サイレンと僕

文字数 1,010文字

 出張で、遠方の街に来ていた。

 取引先の担当との打ち合わせを終え、玄関を出た時の事。海に面し潮の香りがするこの街に、にわかに鳴動が響き渡った。驚きもつかの間、その音がただの工場のサイレンである事がわかって、僕は苦笑した。

 小さい頃はサイレンが怖かった。あの耳をつんざく音や、ドップラー効果が伝える物悲しい感じも嫌だったけれど、何よりも、あの音が聞こえるという事は、火事やケガで誰かがひどい目にあっている、その考えが僕を悩ませていた。だから、工場や野球場でもサイレンは鳴ると聞いた時、少しだけ気持ちが楽になったのを覚えている。サイレンが怖い事を、母にでも相談すべきだったかもしれない。でも、そんなのが怖いなんて、カッコ悪いし男らしくない、そんな固定観念が僕の口をつぐませた。かくして僕は、心中にサイレンへの恐怖を秘して、この世を渡っていく事になった。

 あれは、中学生の頃。僕は、一人の女子と下校していた。内気だったけど、とても仲が良い子だった。僕とその子は、土手に二人並んで腰を下ろした。風に揺れる草原、緩く流れる川、真っ青な空。それらに囲まれて、僕らはたわいもない話をした。
 ふいに、その子が「キスをしたい」と言ってきた。その子が、他の男子とは違う感情を僕に抱いている事は、なんとなくわかっていたけれど、こんな事を言い出すとは思いもよらなかった。それでも、少し紅くなった顔や、照れて眼を背けるしぐさが、かわいかった。僕はドキドキしながら、その子に顔を近づける。
 唇が触れる寸前だった。サイレンの喧騒が突如僕らを襲った。僕は平静を装おうとする。でも、体はわななき、額に汗がにじみ、抱き寄せた手が震え、鼓動がさっきより速くなる。もうこの場を逃げ出してしまおうか、そんな考えすら脳裏をよぎっていた。
 けれども、僕はそうしなかった。恐怖心よりも好奇心が勝っていた。そして、唇に生温かくて柔らかい感触。
 それ以来サイレンの音を、それほど怖いとは思わなくなった。

 大人になった今、もうサイレンの音に何も感じない。その子とのキスのせいか、火事やケガよりも、ある意味もっと苦しんでいる人の存在を知ってしまったせいか、多忙な現実に心がすり減らされて、感受性を失ってしまったせいか、それは僕にもわからない。


 わめき続けるサイレンの音に包まれながら、そんな事を思いかえしていた。やがて、サイレンは止み、静寂が蘇る。僕は無言でこの街を後にした。
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