2-15 凶報
文字数 3,428文字
潮風に乗って小気味良い笑い声が後部甲板の方から聞こえた。
「シャインったら酷い。私、そんな顔してないもん」
「いや。絶対今の君は怖い」
シャインは振り返った。舵輪がある後部甲板に上がる右側の階段に、ロワールが座ってこちらをながめていた。両肘をほっそりとした足の上について、掌で頬を包み込むようにした格好で。
目が合うと彼女は立ち上がり、とんと階段を軽く蹴って宙を漂うように近付いて来た。長い黄昏色の髪を軽やかになびかせ、シャインの隣へふわりと降り立つ。
「わざとじゃないわよ。確かに……睨んでたけど」
「やっぱり」
「だーかーらー、それはシャインへじゃないわ。思いっきりジャーヴィス副長に敵意を込めていたけどね」
シャインは眉をひそめた。
「敵意って、穏やかじゃないね。ジャーヴィス副長が君になにかやったのか?」
ふるふるとロワールが首を横に振った。
「悪い人じゃないんだけど、ちょっとね。あの人がいるから船内もきちんとしてるし、そこは認めてるの。ただ――彼は私のライバルなのよ」
ロワールは何か思いつめたように甲板を凝視していた。その眼差しは真剣だ。明らかに敵意というか――むしろ闘志と表現すべき気迫が感じられる。
「私だってあなたと話がしたいの。でも邪魔をしちゃいけないって遠慮してたのよ。それで、あなたと話ができるタイミングをうかがって声を掛けようとすると、決まってジャーヴィス副長が来るの。シャインとは甲板でずっと話してるくせに。これって絶対不公平だわ!」
敵意というからどんな仕打ちを受けたのかと思えば――しかし。
シャインはここ数日間の自分の行動を振り返った。確かに、ロワールと話をした記憶がほとんどない。放っておかれたと彼女が思ってしまうのは当然のことだろう。
やれやれ。
けれどシャインは口元に浮かぶ微笑を止めなかった。
ロワールの思考は子供っぽいが、それ故、純真で何の底意もない。何の見返りも求めない。
だからだろうか。
シャインは荒んだ自分の心がほんの少しだけ、癒されるような感覚を覚えるのだった。
「すまなかった。君は俺に気を遣ってくれていたのに、それに気付かなくて」
シャインは頬にかかる前髪を払いのけ、ロワールの視線の高さに合わせるために身を屈めた。
小柄な彼女はシャインの胸あたりの背丈なのだ。
拗ねてしまった水色 の瞳をそっと覗き込む。
「今夜はみんな上陸して、今は俺と君の二人だけだ。そんなおっそろしい顔をするのは止めて、中でお茶にでもしないかい?お姫様 」
ロワールの白い頬が、バラの花びらを散らしたように上気した。
シャインが右手を差し出すと、彼女は大きく目を見開ききゅっと唇をすぼめて呟いた。
「どうしても、というのかしら?」
「ええ、是非。今朝の捕物のお礼も兼ねて」
「私の艦長の頼みなら――仕方ないわね」
シャインの差し出された右手にロワールの華奢な手が重なる。
シャインはほっとしてそれを握りしめた。ロワールも口ではなんだかんだと言いながら、うれしそうな様子で微笑を返した。
◇◇◇
ドン……!
ドタドタドタ……。
――騒がしいな。
シャインは寝台で寝返りをうった。
少し目を開けてみると、執務室と個室を区切るカーテンごしに白い朝の光が差し込んでいた。
夜が明けているのはわかっていたが、朝方(正確には早朝4時まで)ロワールのおしゃべりにすっかり付き合わされたので、正直まだ起きたくなかったのだった。
枕元に置いてある懐中時計を見てみると、その針は8時30分をさしている。
頭の中ではもうちょっとだけ眠っていたいと考えつつ、シャインは無理矢理上半身を起こした。
コンコン!
艦長室の扉を鋭く叩く音がした。
シャインは短くため息をついて、白いシャツの上から青の航海服を羽織った。寝台に腰掛けて、床に置いていたブーツの右足側を手に取る。
「グラヴェール艦長、起きてますか?」
ジャーヴィスだ。
彼なら早めに船に戻ってくると思っていたけれど、何故自分を起こす。
「すぐ行く。ちょっと待っててくれ」
愛用のブーツは膝上まであるので、シャインはそれを履くのに少し手間取った。そして寝室と執務室を仕切っている水色のカーテンを開けると、そこには副長ジャーヴィスが深刻な顔をして立っていた。
いつもきっちりな格好を好む彼らしくなく、髪は寝ぐせがついて少しはねているし、上着も昨日のしわが目立つものを羽織っている。急いで船に戻って来たのは明らかだった。
「ずいぶん早いね。もっとゆっくりすればいいのに」
シャインの一言に、ジャーヴィスは眉間を寄せ軽くうなずいた。
「私もできればそうしたかったのですが、これを見てしまったので」
ジャーヴィスは手にしていた新聞をシャインに渡した。
シャインはそれを受け取ると、応接用の椅子に腰掛けた。
ジェミナ・クラスで一番出回っている<エルイースト>紙という新聞だ。その一面を見た。
【助けてくれたのは海賊だった。義賊・ジャヴィール現わる】
見出しの隣には、黒ずくめで背の高い男の絵が描かれている。
「はは……義賊だって。なんか変なイミで有名になっちゃったみたいだね」
だがジャーヴィスの顔には笑みがなかった。
彼はゆっくりと首を振った。
「そこじゃありません。一枚めくって下さい」
シャインは言われた通り、新聞をめくって次のページを見た。
ジャーヴィスが急いで帰って来たわけが、そこにあった。
【アバディーン商船、ついに積荷を奪われる】
目に飛び込んできたその見出しにシャインは釘付けになった。
読み進めていくほどに、シャインは事の重大さを知り唇を噛みしめた。
※※※
~昨日、<アバディーン商船>の貨物船が、輸送先のシルダリア国方面へ行く海上にて海賊に襲われ、積荷を奪われる事件が起きた。
積荷は金塊で約1000万リュール相当。貨物船を襲った海賊は、二本マストのスクーナー船に乗っていた事から、ストーム一味ではないかと言われている。
アバディーン商船の貨物船は、過去二回ストームに襲われているが、いずれも未遂に終わっていた。が、今回は、積荷が少ない事もあり、ウィルム・アバディーン社長は、警備船をつけるのをやめたのだという。
この不運な出来事に、同商船では、内部の者が情報を漏らした可能性もあるとして、独自に調査を始めたとのことである。
なお海賊といえば、同日にジャヴィールというのが、エルンスト商船を海賊から助ける、という出来事が起こっており、最近小規模の海賊がエルシーア近海を横行しているのが目につく。
この件に関して、ジェミナ・クラス駐在のツヴァイス司令官は、海賊拿捕で有名な“ノーブルブルー”の不在は問題なく、不安を感じる商船のために、近く対策を発表すると回答した。~
※※※
「くそっ! あんな所に出くわさなければ、我々はストームを捕らえる事ができたかもしれなかったんですよ。昨日は、祝杯を上げられていたはずです」
ジャーヴィスは悔しさに顔を歪めていた。両手が行き場のない怒りを表すように、ぐっと強く握りしめられている。
シャインは努めてそっと新聞を卓上に置いた。自分の手が震えている事に気付いたので、それをジャーヴィスに見られたくなかったのだ。
「我々に……運がなかっただけさ……」
シャインは平静さを装いつつ、それだけの言葉を淡々と口にした。しかし心に受けた動揺を、ジャーヴィスに隠す事はできなかったようだ。シャインの口調から失望感を察したのだろう。ジャーヴィスはいつもの冷静さがすっかり形 を潜めていた。
「ですが……あまりにも悔しすぎます! ストームめ……どこまでも悪運の強い奴なんだ。今度その姿を目にしたら、地獄の底を拝ませてやるぞ」
シャインはいきり立つジャーヴィスを意外に思った。
彼は王都ミレンディルアの生まれである。そこはアスラトルなど、かすんでしまう華やかな都。その都人 である副長が、ここまで暴言を吐くなど考えられなかったからである。
最も……。
再びうつむいたシャインは、己の不運に唇を噛みしめた。
目の前にある新聞が恨めしくて、思わず破り捨てたくなる衝動にかられた。
と、その時だった。
頭上で足音と思われる大きなそれが聞こえてきた。何事かとシャインとジャーヴィスが訝しんだ時、艦長室の扉が勢いよく開けられ、不粋な声が飛び込んできた。
「ここにいましたか、グラヴェール艦長!」
「シャインったら酷い。私、そんな顔してないもん」
「いや。絶対今の君は怖い」
シャインは振り返った。舵輪がある後部甲板に上がる右側の階段に、ロワールが座ってこちらをながめていた。両肘をほっそりとした足の上について、掌で頬を包み込むようにした格好で。
目が合うと彼女は立ち上がり、とんと階段を軽く蹴って宙を漂うように近付いて来た。長い黄昏色の髪を軽やかになびかせ、シャインの隣へふわりと降り立つ。
「わざとじゃないわよ。確かに……睨んでたけど」
「やっぱり」
「だーかーらー、それはシャインへじゃないわ。思いっきりジャーヴィス副長に敵意を込めていたけどね」
シャインは眉をひそめた。
「敵意って、穏やかじゃないね。ジャーヴィス副長が君になにかやったのか?」
ふるふるとロワールが首を横に振った。
「悪い人じゃないんだけど、ちょっとね。あの人がいるから船内もきちんとしてるし、そこは認めてるの。ただ――彼は私のライバルなのよ」
ロワールは何か思いつめたように甲板を凝視していた。その眼差しは真剣だ。明らかに敵意というか――むしろ闘志と表現すべき気迫が感じられる。
「私だってあなたと話がしたいの。でも邪魔をしちゃいけないって遠慮してたのよ。それで、あなたと話ができるタイミングをうかがって声を掛けようとすると、決まってジャーヴィス副長が来るの。シャインとは甲板でずっと話してるくせに。これって絶対不公平だわ!」
敵意というからどんな仕打ちを受けたのかと思えば――しかし。
シャインはここ数日間の自分の行動を振り返った。確かに、ロワールと話をした記憶がほとんどない。放っておかれたと彼女が思ってしまうのは当然のことだろう。
やれやれ。
けれどシャインは口元に浮かぶ微笑を止めなかった。
ロワールの思考は子供っぽいが、それ故、純真で何の底意もない。何の見返りも求めない。
だからだろうか。
シャインは荒んだ自分の心がほんの少しだけ、癒されるような感覚を覚えるのだった。
「すまなかった。君は俺に気を遣ってくれていたのに、それに気付かなくて」
シャインは頬にかかる前髪を払いのけ、ロワールの視線の高さに合わせるために身を屈めた。
小柄な彼女はシャインの胸あたりの背丈なのだ。
拗ねてしまった
「今夜はみんな上陸して、今は俺と君の二人だけだ。そんなおっそろしい顔をするのは止めて、中でお茶にでもしないかい?
ロワールの白い頬が、バラの花びらを散らしたように上気した。
シャインが右手を差し出すと、彼女は大きく目を見開ききゅっと唇をすぼめて呟いた。
「どうしても、というのかしら?」
「ええ、是非。今朝の捕物のお礼も兼ねて」
「私の艦長の頼みなら――仕方ないわね」
シャインの差し出された右手にロワールの華奢な手が重なる。
シャインはほっとしてそれを握りしめた。ロワールも口ではなんだかんだと言いながら、うれしそうな様子で微笑を返した。
◇◇◇
ドン……!
ドタドタドタ……。
――騒がしいな。
シャインは寝台で寝返りをうった。
少し目を開けてみると、執務室と個室を区切るカーテンごしに白い朝の光が差し込んでいた。
夜が明けているのはわかっていたが、朝方(正確には早朝4時まで)ロワールのおしゃべりにすっかり付き合わされたので、正直まだ起きたくなかったのだった。
枕元に置いてある懐中時計を見てみると、その針は8時30分をさしている。
頭の中ではもうちょっとだけ眠っていたいと考えつつ、シャインは無理矢理上半身を起こした。
コンコン!
艦長室の扉を鋭く叩く音がした。
シャインは短くため息をついて、白いシャツの上から青の航海服を羽織った。寝台に腰掛けて、床に置いていたブーツの右足側を手に取る。
「グラヴェール艦長、起きてますか?」
ジャーヴィスだ。
彼なら早めに船に戻ってくると思っていたけれど、何故自分を起こす。
「すぐ行く。ちょっと待っててくれ」
愛用のブーツは膝上まであるので、シャインはそれを履くのに少し手間取った。そして寝室と執務室を仕切っている水色のカーテンを開けると、そこには副長ジャーヴィスが深刻な顔をして立っていた。
いつもきっちりな格好を好む彼らしくなく、髪は寝ぐせがついて少しはねているし、上着も昨日のしわが目立つものを羽織っている。急いで船に戻って来たのは明らかだった。
「ずいぶん早いね。もっとゆっくりすればいいのに」
シャインの一言に、ジャーヴィスは眉間を寄せ軽くうなずいた。
「私もできればそうしたかったのですが、これを見てしまったので」
ジャーヴィスは手にしていた新聞をシャインに渡した。
シャインはそれを受け取ると、応接用の椅子に腰掛けた。
ジェミナ・クラスで一番出回っている<エルイースト>紙という新聞だ。その一面を見た。
【助けてくれたのは海賊だった。義賊・ジャヴィール現わる】
見出しの隣には、黒ずくめで背の高い男の絵が描かれている。
「はは……義賊だって。なんか変なイミで有名になっちゃったみたいだね」
だがジャーヴィスの顔には笑みがなかった。
彼はゆっくりと首を振った。
「そこじゃありません。一枚めくって下さい」
シャインは言われた通り、新聞をめくって次のページを見た。
ジャーヴィスが急いで帰って来たわけが、そこにあった。
【アバディーン商船、ついに積荷を奪われる】
目に飛び込んできたその見出しにシャインは釘付けになった。
読み進めていくほどに、シャインは事の重大さを知り唇を噛みしめた。
※※※
~昨日、<アバディーン商船>の貨物船が、輸送先のシルダリア国方面へ行く海上にて海賊に襲われ、積荷を奪われる事件が起きた。
積荷は金塊で約1000万リュール相当。貨物船を襲った海賊は、二本マストのスクーナー船に乗っていた事から、ストーム一味ではないかと言われている。
アバディーン商船の貨物船は、過去二回ストームに襲われているが、いずれも未遂に終わっていた。が、今回は、積荷が少ない事もあり、ウィルム・アバディーン社長は、警備船をつけるのをやめたのだという。
この不運な出来事に、同商船では、内部の者が情報を漏らした可能性もあるとして、独自に調査を始めたとのことである。
なお海賊といえば、同日にジャヴィールというのが、エルンスト商船を海賊から助ける、という出来事が起こっており、最近小規模の海賊がエルシーア近海を横行しているのが目につく。
この件に関して、ジェミナ・クラス駐在のツヴァイス司令官は、海賊拿捕で有名な“ノーブルブルー”の不在は問題なく、不安を感じる商船のために、近く対策を発表すると回答した。~
※※※
「くそっ! あんな所に出くわさなければ、我々はストームを捕らえる事ができたかもしれなかったんですよ。昨日は、祝杯を上げられていたはずです」
ジャーヴィスは悔しさに顔を歪めていた。両手が行き場のない怒りを表すように、ぐっと強く握りしめられている。
シャインは努めてそっと新聞を卓上に置いた。自分の手が震えている事に気付いたので、それをジャーヴィスに見られたくなかったのだ。
「我々に……運がなかっただけさ……」
シャインは平静さを装いつつ、それだけの言葉を淡々と口にした。しかし心に受けた動揺を、ジャーヴィスに隠す事はできなかったようだ。シャインの口調から失望感を察したのだろう。ジャーヴィスはいつもの冷静さがすっかり
「ですが……あまりにも悔しすぎます! ストームめ……どこまでも悪運の強い奴なんだ。今度その姿を目にしたら、地獄の底を拝ませてやるぞ」
シャインはいきり立つジャーヴィスを意外に思った。
彼は王都ミレンディルアの生まれである。そこはアスラトルなど、かすんでしまう華やかな都。その
最も……。
再びうつむいたシャインは、己の不運に唇を噛みしめた。
目の前にある新聞が恨めしくて、思わず破り捨てたくなる衝動にかられた。
と、その時だった。
頭上で足音と思われる大きなそれが聞こえてきた。何事かとシャインとジャーヴィスが訝しんだ時、艦長室の扉が勢いよく開けられ、不粋な声が飛び込んできた。
「ここにいましたか、グラヴェール艦長!」