寄す処(オリジナル版)

文字数 1,010文字

 昨年の秋ごろから、かなり難しい仕事をしていた。

 全く進まない進捗。どこまでも増える残業時間。蝕まれる神経。毟り取られる睡眠。生欠伸をしつつ、自宅と会社を往復する足取りも重たかった。


 師走の初旬ごろ。そういう辛い日々を送っていた私は、通勤の途上で興味深い光景を見かけた。歩道脇の小さな花壇。そこには、プレートで説明されている植物と、それとは別に高さ15センチ程の雑草が蔓延っていた。そんな冬でも元気に生い茂る、浅学な私は名も知らぬ雑草の合間に、一匹のクモが居るのだった。
 黄と黒の体色を持つそのクモ(恐らく、ナガコガネグモだと思われる)は、X字状に大きく開脚し、堂々とした体躯を巣の上に浮かべていた。クモがこういった場所に居ることはさほど珍しくない。が、今は十二月。巣に佇んでいたそのクモも、やはり寒風に曝されて震えているように見えた。通常、彼女達は大半が秋には卵を孵化させて、自身の生命を終えてしまう。故に、私はそのクモへ「頑張れよ」と、心中で応援しながら通り過ぎたのだった。

 時が経ち、師走の下旬。仕事はさらに厳しい状況になっていた。当然のように生じる休日の出勤。徹夜での業務も連日のように発生する。さらに間の悪いことに、年末年始の出勤も決まった。それだけの時間を費やしてもなお、終わりは一向に見えてこない。そんな過酷な日々の中、私は通勤時に数秒出会うだけのあのクモに、畏敬の念を抱くようになっていた。前述の通り、彼女達の命はせいぜいもって晩秋まで。クリスマス目前の今、生きているというだけで奇跡なのだ。
 私は、ともすれば折れかける心を「あのクモも頑張ってるんだ」という別の心の声で耐え忍んだ。そうすることで、かろうじて仕事の荒波を乗り越えていた。

 年が明けた。普段とは違う元旦の喧騒の中で、まだクモは生きている。だが足を一本失い、明らかに居住まいが弱々しい。すでに満身創痍と言ってよかった。

 仕事の方は、成人の日ごろから山を越え、一気に収束し始めた。それこそ一月の下旬には残業時間も減り、定時で帰れる日も出てきた。
 仕事が落ち着き始めたと思ったら、クモは巣ごとどこかへ消え失せていた。その時始めて私は、クモのおかげで今回の仕事を乗り越えられたことを悟った。限りある生命を目一杯生き抜くクモの姿。その姿に多大な力をもらっていたことに、やっと気付かされた。

 私は、あのクモに多大な感謝をしつつ、会社に退職願を提出した。
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