第16話

文字数 5,198文字

 私は最近知ったのですが、『バンブーは一八八六年には既にニューヨークの酒場で流行していた』という内容の米国の新聞記事があるそうです。バー経営をしながらエッセイを執筆されている荒川英二氏によると、『ドライベルモットが多く流通しだすのは一九一〇年以降。一九〇〇年刊行のカクテルブックでバンブーはスイートベルモットを使用している』という内容の記事があります。更に『当時のカクテルブックでは、アドニスのスイートベルモットの割合をドライめに作ったのがバンブーの処方』という内容の記事があります。そして『一九〇八年のカクテルブックにはバンブーはルイス・エッピンガー氏の考案と記載があり、一九二〇年頃にはスイートベルモットとドライベルモットを使用するバンブーが混在していた』という記事があります。ちなみに私が所有するサヴォイホテルのカクテルブックでバンブーは、ドライベルモットとスイートベルモットの両方を使用しています。つまり、一八八〇年代には既に米国でバンブーというカクテルは存在していて、一八九〇年頃に来日した横浜グランドホテルの支配人ルイス・エッピンガー氏が日本でドライベルモットを使用して世界的に有名になったという事なのでしょう。
 私が初めてバンブーを飲んだ時に、予備知識がなくても竹と日本のイメージにピッタリだと思いました。しかし、スイートベルモットを使用したドライめのアドニス。つまり昔の処方の赤い色のバンブーを飲んでも全く竹のイメージが湧いてきません。余談ですが、一八七九年にエジソンは竹の素材で白熱電球の開発に成功したそうです。


~中略~

グローバル化していく世界の中で新自由主義の波に飲み込まれると、自分はどう生きるのかという道標を見失ってしまいがちです。ソーシャルネットワークに映し出される見知らぬ人の価値観に惑わされてしまうと、自分の存在が分からなくなり、幾ら金銭を稼いだかが人の価値だと勘違いしてしまいます。私が私らしく生きられたのは、バーという場所と一杯のカクテルの御蔭です。
 バー業界で三種の神器と言われていたものがありました。私が六本木の芋洗坂にバーを開店させた頃、葉巻、ワイン、フレッシュジュースがバー業界のトレンドでした。その当時、葉巻やワインの消費量増大に合わせて、輸入される種類も増えていきました。葉巻を保存するヒュミドールやウォークインのワインセラーを設置するバーが増えたのも、この時期です。その昔、バーにビールやワインは置かないという時代では考えられない事でした。日本のバーで提供される繊細な味のフルーツカクテルには数年前から定評があったのですが、二十一世紀に突入した頃から海外のニューウェイヴカクテルが飲食業界を席巻します。いかに美味しい果物のジュースをカクテルに活かすかが繁盛店の課題になっていました。その後、料理業界のエル・ブジが話題になると、カクテルの世界でもエスプーマなどの新しい手法が次々と導入されます。スモークガンや蒸溜器を使用するバーシーンが展開されていくのです。インスタ映えという言葉も進化するカクテルシーンを後押しします。現在はボタニカル、ネオクラッシック、ミクソロジストという言葉がバー業界のトレンドになっています。
 日本初のバーといわれているのは、桜田門外の変が起きた一八六〇年開業の横浜ホテルのバーです。製氷機が一般利用される以前なので今、私達がイメージするカクテルシーンとは異なります。新しい技術や文化の導入でカクテルは進化し続けているのです。例えば、ギムレットというカクテルは、ジンとライムをシェークするのですが、創作当初はシェークせずに作られていたと考えられています。今もサヴォイホテルのカクテルブックには、その頃の処方が記載されています。バーテンダー修業時代の私は、カクテルの逸話や古い処方の本を読み漁っていました。私の手元にパリのハリーズ・ニューヨーク・バーのカクテルブックがあります。そこには一九一九年のホワイトレディの処方が記載されています。現在の一般的なジンベースではなく、ホワイトミントリキュールベースのホワイトレディなのです。そのカクテルを飲みに私はパリを訪れました。その時、ハリーズー・ニューヨーク・バーのチーフバーテンダーをしていたのがムシュ・ロフォンです。彼のお気に入りのカクテルはムッシュ・ロフォンの特別処方で仕立てたアメリカ―ノです。元々、アメリカーノというカクテルは、一九〇〇年代の初期にイタリアで出来たカクテルです。意味合いはイタリアの亜米利加人といったところでしょうか。カンパリとイタリアンベルモット(スイートベルモット)を炭酸で割る物です。イタリアの酒だけを使用しています。 このアメリカーノというカクテルはその後、フランスで流行ったという事です。そして、彼のレシピはこうです。大きめのロックグラスに氷を入れ、 カンパリとチンザノ・ロッソを入れる。ノイリープラット・エクストラドライを少々多めに注ぎ、発泡水を少なめに入れる。オレンジのスライスとレモンピールを落とせば完成です。美味しいカクテルです。食前酒としても間違いない。フランスのお酒のノイリープラットを注ぐあたりが巴里っ子らしいのかも知れません。帰国した私は自分のバーで、そうした古い処方のカクテル作りに没頭しました。
 アナログ人間と言われている私のバーの店内には、ダイヤル式の黒電話やレコードプレイヤーが現役で動いています。自分の中では何一つ変わっていないと思っていたのですが気づくと私の頭髪は真っ白になり、新聞を読むときには老眼鏡をかけます。
 バーの扉を開くと、外の世界は著しく変化していました。イヤホンのコードがなくなると、街から商店街が消えていました。

~中略~

「そういえば百二十年ぶりに花が咲いた竹林があるんだってね」
 阿坂さんが突然、妙なことを口にしました。
「どういうことですか」
「竹って未だに解明されていない事が多いらしいんですけど、百二十年周期で花が咲いて、竹林全てが枯れた後に、生まれ変わる事があるんですよ」
「へぇー百二十年ですか。百年以上前の明治末期に銀座ではカフェブームが起きて、カクテルのファンも多かったみたいですよ。世界的にも、今よく知られているカクテルの多くが、その時期に誕生したと言われているんです」
「バンブーもそうなんですか」
「バンブーは百三十年以上前にあったらしいのですが、ルイス・エッピンガーの改良したレシピが百年前には世界中に知られていたらしいです」
「はっはぁー。それじゃ世界中のバーテンダーが百年以上前のルイス氏の遺伝子を引き継いでカクテルを作っているんですね」
「そうですね」
 なるほど。そういう言い方ができるかも知れません。阿坂さんの言う通りです。私達は先人の魂を引き継ぎ、自分自身の人生を投影しながら、次世代にバトンタッチしているんです。
「マスター、今日はありがとう。最後にお聞きしたいんですけどマスターが一番、尊敬しているバーテンダーの方って誰ですか」
「んー。綺麗ごとじゃなくて、全てのバーテンダーの方達だと本当に思います。みなさん、色々なことを抱えながら一所懸命にバーを守っているんですから」
「マスターらしいな。そういえば次の週末の花火大会は、いつもの場所に行くんですか」
「はい。また特等席で花火観賞をしながら一杯やります」
「そうですか。僕も行くので宜しくお願いします。楽しみだな」
 そう言って、阿坂さんは優しく微笑みながら頷くと、スマートフォンを手に取り、立ち上がりました。
 阿坂さんを見送り、私は自分のバーに向かいます。六本木の交差点では、西の空に太陽が輝いています。芋洗坂を下ると、急に薄暗くなり、夜が顔をのぞかせます。昔、この辺りは日ヶ窪と呼ばれていたそうです。
 そろそろバーの開店する時間です。きっと、いつもと何も変わらずに、そこにあると信じているから御客様はバーの扉を開くのでしょう。
 日に日に変化していく街並みを眺めながら、私は敬愛する全てのバーテンダー達に想いを馳せていました。
 日本のバー業界に多大な影響を与え、日本発信でバンブーカクテルを世界に広めたルイス・エッピンガー氏。ルイス・エッピンガー氏がいたグランドホテルで働いたのち、世界中にミリオンダラーを広めた浜田昌吾氏。チェリーブロッサムを創作し、日本人発案のカクテルを初めてサヴォイホテルのカクテルブックに登場させた田尾多三郎氏。数をあげればきりがありません。そして、今夜もバーカウンターで御客様を迎える準備をしている全てのバーテンダー達に敬意を伝えたいと思います。アディオス・アミーゴ。


  注釈

◎今から三十五年以上前に、私は浜田昌吾氏と仕事をしたことがあるという後藤新一氏(当時は日本バーテンダースクールの校長)を訪ねました。「日本に物がなかった時代は、パイン缶の残り汁をミリオンダラーに使ってたんだよ」そう言って当時の苦労話をしながら、分厚いカクテルブックを見せてくれました。そこには四種類ほどのミリオンダラーの処方が記載されていて、百数十年前にルイス・エッピンガー氏のシャンパンを使用したレシピも載っていました。高橋顧次郎氏と浜田昌吾氏がミリオンダラーを一般化したくて広める為に、シャンパンを除外した処方にしたという内容の記述もありました。大正十五年の新聞広告に『酒ならコクテール。コクテールならミリオンダラー。雑誌なら文芸春秋』という菊池寛のコピーが記載されるほどの人気カクテルになった背景を垣間見ることが出来ました。

◎今から三十五年ほど前。私が二十歳代の時に勤めていた赤坂のバーのお客様である小林氏と二人で、横浜のカクテルバーパリに行った時の事です。ティーシャツ姿で来店した私を当時、店主をしていた幸子氏にしっかりと叱られました。それでも幸子氏は、どうやって店を引き継いだかなど生い立ちを話してくれ、創業当時に提供していたカナディアンクラブベースのチェリーブロッサムを作ってくれました。現在、チェリーブロッサムはブランデーベースです。サヴォイホテルのカクテルブックに記載されたときには既にブランデーベースになっていました。尚、後にHP研究所発行の『「超入門」カクテル&バー講座』を執筆する際に作家の原田和子氏はカクテルバーパリへ取材に行ったそうです。チェリーブロッサムは桜の花というネーミングのわりに紅色が濃いと感じていた原田和子氏は『もしかしたら店の裏にあった八重桜をイメージしたのかも』と思ったそうです。

◎昭和六十一年一月二十五日、株式会社集英社発行の矢口純著作『ウイスキー賛歌』で紹介されている木下杢太郎の『詩集食後の唄』の作品の中で『小酒戔≪リケエルグラス≫』『酒舗≪バア≫』『彩色琥璃≪ステエンドグラス≫』という記載があります。新鮮な響きの表現は、洋酒がエキゾティシズムな世界へと当時の人達を誘≪いざな≫った現れなのでしょう。

◎昭和五十五年頃と思われる週刊新潮の切り抜き記事が私の手元にあります。その記事に安藤更生氏の『銀座細見』の一文が記載されています。そこには『独りこの店の人気を支えていたのは実にバーテンダー浜田がためであった』『彼の洋酒の知識、彼がシェーカーを摑むときの仕草、それは全く堂に入ったものである。彼が一杯のウイスキーを入れ、ひと匙のリキュールを投じるとき、それはきわめて科学的な大医の投薬を見るような心地がする』と記されています。伝説のバーテンダー浜田昌吾氏の人気は、当時も相当なものだったようです。

参照
『銀座細見』安藤更生著 春陽堂(復刻・中公文庫)

◎サンスーシー 昭和四年に東京都中央区銀座六丁目に開店し。店名は谷崎潤一郎氏が命名。交詢社ビル改築の後に閉店。
◎古川緑郎  昭和四年からサンスーシーで働き、昭和十二年にチーフに昇格。昭和二十三年に独立してクールを開店。
◎クール   昭和二十三年に東京都中央区銀座八丁目に開店。昭和四十六年に七丁目に移転。平成十五年に閉店。

 グラスの中のカクテルは自分自身を映し出しているのです。それぞれのバーテンダーが、それぞれの想いを込めて一杯のカクテルを作っているのです。


  『バーの世界に興味のある方たちに贈る言葉』
 令和五年が暮れようとしている日の夕刻、私は六本木にあるバーを訪ねました。そこで私は一九一九年の処方で作られたホワイトレディを飲ませて頂きました。マスターは若い時分に、本で知るだけだった百年以上前のホワイトレディを夢見て海を渡ったそうです。パリにある憧れのハリーズ・ニューヨーク・バーで飲んだカクテルの話を聞かせてくれました。
 消えゆくバーと、次の世代へ引き継がれるバーを結ぶ糸が、客である飲み手なのかも知れません。バーフライに乾杯‼



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  •  第一章 『アドニス』

  • 第1話
  • 注釈・参照

  • 第2話
  •  第二章 『ペイフォワード』

  • 第3話
  •  第三章 『アムール』

  • 第4話
  • 追記。 『おわりに』

  • 第5話
  • 付録・バーのショートショートストーリー五選『今宵、バーの片隅で』

  • 第6話
  • 質問『お客様との会話で印象的だったことはありますか?』

  • 第7話
  • 質問『日本のバーについて思う事はありますか?』

  • 第8話
  • 質問『是非、行ってほしいバーとは、どんなバーですか?』

  • 第9話
  • 質問『日本のバーは、どのように発展していくでしょうか?』

  • 第10話
  • 質問『バーで飲む為の嗜み方はありますか?』

  • 第11話
  • 質問『バーとは、どんな場所ですか?』

  • 第12話
  • 質問『印象深いバーやバーテンダーの方はいらっしゃいますか?』

  • 第13話
  • 質問『最近、マニアックな専門店のバーがありますが、どのように考えていますか?』

  • 第14話
  • 質問『出入り禁止になる人って、本当にいるんですか?』

  • 第15話
  • 文中の一部を抜粋

  • 第16話

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