2-10 襲撃 (1)

文字数 3,669文字

 翌朝、夜明け前。
 薄ら明るくなってきた空には、星たちが名残惜し気に最後の光を瞬かせている。
 その下で真新しい帆を広げ、海原を滑るように進むかの船を見たものは、誰しも驚嘆せずにはいられないだろう。船体のバランスの美しさや、まるで船自身が意志を持っているような、生命力溢れる力強い帆走に。
 
 だが一見高貴さを感じるその船――ロワールハイネス号の甲板は異様な空気で満ちていた。
 乗組員は全員黒系統の衣服を纏い、浮かべている表情は決して明るくはない。彼らの腰には大振りな長剣がぶら下がっており、物々しい雰囲気が漂っている。

 その正体は、アバディーン商船の定期便を襲う事になったので、海賊ジャヴィール一味に仮装したロワール号の水兵達だ。かの船はジェミナ・クラス港から一時間ほど北上した海域にいた。



 ◇◇◇



「はあああ~~。定期便を襲うのか。芝居とはいえ、気が重いなぁ」

 舵輪を握るシルフィードの隣で、クラウスがいかにも憂鬱そうにつぶやいた。
 今日も寝癖を抑えるために赤い布を頭に巻きつけている。

「昨日の晩、副長が言ってたじゃねぇか。俺達は誰も傷つけないし、積荷だって僚船が代わって届けてやるんだ」

「でもでも、定期便の人達は僕達を本物の海賊だって思いますよ~。この作戦のことを知っているのは、アバディーン商船の社長だけなんでしょ?」

 シルフィードが顔をしかめた。
 そして白い歯を見せてクラウスに笑いかけながら、チッと舌打ちする。

「それが俺達のねらいじゃねーか。海賊ジャヴィールが海軍の芝居だって教えてみろ。商船の乗組員の誰が港で言いふらすかわかりゃあしねぇ。そんなことになったら、ストームは警戒して俺達の前に出てこなくなるぞ」

 クラウスはうーんとうなった。
 どんなに芝居だ、と言われても。商船に乗り込み海賊行為をすることに、抵抗がなくなることはない。

「海賊って思われるのは、すっごくイヤだけど……これもストームを捕まえるまでの辛抱だっ」
「おう。その通りだぜ」





 一方、フォアマスト(一番前)の後ろにある海図室では、白いシャツと濃紺のズボンに、愛用の膝丈まである革の深靴といった軽装のシャインが、ジェミナ・クラス近海の海図を睨んでいた。
 と、その机上に影が落ちた。

「すみません、支度に手間取りました」

 周囲に響いた低い声にシャインは顔を上げた。
 そこにはジャーヴィスが――もとい、海賊ジャヴィールが立っていた。

 極楽鳥のふりふり帽子を被り、床まで届く黒マントに、金の刺繍が華やかな黒の上着を着て、腰にはサーベルを吊っている。

「君には一番嫌な役をやらせて申し訳ないと思っている。この埋め合わせは必ずさせてもらうから」

「お気遣いありがとうございます。ですが、やると決めた以上、妥協しないのが私の信条です」

 ジャーヴィスは強ばった表情のまま頭を横に振った。
 シャインは思わず緊張感が緩んで微笑した。いかにも真面目な彼らしい言葉だ。
 だがそれ以上に、海賊の頭を演じる事はかなりな抵抗があったはずだ。けれど目の前に立っているジャーヴィスに迷いは感じられなかった。彼自身が言った通り、心を決めたせいだろう。

「アバディーン商船の定期船を待ち伏せする場所は、ここだ」

 手にしていたディバイダーで、シャインは海図の一点を指し示した。
 ジェミナ・クラスの港から一時間ほど北東に進むと、そこには十数個の群島があった。どれも小さな島の集まりで、まとめてボルヴェルグ諸島と呼ばれている。
 緑の木々が生い茂るこの島達は、船を隠すには格好の場所でもあった。







「定期便の航路から若干東へ外れていますが、大丈夫ですか?」
「その懸念はあるけどね。だけどここなら、風向きによって定期便の針路を遮るか、やりすごして背後から襲うか、判断しやすいと思うんだ」

 ふん、とジャーヴィスが口元へ手を当てて思案した。

「航路から外れているといっても、船が見えないほどの距離じゃない。むしろ、はっきりと視認できる。要はタイミングの問題だろう?」

「やってみないとわかりませんが、待ち伏せするのに良い場所は他にありませんね。それでマリエステル艦長の手配した僚船は、どこで待っているんですか?」

「ボルヴェルグ諸島で大きな島……ほら、この一番下のやつだ。定期便がここを通り過ぎる9時までに、待機してくれるよう頼んでいる」

 ジャーヴィスは了解した印に軽くうなずいた。
 そして懐中から時計を取り出して、ちらりとそれを見た。

「あと30分ぐらいで、その島が見えますね。そうだ艦長。20名の海兵隊員は定期便を襲撃した後に、本船へ乗り込ませるんですよね?」
「そのことだけど――」

 シャインは視線を海図に落としたまま口籠った。

「昨日マリエステル艦長にも伝えたんだが、今日は乗せるのをやめることにした」
「えっ?」

「だって今日は初日だからね。海賊ジャヴィールがアバディーン商船の定期便を襲撃した情報が、ジェミナ・クラスの街に伝わるのは早くて明日だから。それに人数が増えると船内が狭くなって、君達だって居心地が悪くなる。だから海兵隊は明後日、二回目の襲撃の後乗せることにする」

 幾分自信なさげにシャインは答えた。

「そうですか。でも大丈夫ですよ。ストームは今日は無理でも、必ず出てきます」

 ジャーヴィスの口調が普段より優しい気がする。シャインは海図から視線をジャーヴィスへと向けた。
 どんな怠惰も不正も見逃さない。水兵達に睨みをきかせる鋭い青い瞳が、今はシャインを安心させるように向けられている。

「はは……そうだといいんだけど。でも一週間以内にストームの船と出会えるとは思えなくて」

 その刹那、シャインは自らの口元を押さえた。
 ジャーヴィスと目が合った。
 黒い帽子の落とす影の下で、いぶかしむように、その眉根を寄せるのが見えた。

 なんという事を言ってしまったのだろう!
 シャインはジャーヴィスに背を向けて、思わず本音を口走ってしまった自らの軽率さを後悔した。

 そうなるはず。こうなるに違いない。
 この数日間。憶測で計画を進めてきた。
 それが実践される段階になって、頭の中から閉め出していた、あらゆる不安要素が増してきた。

 思惑通りに事が進むかどうか。
 もしも上手くいかなかったら。
 ストームが出てこなかったら?
 ジェミナ=クラスから実はすでにいなくなっていたら?

 ずっと否定していた『想定外』の出来事。それが現実となったらどうすればいい?
 その思いが自分を確実に追い込んでいくのをシャインは感じていた。
 だからといって、今の一言は言ってはならないものだった。

「すまない……ジャーヴィス副長」

 シャインはこれだけしか、今は言う事ができなかった。
 気まずさに上手く声が出ない。
 自分の命令に異義を唱えず、従ってくれたジャーヴィスや水兵達の気持ちを考えると、それだけで胸が詰まってしまったのだ。

 特にジャーヴィスはストームを捕まえるため、本当は嫌な海賊の頭を精一杯やろうと決意してくれたというのに。今の一言で彼は気分を害したはずだ。そしてやる気をも一気に無くしてしまったかもしれない。

「確かに今のは失言です。ですが、私はほっとしました」
「……えっ」

 予想外の言葉に、シャインはまじまじとジャーヴィスの顔を見つめた。
 言われたことの意味がよくわからなかった。
 ジャーヴィスは薄い唇に微笑を浮かべ、照れ隠しなのか肩をすくめていた。

「あなたは何もかも一人でやってましたからね。そのまま本当に突っ走って良いのかどうか、私も悩んでいました。部下に不安を与えまいとするのは、よろしい事だと思いますが、自分の考えに疑問を持っていれば、それは時として判断を迷わせる事になります。艦長……今ならまだ、引き返す事ができます。あなたが止めたいと言われるなら、私はその指示に従います」

「ジャーヴィス副長」

 シャインはうつむいた。
 脳裏を様々な人々の顔が過った。
 海賊を捕まえるために協力すると言ってくれたアバディーン商船の社長。協力に名乗りを上げてくれたマリエステル艦長。海賊に仮装するため衣装を準備してくれた市場の人達。
 
 初めから上手くいかないと思っていたら、本当に失敗する。
 大事なのは覚悟だ。
 結果はどうであれ――今は自分を信じて皆についてきてもらうしかない。
 
 シャインは目にかかる前髪を右手で振り払い顔を上げた。

「大丈夫。計画はこのまま実行する。気の迷いはないよ。少し弱気になってしまった」
「そうですか」

 ジャーヴィスの口調は穏やかだ。
 まるでシャインの気が変わる事を、本当は望んでいるかのように。

『シャイン!』

 その時シャインはロワールが自分を呼ぶ声を聞いた。
 
「ロワール?」
「どうしました?」
「――ちょっと待ってくれ」

 シャインはジャーヴィスに身ぶりで黙っているよう手を振った。
 シャインはロワールの声に耳をすませていた。
 彼女の声を聞いたのは二日ぶりだ。ようやくシャインは口を開けた。

「右舷前方に、怪しい船が見えるってさ。ロワールが確認した方がいいと言ってる」
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登場人物紹介

リーザ・マリエステル(28)


【所属】エルシーア王立海軍「ファラグレール号」艦長。階級は少佐

シャインと同様、後方支援業務に携わっている。出身地はエルシーアの真北にあるアムダリア公国。
ジャーヴィスとは士官学校の同期。彼の弱味をいろいろ握っているらしい。

勝ち気で決断が早く要領も良いので、部下から絶大な信頼を得ている。

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