妻の素顔

文字数 1,010文字

 最近、妻がおかしい。

 自室からずっと出てこない。妻の部屋のドアは、内側からしっかり鍵がかけられたまま開かない。一応、ノックをすれば返事はするし、話そうと思えば話す事もできる。だが、「部屋から出てきてよ」と何度言っても、「後でね」と返ってくるだけで、絶対に部屋から出てこようとしないのだ。

 そんな日々が、もう二週間以上も続いている。

 もともと、引きこもりとまでは行かないが、一人でいるのが好きなタイプではあった。だが、今回は完全に度を越している。おそらく何かあったに違いない。

 妻を傷つけた覚えは全くない。だが妻とはいえ他人。どんな言葉で彼女が、心に傷を負っているかはわからない。それに、今までの小さな事が積もり積もった結果、こうなってしまった可能性だってある。私は、妻を傷つけたかもしれない言動をできる限り思い起こして、ドアを隔てた妻に謝り続けた。

「君と初めて出会ったのは、靴のかかとがマンホールの溝にはまって困っていた時だったよね。その時僕は、君を見て思わず笑っちゃったけど、それは困っている君がかわいかったからで、決して嘲笑ったわけじゃないんだ。それに、靴を取ってあげたら、こんなかわいい娘とお近づきになれるかもしれないって思ったら、自然と笑みがこぼれちゃったんだよ」

「つきあっている時に編んでくれたマフラー、失くしちゃったのも謝るよ。ちょっとした僕の不注意でさ。いきなり風に飛ばされちゃって、ものすごい速さで飛んでいっちゃって見えなくなったんだ。本当にごめんなさい」

「……別に、そういうんじゃないから。ほんと、大丈夫だから。一人にさせて」

 謝罪の言葉をどれだけたくさん重ねても、妻は顔を出してはくれない。

 すっかり困り果てた結果、他人を頼ろうと考えた。元引きこもりの人や引きこもりの子を持つお母さん、精神科医などに相談したり、良い方法を教わったり、実際に家に来て、ドア越しに妻と話をしてもらったりもした。それでも、妻が部屋から出てくることはなかった。

 こうなったら、最終手段をとるしかない。私は、大声で妻に「部屋に入るよ」と告げ、返事を待たず全体重をかけてドアにぶつかった。体当たりを数回繰り返し、勢いよくドアが開いた瞬間、ガラスの割れる音がした。

 部屋に妻は居なかった。ガラスの割れた窓から、大きくて足が長い白い鳥が飛び去っていく。

 部屋には、妻が再び編んだと思われるマフラーが、丁寧にたたまれて置かれていた。
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