漂っては消えていきます。大きな玉がくすぶり、火花を散らし火の玉の塊が地面に落ちました。
 何の疑いもなく、不安もない笑顔の忍が私を見ています。やっと、忍に逢えたような気がしました。
 五十四歳の夏、私はもう一度、恋をしました。それは冷めたコーヒーのように、ゆっくりと穏やかな恋です。

 令和元年が暮れようとしていました。例年の大晦日は、バーの常連客数人と年越しをした後、初詣に出かけます。この年の大晦日は、忍の家で年越し蕎麦を御馳走になりました。佳伸君は午後九時には熟睡しています。私は忍と二人でビールを飲み交わしました。それは、言葉を交わさなくても気心の知れた熟年夫婦のような空間でした。近くのお寺から除夜の鐘の音≪ね≫が聞こえてきます。
「今年も宜しくお願いします」「こちらこそお願いします」
 乾杯のビールグラスを置くと、私は帰り支度をします。
「じゃ、そろそろ帰るよ」「はい。気を付けて」
 何一つ特別な事のない日常でした。令和二年の幕開けの帰り道。何か良いことが起こるかもしれない。そんな予感がしていました。しかし、令和二年の春、世界は一変してしまいました。新型コロナウイルスの流行は何もかも変えてしまったのです。常連客の皆さんも仕事の大半はリモートになりました。緊急事態宣言が解かれた後も、外食は控えるようにとプライベートな事にまで会社の要請があるそうです。何を頼りに、何を信じて良いのか、みんなが不安になり、自分自身を見失いかけていました。しかし私は、恵や弥生の家族は勿論、忍への気持ちも会えない事で深まっていきます。私は、かけがえのない存在があるのだという大切なことに気づきました。

 令和五年五月七日、日曜日。
 忍と外食をするのは四年ぶりです。私は二十歳代の頃、二人でよく行った青山墓地近くのカフェで待ち合わせをしました。毎週、メールや電話で連絡を取っていたせいか、何の違和感もなく、二人の時間を取り戻せました。ランチを食べ終えた後、私は忍に訊ねました。
「時間は大丈夫なの」
「えぇ、今日は佳伸の送り迎えもないし。ゆっくりできるの」
「そう。どうするかな。ビールでも飲みたいなぁ」
 私がメニューを開くと忍が明るくはしゃいだ声で言いました。
「アタシも飲んじゃおうかしら。確か、シェリーがあったわよね」
「シェリーっ。シェリーの酒言葉って知ってるのぉ。今夜は貴方に全てを捧げますって事なんだぜぇ。女性が男性の前でシェリーを頼んだら愛の告白なんだからね」
「そんなの知らないわよ」
 忍は無邪気に笑いました。その笑顔は二十歳の夏、シルクハットで見た陽気な忍の姿でした。
「そういえば知っているかい。今だから言うけど、バッカスで俺が忍に作ったバンブー。あれ、俺がお客さんに作った初めてのカクテルだったんだぜ」
 忍は驚くでもなく、得意げに答えました。
「まぁ光栄だわ。そういえばアタシがシルクハットでお薦めしたカクテルもバンブーね」
「いゃぁ、あれはアドニスだよ」
 あきれ顔で答えた私に対し、不思議そうに忍が呟きます。
「えぇ。確か、シルクハットのバーテンダーさんは、オールドスタイルのバンブーとか言っていたと思うんだけど」
「あっ、そうかぁ。そうだったのかぁ。もしかしたら青山墓地近くのカフェの店長に、オールドスタイルのバンブーの事を話したことはあったかい」
「さぁ覚えてないわ」
 そういって忍は子供のように笑いながら首をかしげました。
 そういえば二十歳代の頃、先輩に「アドニスをドライめに作ってくださいって注文してごらん」って言われたことがありました。先輩はオールドスタイルのバンブーを知っていたのでしょうか。
 私は最近知ったのですが、『バンブーは一八八六年には既にニューヨークの酒場で流行していた』という内容の米国の新聞記事があるそうです。バー経営をしながらエッセイを執筆されている荒川英二氏によると、『ドライベルモットが多く流通しだすのは一九一〇年以降。一九〇〇年刊行のカクテルブックでバンブーはスイートベルモットを使用している』という内容の記事があります。更に『当時のカクテルブックでは、アドニスのスイートベルモットの割合をドライめに作ったのがバンブーの処方』という内容の記事があります。そして『一九〇八年のカクテルブックにはバンブーはルイス・エッピンガー氏の考案と記載があり、一九二〇年頃にはスイートベルモットとドライベルモットを使用するバンブーが混在していた』という記事があります。ちなみに私が所有するサヴォイホテルのカクテルブックでバンブーは、ドライベルモットとスイートベルモットの両方を使用しています。つまり、一八八〇年代には既に米国でバンブーというカクテルは存在していて、一八九〇年頃に来日した横浜グランドホテルの支配人ルイス・エッピンガー氏が日本でドライベルモットを使用して世界的に有名になったという事なのでしょう。
 私が初めてバンブーを飲んだ時に、予備知識がなくても竹と日本のイメージにピッタリだと思いました。しかし、スイートベルモットを使用したドライめのアドニス。つまり昔の処方の赤い色のバンブーを飲んでも全く竹のイメージが湧いてきません。余談ですが、一八七九年にエジソンは竹の素材で白熱電球の開発に成功したそうです。
「ニヤニヤして、どうしたの。何を考えているの」
 悪戯っ子の少女のような笑顔で、私を覗き込む忍に、私は答えました。
「あぁ。俺が生まれて初めて飲んだカクテルはアドニスだと思い込んでいたけど、実はバンブーだったのか。きっとルイス・エッピンガー氏は、日本に来て初めて本物の生きた青い竹を見て、清々しいスッキリしたレシピに変えたんじゃないかな」
「えっ。何の事っ」
「いゃぁ、何でもないよ。今度、とびっきり旨いバンブーを御馳走してあげるよ。本当に竹を割ったようにスッキリしたバンブーをね」
 私の中にある四十年前の景色に、シェリーの香りが立ち上がりました。今の忍を笑顔にするバンブーを作る自信が、私にはあります。
「そう。そういえば、今年は隅田川の花火、出来るのかな」
「四年ぶりに開催できるらしいわよ」
「そうなんだ。そうだ。うちの店のお客さんが持ちビルの屋上で花火を見せてくれるんだけど、今年、一緒に行かない。来るのは、うちのお客さんたちで、みんな知り合いだから安心して。凄いよ。会場の真下だから大迫力。佳伸君も初めてでしょう」

 令和五年七月二十九日、土曜日。
 私は、忍と佳伸君をビルの屋上に案内します。眼下には懐かしい浅草の街並みが広がります。よく晴れた青空の下、活気づく街。忘れていた光景が蘇り、三十二年前の風が通り過ぎます。太陽が沈みかけた浅草の街並みを忍はジッと見詰めています。オレンヂ色に染まっていく陽の光の中で微笑む表情が少女にように輝きます。忍は何を考えているのでしょう。
「どうしたの」
「ううん。何でもない」
「そう」
 忍が笑顔をみせます。

 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
「おぉ、上がった、上がった」
「わぁ、綺麗。佳伸、凄いね」
「わぁ、おぉっ」
 ヒシュー、ピィー、ドォッ、パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
 浅草の街に花火があがります。 
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
 打ち上げ花火が浅草の街を紅く染めてゆきます。隅田川の水面(みなも)に映るビルたちが静かに溶けていきます。川底に沈む追憶の日々。何度目の季節でしょう。もう忘れてしまいました。
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。バタッ、バタッ、バタッ。
 火花が落ちてきます。
「うぉおっ。おっ。はぁっ、はあっ」
 興奮する佳伸君を私は少し心配しましたが、忍は穏やかに見守っています。
「マスター、そろそろカクテルをお願いできますか」
 声をかけてきたのは、このビルのオーナーの友人でもある阿坂さんです。いつも花火観賞をしながら、私はカクテルを振る舞うのが恒例になっていました。即席のカウンターで次々にカクテルを作ります。
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。ライム入りのグラスに氷を入れ、ジンを注ぎ、炭酸水の瓶を開けて注げば、一番人気のジンリッキーが出来上がりです。
カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。ミリオンダラーは、よくシェーキングしてカクテルグラスに注ぎます。
 私はクーラーボックスから、よく冷えたドライシェリーとドライベルモットを取り出し、ミキシンググラスに注ぎます。サゥァ―とステアーすると素早く、忍の目の前にあるカクテルグラスに注ぎました。
「バンブーね。青竹のようにスッキリしたバンブーなんでしょ」
「待って」
 ワクワクしながら手を伸ばす忍を制して、私はカクテルグラスにレモンピールを振りかけます。
「なぁにぃ」
「レモンの香りをつけたんだ。飲んでごらん。シェリーの風味の後にレモンの残り香が心地好いから」
 恐る恐るグラスに口をつけた忍が、一呼吸して尋ねます。
「いい香り。これもバンブーなの」
「バンブーのレシピにレモンピールを振りかけると、アムールっていうカクテルになるんだ」
 一瞬の沈黙の後、忍がニヤリと笑い、からかうように言いました。
「これってアタシのこと口説いてるのぉ」
 私は、すまし顔で答えます。
「シェリーを飲みたいって言ったのは忍だからな」
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
 打ち上げ花火が浅草の街を紅く染めます。
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。
 屋上に降り注ぐ火花が煌めきます。火薬の匂いが流れてきます。
 赤く染まる浅草の街並みを私と忍は見守ります。私達は同じ景色を見ています。
  (了)

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  •  第一章 『アドニス』

  • 第1話
  • 注釈・参照

  • 第2話
  •  第二章 『ペイフォワード』

  • 第3話
  •  第三章 『アムール』

  • 第4話
  • 追記。 『おわりに』

  • 第5話
  • 付録・バーのショートショートストーリー五選『今宵、バーの片隅で』

  • 第6話
  • 質問『お客様との会話で印象的だったことはありますか?』

  • 第7話
  • 質問『日本のバーについて思う事はありますか?』

  • 第8話
  • 質問『是非、行ってほしいバーとは、どんなバーですか?』

  • 第9話
  • 質問『日本のバーは、どのように発展していくでしょうか?』

  • 第10話
  • 質問『バーで飲む為の嗜み方はありますか?』

  • 第11話
  • 質問『バーとは、どんな場所ですか?』

  • 第12話
  • 質問『印象深いバーやバーテンダーの方はいらっしゃいますか?』

  • 第13話
  • 質問『最近、マニアックな専門店のバーがありますが、どのように考えていますか?』

  • 第14話
  • 質問『出入り禁止になる人って、本当にいるんですか?』

  • 第15話
  • 文中の一部を抜粋

  • 第16話

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