第6話

文字数 14,899文字

   『今宵、バーの片隅で』
 人に触れたいと思う者もいる。心の叫びを吐き出したい人もいる。バーの扉を開く理由は人それぞれだ。
 バーに行ったことのない人でも、バーの醍醐味を知る方法が一つある。初めての店でもバーは、一人で訪れることをお勧めする。もし、店内に他の客がいたら、むやみに話しかけないことだ。それぞれの酒の席を土足で踏み込んではいけない。距離感が大切だ。
 あなたは、そのバーに通い詰める。ある日、よく見かける客と目が合う。互いに軽く会釈をして、直ぐにそれぞれの世界を守る。それができたらあなたは、もう、そのバーの常連客だ。
 さぁ、バーに行ってみよう。
 緊張しながらバーの扉に手をかけて開く。目の前に広がる世界をきっと、あなたは認識できないだろう。覚悟を決めて結界の奥に一歩踏み出す。すると、外界とは異質の時空が出現する。
 その場所には、長いカウンターがあるはずだ。バーを訪れたならカウンター席を選択しよう。仲間と一緒にワイワイと話をしてテーブル席に座るのなら居酒屋に行くべきだ。ただし、過ぎ去った時間と一人で会話をしたいのなら、店内が見渡せるテーブル席でグラスを傾けるのもよいだろう。
 無事にカウンター席で、バーテンダーに酒の注文ができたら、静かに店内を見まわそう。
 徐々にバーという世界が姿を現し、あなたはバーと同化してゆくだろう。
 一杯目の酒が手元に届くまで、言葉を発してはいけない。バーテンダーは、あなたの為だけに地上で唯ひとつの飲み物を作っているのだ。
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
 今、バーテンダーが、あなたの飲み物を調製している。
 コトッ。
 目の前に置かれたカクテル。その暖色の灯かりに煌めく飲み物は、あなた自身なのだ。
 さぁ、バーの時間の始まりです。
 バーのカウンターで一杯の酒と対峙する体験。それは自分自身と出逢うことです。その飲み物を口にした時に、あなたにとって貴重な人生の扉が開くのです。

 今宵もバーの灯があなたの心に点ります。
 それは、あるバーの物語りから始まります。

Bottld‐No.1
  『二杯目のホワイトレディ』
 もしも、ウィルスに人格があったなら。
 あなたは意地悪な人間嫌いですか。それとも、あなたは恥ずかしがり屋で人付き合いが苦手な小心者ですか。
 あなたは人間と一緒に生きたいのですか。
 あなたは人間に報復をしているのですか。
 あなたは人殺しですか。
 私たちは、どうすればよかったのですか。
 私たちは、これからどう生きればよいのですか。
  ☆
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。
 扉の開く音ともに、雨粒の調べと表通りを走り去る車の音が聞こえた。
 お道化た仕草でバーの店内をヒョッコリと覗き込む女性は、不安な気持ちを隠すように明るい声を発する。
「一人ですけど、いいですか」
「どうぞ」
 バーテンダーは彼女をカウンターの奥の席へと誘≪いざな≫う。
 白いブラウスから延びる長く細い彼女の二の腕は、陽炎≪かげろう≫のように透けて見える。
 明るく振る舞う彼女がフッとみせる顔は、無表情の仮面で覆われている。バーテンダーには、仮面の下で流れる彼女の涙が見て取れた。
「マスター、ホワイトレディを頂けますか」
「かしこまりました」
 カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
 静かな店内に木霊≪こだま≫するシェーキングの音色が、彼女の記憶の扉を開ける。
  ☆
「なぁ、ホワイトレディってカクテル、知ってるぅ。これっ。飲んでみなよ」
 ケンは意気揚々と白濁色に輝くカクテルをナミに差し出した。
「んっ。あっー。キツイッ」
「はぁはっはっはっ。ナミにはまだ、早かったかな」
 ケンはバーテンダーに笑顔で合図をしながらオーダーをする。
「マスター。例のホワイトレディをお願いします」
 カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
 店内にシェーキングの音が響き渡る。ナミの目の前に置かれたカクテルグラスに注がれる液体が白く煌めく。
「なぁにぃ、これっ。さっきと同じの」
「いいから飲んでみなよ」
 ケンに促されて、ナミは恐る恐るグラスに口をつける。
「美味しいっ。何が違うのぉ」
 ケンは黙って笑っているだけだった。

 ケンとナミが二人で会うようになって一か月が過ぎた頃だった。ゴローがナミに耳打ちする。
「ナミ。ケンには気を付けたほうがいいよ。何でケンには父親がいないか分かるかい」
「えぇっ。何言ってんのっ」
 怪訝そうな顔をするナミにゴローは囁≪ささや≫く。
「ケンの髪の毛が赤いのと、黒衣の牧師の髪が赤いのは偶然じゃないらしいよ。なにせケンの母親が一文無しで村に流れ着いた時、教会で下働きをしていたんだからね」
「ふざけないでよ。卑≪いや≫しい想像をするゴローなんて最低よっ」
 ナミは、その場を逃げ去った。だが、ゴローは村人達の琴線に触れる言葉を操り、村の掲示板が黒く塗りつぶされる。根拠のない誹謗中傷が人間を蝕むウィルスとなりケンを取り巻く。
『赤毛が何よりの証拠よ』『牧師が迫ったのかな』『母親が惑わせたのよ』『嫌だわ。汚らわしい。村から出て行ってほしいわ』
 北から吹く風が枯葉の薫りを運ぶ季節になると、村の広場に一人で佇むケンを見かけるようになった。
 村を一望できる丘に太陽が沈もうとした時、夕陽≪せきよう≫の閃光≪せんこう≫から人影が浮かび上がる。目を凝らすナミの瞳に映ったのは、無表情でナミを見つめるケンの姿だった。ナミは反射的に目を背ける。一瞬の行為が後悔と罪悪感を呼び、ナミは目線を上げる。
 ケンの姿はすでになく、丘から見えたのは赤く染まる村の景色だけだった。やがて、紫色の幕が下りてくる。ナミが正気に戻った時には、漆黒の闇が村を覆っていた。
 翌日、ケンが村を去ったことをナミは知る。
  ☆
 ナミがシティで働くようになって三年の歳月が過ぎていた。
 一日の取引を終えたナミは、仕事で使用しているアカウントを閉じた。
 誰かに逢いたくて窓の外を覗くと、オレンジ色の大きな太陽が揺らめいている。そんな日は陽が沈む前から、繁華街でバー巡りをするのがナミの日課だ。
 ネオンの灯かりが点り始めた頃、雨粒がシティのアスファルトを黒く染める。
 繁華街の路地裏でバーの看板の淡い灯かりが浮かび上がる。
 ナミはバーの扉に手をかけて開く。ナミは作り笑顔の仮面をつけながら、お道化た仕草でバーの店内を覗いた。
「一人ですけど、いいですか」
「どうぞ」
 バーのマスターがナミをカウンターの奥の席へと案内する。
「マスター、ホワイトレディを頂けますか」
 カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
 シェーキングの音が店内に鳴り響き、グラスにカクテルが注がれる。
 カクテルグラスを手に取り、ナミがつぶやく。
「私ね。五年前に初めてホワイトレディを飲んだんですけど、アルコールが強くて、飲めなかったの。でもね。その時一緒にいた彼が勧めてくれた二杯目のホワイトレデイは滑らかな口当たりで、上品な香りがして凄く美味しかったの。あのカクテルは何だったのかしら」
 黙って聞いていたバーテンダーが微笑みながら答えた。
「きっと、それは百年以上前にハリーマッケンホーンという人物が作ったリキュールベースのホワイトレディでしょう。現在、ホワイトレディといえばジンを使用するのがスタンダードなんです。リキュールベースのホワイトレディは幻のカクテルになってしまったんですよ」
「えぇっ。そうなのぉ。それだわ。そのカクテルって作れるのぉ」
 子供のように、はしゃぐナミの声はゴムボールみたいに弾んだ。
「えぇ。作れますよ」
「飲みたいっ」
 ジィッジィッ、ジュッツッー。
 通信回線が切断された。バーの空間が消滅し、ナミのアバターも崩壊してゆく。
 ナミのパソコンの画面が消えた。漆黒の画面の奥に反射して映るナミの姿は、予告なく置き去りにされた子供みたいに途方に暮れていた。
  ☆
 三年前。世界中に未知のウィルスが蔓延した。パンデミック下での政府方針に、市民は従わざる得なかった。人間同士の接触は違法行為となり、仕事のみならず、私生活もコンピューター上のシティと呼ばれる仮想空間で営まれている。
 目に見えないウィルスに人類は恐怖し、超人的な権限を政府に委ねる。政府の規制は、思考停止した市民をコントロールする。身体的接触に結び付く言動は遮断される。
 人類は人肌に触れることも、隣人の息遣いを感じることもできなくなった。
 目に見えるものの価値観が崩れ去り、市民は突然の不幸によって、今までの日常が幸せだったことを思い知る。やがて、仮想空間が日常化してくると、多くの市民がシティでの生活に適応したと思われていた。シティでは、世界中の人間が同じ言語で会話をし、肌の色などの外見で差別されることはない。シティでの生活が当たり前となった今では、為替変動による地域格差という現象も遠い昔話となった。
 均一化された平穏なはずの世界で、ナミが思い出すのは五年前の光景だった。
  ☆
 幻のカクテルの存在を知ったナミは、処罰されることを覚悟して、闇酒場に出かける決心をした。
 コンピューターを使った検索では見つけられない。現実世界の外出には許可が必要だ。制限時間は二時間に限られている。
 かつての繁華街でナミが見たのは、廃墟となった商店街を徘徊する野良犬だけだった。
 ナミは酒屋を張り込みすることにした。酒屋の配送トラックが住居以外の所に出入りしていたら、そこに闇酒場があるに違いない。
 張り込み三日目の事だった。酒屋の配送トラックは住宅街を抜け、幹線道路を南に向かった。トラックは街の外に出るとスピードを上げた。一時間が経過する。ここで引き返さなければ、ナミは外出許可違反で逮捕される。しかし、ナミには後戻りすることはできなかった。
 市外の街道を二時間ほど走り続けると、海岸線と並走する湾岸道路になる。トラックとナミの運転する車に反射した太陽kの光が水平線の波間で煌めく。
 浜辺に建つ小屋の前で輸送トラックが停まった。トラックの運転手が積み荷を降ろしている様子をナミは遠くからうかがっている。
 大きなオレンジ色の太陽が水平線の彼方に沈もうとしている。赤く煌めく波間をナミは眺めていた。
 あの小屋の扉を開くことで、過去の景色を変えられるかも知れない。そう思うと、五年前と同じ太陽が、今のナミには違って見えてくる。
 日が暮れるのを待って、ナミは月明りを頼りに浜辺に建つ小屋へと向かった。
 ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、ズゥワァーバァ、、、。
 浜辺を歩くナミの耳に届くのは、波の音だけだ。
 民家の灯かりが一つもないこの地域は無政府地帯と呼ばれる禁足地だ。小屋の中に、どんな危険があるか予想できない。
 民家なのか、倉庫なのか、闇酒場なのかナミには見分けがつかない。引き返すことのできないナミは覚悟を決めて、小屋の扉を開く。
 カァラァッ、コッロァッ。
 静かだった。薄暗い室内にオレンジ色のランプが点っている。少し湿気のある古木の薫りがナミの鼻を刺激する。
 長いカウンターの中に彼が立っていた。
「やぁ。注文は、例の二杯目のホワイトレディでいいのかな」
 そういいながら彼は、白い歯を見せて笑った。無表情の仮面ではない現実世界のナミは、満面の笑みで目を細める。
 小屋の窓から波の音が聞こえてきた。南から吹く潮風がナミの頬を撫でる。 

Bottld‐No.2
  『走馬灯』
 今、どう生きるかで未来が変化します。そして、今をどう受け止めるかで過去の景色も変わってくるのです。

『最後はバーに行け』という言葉があります。
 まぁ一杯、酒でも飲もうじゃありませんか。

 今夜は来るはずのない人が約束のバーに現れるお話です。
 男が最後に望んだのは、日常の光景だったのかも知れません。
  ☆
「お父さん、これっ。誕生日プレゼントよ」
「誕生日だってぇ。やめてくれっ」
 父親を元気づけようとする娘の気遣いは、ケンの傷を癒せなかった。
「亡くなった母さんが一番に願っているのは、お父さんの笑顔なのよ。元気出してよ。これっ。今、流行りのドコデモアイ。お父さん、野球が好きでしょう。もうチケット買ってあるから。このドコデモアイをつけてみてよ」
 娘がフルフェイスのヘルメット型をしたドコデモアイを父親に被せる。
「おいおい、なんだよ」
「いいからっ。もう直ぐヤンキーススタジアムでプレイボールの時間よ。楽しんできて」
 娘がドコデモアイのスイッチを入れると、赤いランプが点滅を始める。
  ☆
 ズゥヴァッ。
「ストラァィークゥ」
 ケンはヤンキーススタジアムの観戦席にいた。
 ドコデモアイはケンの脳神経を刺激しているのだろうか。ニューヨークの乾いた風がケンの肌にまとわりつく。外国人でいっぱいのスタジアムには異国の薫りが漂っている。
 ウォッー。
 大歓声の中でケンは、本場大リーグのゲーム観戦に没頭してゆく。
 ズゥヴァッ。
「ストラァィークゥ。バッタァーアウトッ。ゲームセット」
  ☆
「ふざけるなぁ。あれがストライクかよぉ」
 応援していたチームのバッターが見逃しの三振でアウトになったことに腹を立てたケンはドコデモアイを取り払い、文句を言った。ケンの娘は元気な様子の父親を微笑ましく見ている。
「まったく、インチキ審判めっ」
 不機嫌に文句を言い続ける父親に娘が答えた。
「そんなに納得がいかないのなら、審判目線でリプレイしてみればいいじゃない」
「そんなことが出来るのか」
「追加料金を支払えば、どんな目線でもリプレイできるわよ」
「それは凄い。頼むよ」
  ☆
 ズゥヴァッ。
「ストラァィークゥ。バッタァーアウトッ。ゲームセット」
 ケンには大リーガーの球筋を見極めることは出来なかった。しかし、僅か一メートルの距離で悔しがるバッターの顔は見て取れた。
  ☆
 気落ちした父親に娘が質問する。
「お父さん、行ってみたい所はあるぅ。このドコデモアイで何処にでも行けるのよ」
 そう言って娘はドコデモアイを指さした。
「何処でもって、さっきの球場みたいに過去にも行けるのか」
 不思議そうに訊く父親に娘が答えた。
「そうねぇ。世界中の一メートル毎に配置されたカメラの範囲なら過去の体験が出来る筈よ」
 しばらく黙り込んだ後、ケンは娘に答えた。
「五年前の私の誕生日の日。シックスブックシティの交差点に行きたい」
 青ざめた顔をして娘が叫ぶ。
「ヤメテェヨ。過去は変えられないのよ。母さんが殺される場面を見るなんて正気の沙汰じゃないわ」

 五年前。ケンの誕生日は妻の命日になった。
  ☆
 煌びやかなネオン街を行き交う笑顔の中で、妻のナミは首をかしげながら夫のケンに訊ねた。
「ねぇ、私の事、愛してるぅ」
 結婚して二十年以上になるが、ケンは『愛してる』という言葉を口にしたことはない。
 その時だった。苦笑いするケンの耳に悲鳴が聞こえてきた。
『イッヤァー』『ウゥワァー』叫び声と共に十数人の男女が駆けてくる。刃物を振り回す男が見えた時には、妻のナミは血に染まるアスファルトで倒れていた。
  ☆
「ヤメテェヨ。過去は変えられないのよ。母さんが殺される場面を見るなんて正気の沙汰じゃないわ」
 父親の手からドコデモアイを取り上げて、娘は父親へのプレゼントを持って帰ってしまった。

 ケンには、どうしても行ってみたい場所があった。
 五年前に妻と行くはずだったバーがある。そこはケンがナミにプロポーズした店だ。最愛の人と一緒に行くことは叶わなかったが、せめて想い出のバーで、ケンは妻への気持ちを伝えたいと考えていたのだ。
 それが末期癌で余命宣告をされたケンの唯一の望みだった。

 一年後。ドコデモアイの赤いランプが走馬灯のように点滅する。ドコデモアイを装着したケンの意識は、想い出のバーのカウンターにあった。
  ☆
 ケンはグラスに注がれたカクテルを見詰めながら独り言のようにバーテンダーに語りだした。
「私はね、このXYZというカクテルが好きでね。ネーミングもイイでしょう。最後の一杯は後悔したくないから、必ずXYZを飲むって決めているんですよ」
 聞いているのかは分からないがバーテンダーは黙々とグラスを磨いている。
 ケンは妻への想いを口にする。
「私はね、身勝手な男だ。今となっては妻が何を考えていたのかも思いつかない。それだけ妻と向き合ってこなかったという事なんだね。仕事が一段落して、これから妻との時間を増やしていこうとした矢先に、まさか。あんな事になるなんて」
 ケンは目を伏せて顔を歪める。
 カァラァッ、コッロァッ。
 バーの扉が開くと店内の空気が揺れ、一人の女性が入店してきた。
「まっまさかぁ。ナミぃ。ナミなのかぁ」
 ケンが呆然とするのも無理がない。目の前に現れたのは亡くなったはずの妻だった。
 ナミは生きているのが当たり前のように笑顔でケンの隣に腰を下ろした。
「あなた、遅くなってしまって、ごめんなさい」
「なっ何でぇ。ナミぃ。おまえぇ」
 言葉を失うケンの手を握り、ナミは笑顔で答えた。
「ワタシは感謝しているのよ。あなたは毎日、ワタシと一緒に生きてくれた。なんなら再婚してくれても良かったのにね。また、こうしてワタシの所に帰ってきてくれたんだし、これからは永遠に一緒よ」
「えっ」
 ケンの目には、ナミの姿が若返っていくように見えた。二人が出逢った頃のようにナミの肌は透き通っていく。
 ケンの心は穏やかだった。ケンには、今という瞬間が永遠に感じていた。
 ナミがバーテンダーにカクテルを注文する。
「ワタシにもXYZを頂けるかしら。出来れば少し辛口に作ってほしいわ」
 そう言ってナミはケンを見て微笑んだ。
「XYZ。最後の晩餐にふさわしい酒だな」
 寂しそうに呟くケンに、ナミは笑いながら答えた。
「良い事を教えてあげましょうか。数学の世界ではね、ABCが既知数でしょう。XYZは未知数なのよ。つまり無限の可能性があるってことよ。ワタシ達にピッタリでしょう」
 カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。
 シェーキングの音色が讃美歌のように鳴り響き、永遠を約束する美酒がグラスに注がれる。
 光り輝く聖杯を飲み干したケンとナミは安堵の表情で目を閉じる。
  ☆

 ドコデモアイの赤いランプが消えてゆく。「ご臨終です」
「お父さーん」
 医師の死亡宣告に娘は泣き崩れる。
 病室を出ていく医師と入れ替わりで葬儀社の男が入室し、娘に声をかけた。
「お嬢様、ご愁傷さまです。きっと仏様は最新のドコデモアイの御蔭で永遠の幸福感に満ちているはずです。何しろ、最新のドコデモアイには、人生最高の幸せな瞬間を演出するオプションの装置が備わっているのですから」

Bottld‐No.3
  『セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ』
 あなたには心置きなく一時≪ひととき≫を過ごすことのできる行きつけのバーがあるだろうか。
 一言でバーと言っても様々な形態がある。ビリヤードのできるプールバーやダーツバー、カラオケバーなどはアミューズメントバーと呼ぶことができるかも知れない。
 いわゆる飲食だけで営業しているカウンターバーでも、襟を正さなくてはならない非日常的な世界を保っているバーもあれば、気軽なティーシャツ姿で日常的に訪れる生活に密着したバーもある。
 いずれにしても大切なのは偶々≪たまたま≫同じ時間、同じ空間を共有した他の客に不快な思いをさせないことを心掛けなければいけない。
 哀しい想いの人、歓喜の気持ちを伝えたい人、バーは千差万別な客が訪れるパブリックな場所だ。それだけに自分の意にそぐわない事も起きるだろう。大切なルールとして、他の客の酒の席に立ち入りすぎないことだ。
 そして、洒落た飲み手になりたければ妬み、嫉み、愚痴や悪口は控え、美しい立ち振る舞いを演じることに努めよう。例えば悪気はなくても、こんなことを口にする客がいる。
『僕はバーボンよりスコッチのほうが好きだな。バーボンは単調な味だよね。特に、あの銘柄は味が落ちたよ』
 その時、その場所に居合わせた他の客が、ある想い入れなどをもって大切に飲んでいるのが、その銘柄のバーボンだったらどうるのだ。そんな事があってはならない。こうした場面は、無粋なグルコンやスノッブと呼ばれる連中にありがちな言動によるものだ。
 そんな連中は『この料理はこうだ』『この飲み物は、こうあるべきだ』という固定観念に囚われている。
 『美食術』という言葉を聞いたことがあるだろうか。それを身につけると本当の意味で人生を楽しむことができる。一食数十万円のコース料理よりも、一食数百円の屋台の料理を楽しむ方法をあなたも知るべきだ。
 もう気づいた人はお分かりだろう。レストランやバーは食べる所、飲む所ではなく、過ごす所なのです。その場所に居合わせた人との距離感を楽しみ、時間を共有するのです。人生を楽しんでいる人は、味だけには拘らないのだ。
 もし、奨められた料理が、あなたにとって酸味が強すぎたとしよう。いきなりシャットダウンしてダメだしするのではなく、こんなことを試してみよう。
『んー。私には酸味が強いので、この料理に合う甘めの飲み物を頂けるかしら』すると、『うん。このマリアージュだと甘酸っぱくていいわ』となる。
 その場の空気が和み、あなたは人格者と認識されるだろう。上流階級の貴婦人にも勝る存在にあなたはなるのだ。
 おやっ。今宵、あるバーに無粋な男と想い出に浸る男がやってきたようだ。
 ちょっと覗いてみようじゃないか。
  ☆
 いつものバーのカウンターで私を待っていたのは、気は良いのだが無粋な男だった。もう二十年来の腐れ縁だ。
 たまに顔を合わせることはあるが酒の飲み方は全くあわない。
「私はサイドカーを」
「サイドカーか。いいね、シェークの基本的で最高のカクテルだ。お前さん、ミカドっていうのは知っているかい。テネシーワルツは。ジン&シンはどうだ」
 無粋な男がバーボンを一気にあおると言った。私は静かにカクテルグラスをカウンターに置くと返した。
「さあ、飲んだ事はないな。カクテルブックを開けば作り方は解るだろう」
「俺は味を知っている。色もだ。そういえば、この前、飲んだメイドンフラッシュっていう奴も良かったな。お前さんは、どれだけのカクテルを知っているんだい」
「さぁね、今朝、食べた朝食のメニューも覚えていないのに、そんな事、考えたことないな。それより今は夕べ飲んだ酒代の支払いの事で頭が痛いよ。しかし、あんたは変わらないな」
「何がだい」
「人間が肉眼で見える星の数が千。通常、世界で使われているカクテルが五千と言われているそうだ。新旧交替して消えていったカクテル、新しいカクテルも含めると無限の数だ。星の数以上のカクテルたち。知らない物の方が多いさ」
「俺は探究心が旺盛なんだ。お前さんが百のカクテルを知っているとしたら、俺は二百以上、三百近いかな」
「それは凄いな。ベテランのプロバーテンダー並だ」
「実は転職も考えているんだ」
「それは勧めないな。カクテルの処方なんてものは解らなければ、カクテルブックを見ればいい。それをうまく造るコツを心得ているのがプロなのさ。しかも、バーテンダーの仕事は時には、酔っ払いの相手もしなくちゃいけない。あんたは客に飲ますより、自分で呑んでいる方が良さそうだ。私は、このまま無責任な客でいいよ」
二人の会話を聞いているのかどうか、バーテンダーは苦笑いとも何ともつかぬ笑みを浮かべながら、黙々とグラスを磨いていた。
 私は二杯目の酒にメーカーズマークのオンザロックを注文し、ソーダ水のチェイサーを頼んだ後、無粋な男に向かって話を続けた。
「自分の知っているカクテルの数を自慢するのは、昔、あんたが酒の味なんて関係なく、呑んだ量を自慢していたのと、変わらない事さ。スノップ気分になり、超ドライのマティー二を通のふりして飲むのと、よく似ているよ」
「なるほどな。しかし、美味しい物を追求し、出会った時の嬉しさが好きなんだ」
 無粋な男は、以前、飲んだ店にいた若いバーテンダーを酒の肴にして話しを続けた。
「あんな若い坊やに俺の酒を注いでほしくないね。あの坊やが、どんなに酒の知識を持っていても、人生の諸々を背負って酒と過ごしてきた俺の方が酸いも甘いも知り尽くしている。商売抜きで俺は酒を愛しているんだ」
 無粋な男は今どき流行りもしないバンカラ口調でまくし立て、酒をあおった。つい、私は名も知らない若いバーテンダーの肩を持って反論した。
「酒との付き合いの長さは短いかも知れないが、あんたが株の上がり下がりを気にしている間や得意先の機嫌をとっている時も上司の小言を聞いている時間にも、あのバーテンダーは一杯のギムレットの事しか頭になく、悩み、考えて生きてきたんだ。若いだの歳を喰っているだの関係ない。プロとアマの差はココにある。あのバーテンダーは、ここ数年、酒に命を預けているんだ。カウンターの中の人間と外の人間とは酒の付き合い方が違うんだよ」
 勢い余った私は、余計な事を口走ってしまい後悔する事となる。
「あんたは過去の抱いた女の数しか覚えていないが、私は、あの娘が箸を上手に使い焼き魚を食べる姿を知っているだよ」
゛しまった゛
「おいおい、何の話かと思ったら、まさか佳美の事かよ。今更、恨み言かい」
 口に出してしまった言葉を元に飲み込む事は出来なかった。私は黙ってメーカーズマークのオンザロックを飲み、自分を取り戻そうとした。
 焼き魚を上手に食べる女性は、今は田舎で子育てに忙しいと風の噂で聞いた。
 何十年たっても時流に流される事なく止まったままなのは、この店の風景と私の人生だけかもしれないと感じていた。
 無粋な男は、ひときしり言いたい事だけを喋って、先に帰った。奴が何を喋っていたかは覚えていない。
 私はカウンター席で一人になり、ようやく訪れた解放感に浸って、しみじみと一杯のメーカーズマークのオンザロックを味わった。
 この店のバーのマスターに目をやると、確かに歳をとっていた。
 私が初めて逢った時より白髪は増え、いつの間にか老眼鏡をかけている。何となく、シェーキングの音色も軽ろやかになったような気がする。

 静かに流れる時の中に身を任せ、私はタンカレージンとワイルドターキーを合わせた一杯の酒をゆっくりと飲んだ。
 店内のBGMはフランク・シナトラの『セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ』だった。
 店を出ると白秋の風が通り過ぎた。

Bottld‐No.4
『時代遅れのバーの片隅で』
「野暮だねぇ~」
 カウンターの奥の席で妙齢の男性客が、あきらめにも似た口調で、グラス片手につぶやいた。
 先程まで店内にいたアベックの事だろうか。嵐のようにドカッドカッと現れたかと思うと、バタッバタッと去っていった。
 アベックの若い男はヘベレケの口調で叫んだ。「彼女にアレを。例の。強いの飲ませて」男が注文したのは酒を飲み始めたばかりの若者がバカ騒ぎをしながら飲む物らしい。
 数年前に私が海外のバーで酒を飲んでいる時も若いアメリカ人の旅行客が大騒ぎをしながら、そのカクテルを飲んでいた。
 カウンターのバーマンに『あれは何か』と訊ねたら『クレイジーな飲み物だ。お前は、やめておけ』と忠告されたのがその飲み物だ。
 アベックの男性は相手の都合も気持ちも関係なく、一杯を飲むか飲まないかという間に女性を連れて退店していった。
 突然の来客に、その場の空気を奪われてしまった。

 バーの時間が元に戻り、心地よいリズムで再び動き始めた頃に、妙齢の男性客がつぶやき始めた。
「野暮だね~」
 妙齢の男性客が続けて言った。
「だいたい女を酒で酔わせようって魂胆が頂けないね。女に袖にされたって構わないから、その場の空気を乱さずに粋に振る舞わなきゃ。粋な飲み手がいなくなったねぇ」
 もう、遠い昔話になってしまったが、粋な飲み手が粋に遊んでいた時代があった。
 店の周年パーティーでは御祝儀をそっと置いていったり、店の従業員に手み上げを差し入れたり、さりげなく従業員に御年玉をあげたりして、店主が御礼をするという光景はよく見かけたものだ。ポチ袋を常に持ち歩いている粋な呑み助が行きつけの店で遊んでいた。
『男は一軒、行きつけの店を持っていなきゃ恥ずかしい』と言われていた時代の話だ。
 あの頃の彼ら呑み助は、店をこよなく愛して大事にし、気を使っていた。
 店の中での立ち振る舞いも御洒落でスマートだった。ズカズカと他人の世界に深入りをしない。隣の席の御客とは軽い会釈する程度の間合いが心地好かった。
 人の頭越しに無神経に話をしたり、割って入るような無粋はしない。
 例えば、ありきたりの世間話で天気の話になったとしても直接、客同士が会話することはない。あくまで客はバーテンダーに話しかけるので、客同士の距離感は保たれるのだ。
 気を付けなくてはいけないのは、常連客になり慣れてくると、他の店ではしない甘えが気づかずに出てしまう。気を許している証拠なのだが、親しくなり過ぎない方がイイ事も多々ある。
 いつから野暮な振る舞いが多くなったのか。自分の価値観で物を語れず、世間が決めた銭勘定だけでしか価値を見出せない事に、本人は気づきもせずに語ったふりをする連中が増えた気がする。
 寿司屋で他所の寿司屋の話を平気でしたり、同じカウンターで誰が何をどんな想いで飲んでいるかも知らずに、酒の値踏みを語る連中。安酒だの高価だの味がどうだのと、目に見える世間の価値感に左右される連中が多い。
 酒なんてものは嗜好品だ。其々の人の思い入れがある。其々の人が自分の人生を飲んでいるんだ。他人が土足で値踏みするものではない。
 マナーは忘れ去られ、ルールに縛られた世界になった昨今。優しさがなくなった時に、ルールで人が死んで行く事さえある。そんな時代になってしまった。

 近頃では、この街でも大手のチェーン店が増え、個人店が少なくなった。
 安心と引き換えに夜の文化的な香りも消えていった。

 私はネオンが煌めく街の景色から扉一枚隔てた、このバーの店内でグラス片手に物思いにふけっていた。
 二十世紀から二十一世紀にかけて、この街は大きく変貌した。
 二十世紀のこの街の景色は、喧騒とした夜の世界が煌びやかに(うごめ)き、太陽が昇った後の日曜日の午前中には人間はおろか猫一匹、歩く事もなく、眠りについた街の風景が広がっていた。
 アンタッチャブルのように街に巣喰っていたカオスの影たち。
 違法カジノやドラックで浮かれていた連中の店は、次第に消えていったかのようにみえる。
 かつて、街の誰もが知っていたタブーは遠い昔話となった。
 この治安が良いと言われている街中で、防弾チョッキを身にまとった店主や目を銃弾で撃ち抜かれた店長がいたなんて話は、二十一世紀になって、この街に来た人々には御伽噺(おとぎばなし)程度にしか感じないのだろう。
 今やこの街には開放的な風が吹き、縛られる事のない若者達は、自分達だけの世界を謳歌して街中を闊歩する。
 日曜日の昼間には家族連れが訪れる街となった。
 カオスは消え、陽の光に照らされた街に陰影はなくなった。
 そんな時代に流されて、消えていったものも沢山ある。
 あのヘタクソな似顔絵描きの流しの酔っぱらい爺さんは何処にいったのだろうか。
 ライブハウスにギターの(ゲン)だけを売って生計を立てていたオッサンは何処にいったのだろうか。
 
 そこそこに酔いが廻ってきた頃に雨の音が止んだ。激しい雨は夜中まで降り続いたようだ。雨上がりの早朝は街中が生まれ変ったかのように澄んでいた。
 日曜日の早朝、交差点を抜け、カトリックの教会を過ぎると人影もなくなる。
 神社の付近には霧が立ち込めていた。鎮守の森の息吹が充満し、物の(もののけ)の気配を近頃の人でも感じ取れるのだろうか。さっきまで街中で大騒ぎをしていた人々も物静かに帰路についていった。

Bottld‐No.5
『バックバー』
 ラヂオから流れるマルウォルドロンの調べに乗って外の雨音が語りかけてくるのは、もう二十年も昔の感触だった。
 あの頃の懐かしい曲を口遊むが、歌詞が思い出せない。
 もう使う事のなくなったジッポライターを手にとってもオイルの香りがする事はなかった。
 通り過ぎていったシーンが途切れ途切れにグラスの中で氷と溶けていく。

 私がバーを開店したのは二十年前になる。
 バーの酒棚には、それぞれ店の個性がでる。
 バーの酒棚には物語りがある。
 
 酒の品揃えを考える時にバーテンダーの特性がでるものだ。
 御客様からの注文を想定して、どうやって対応するかを考える。
 だが、それだけではない。
 どうしても一つの想い入れを持って、残しておく酒が、どのバーにも、どのバーテンダー達にもある。

 バーが開店した当初に、よく二人で来店していた御客様が最後の一杯に決まって飲む酒があった。

 今から二十年前。
 開店したばかりのバー。
 誰も居ない店内。
 ターンテーブルのレコードに針を落とす。
 マルウォルドロンのピアノの音色が季節と一緒に通り過ぎていく。
 キャンドルの灯かりが揺れバーの扉が開いた。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。
 扉が開き雨音の混じった車の音が飛び込んでくる。
 入口には痩せ型で長身の男性客と化粧っ気のない細面で黒髪の女性客が立っていた。
 二人はカウンターのスツールに座ると男性客が二杯のカクテルを注文した。
「ジンリッキーを一杯ずつください」
 私はライム入りのグラスに氷を入れ、ジンを注ぎ、炭酸水の瓶を開けて注ぐ。
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。
「お待たせしました」
 二人の前に置かれたグラスの中で、泡が暖色の灯かりに煌めき弾けている。
「美味しい」
 飾りっ気のない笑顔で女性客が言った。男性客は優しく微笑み煙草に火を点けた。
 カチャッ。ジュッ。ボッワァ。カチィ。
 ジッポのライターから漏れるオイルの香りが紫煙に溶けてゆく。 
 多くを語る事なく、二人の間には、ゆっくりとした時間が流れていた。

 外の雨音が止んだ頃だった。
 男性客がウイスキーを二杯注文した。
「マスター、最後にウイスキーのロックを一杯ずつください」
 私は二人の目の前に置かれたロックグラスにウイスキーを注いだ。
 ドウクゥッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。カラッ。
 グラスの中で氷の音色が二人の笑顔を誘う。
「わぁ、綺麗なボトル」
「このウイスキー会社の創業者がプロポーズした時に奥様が承諾の返事として胸につけていた花をラベルにしたそうですよ」
 私は笑顔が印象的な女性客にウイスキーの説明をした。
「へぇー。美味しいっ」
 はにかみながら嬉しそうにウイスキーを飲む女性客と優しい眼差しの男性客だった。

「ありがとう。また来ます」
 そう言ってバーを出ていった二人は毎週、決まった時間に来店するようになり、最後には決まって、このウイスキーを飲んだ。
 このウイスキーを飲む習慣は二人が夫婦になった後も変わらなかった。

 二人が来店しなくなって久しい今から六年前の事だ。
 あの女性客が亡くなったと人づてに聞いた。
 癌だった。

 随分と月日が経った雨の日。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザッァ―。
 扉が開く音がして、雨音と共にあの男性客が訪れた。
 静かにカウンターのスツールに腰掛けると男性客はカクテルをオーダーした。
「ギムレットをください」
 カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カッ。カァッ、カァッ、カァッ、カァラァ。   
 静かな店内にシェーキングの音が木魂(こだま)する。私はアンティーク調のグラスに少しほろ苦いカクテルを注いだ。

 私はレコードに針を落とす。ジャッキーマクリーンのアルトサックスがマルウォルドロンのピアノに悲しげに話しかける。
 男性客はゆっくりと一杯のカクテルを味わい、席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。あっ、御忘れ物です」
「すみません。もう使わないので捨ててください」
 役目を終えたジッポのライターがカウンターに残されていた。

 外の雨音が彼に語りかけてくるのは、どんな声だったのだろう。

 その後、男性客は年に一度、来店するのだがあのウイスキーを飲む事はない。
 しかし、彼にとっては、あのウイスキーがバーにあるのは疑う余地のない当然の事だ。
 いつか彼が、あのウイスキーを飲みたいと想った時に提供出来る日が来る事を私は知っている。
 だから私のバーの酒棚には、あのウイスキーが今もある。

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  •  第一章 『アドニス』

  • 第1話
  • 注釈・参照

  • 第2話
  •  第二章 『ペイフォワード』

  • 第3話
  •  第三章 『アムール』

  • 第4話
  • 追記。 『おわりに』

  • 第5話
  • 付録・バーのショートショートストーリー五選『今宵、バーの片隅で』

  • 第6話
  • 質問『お客様との会話で印象的だったことはありますか?』

  • 第7話
  • 質問『日本のバーについて思う事はありますか?』

  • 第8話
  • 質問『是非、行ってほしいバーとは、どんなバーですか?』

  • 第9話
  • 質問『日本のバーは、どのように発展していくでしょうか?』

  • 第10話
  • 質問『バーで飲む為の嗜み方はありますか?』

  • 第11話
  • 質問『バーとは、どんな場所ですか?』

  • 第12話
  • 質問『印象深いバーやバーテンダーの方はいらっしゃいますか?』

  • 第13話
  • 質問『最近、マニアックな専門店のバーがありますが、どのように考えていますか?』

  • 第14話
  • 質問『出入り禁止になる人って、本当にいるんですか?』

  • 第15話
  • 文中の一部を抜粋

  • 第16話

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