【第2話・後日談】奇跡の赤(1)
文字数 3,257文字
青い海に照り返す陽光が、目も眩むような輝きを増した午前11時。
ロワールハイネス号は通達しておいた時間通り、ジェミナ・クラス軍港の突堤に停泊していた。昨夜捕らえた海賊ストーム一味と、拿捕 した海賊船を引き渡すためである。
何百隻という船で賑わう商港とは違い、軍港は停泊中の船の数もまばらで、白亜の突堤を洗う波のひたひたという音が聞こえるほど静けさに満ちていた。
だが遥か沖では、エルシーアの海の玄関を警備するために、ずんぐりとした警備艦が二隻、絶えず睨みをきかせている。
突堤では海賊達を詰所の牢へ収容するため、淡い水色の制服に身を包み、白い剣帯を肩からかけた海兵隊が二十名ほど二列に並んで待ち構えていた。
「それではよろしくお願いします」
「お任せ下さい」
シャインは濃紺の平らな帽子を斜めに被った海兵隊隊長に、ストーム一味十六名を引き渡した。
ロワールハイネス号の船倉に閉じ込めていた海賊たちは、両手を前でロープに繋がれ、不満そうに鼻を鳴らしながらも、大人しく船を下りていった。
彼等の頭であるストームは、一番最後に甲板へ上がってきた。
あの大きな白い帽子は被っておらず、捕物の際に崩れた黒い巻き髪はすっかり乱れ、鳥の巣のようになってしまっている。
彼女も手下達と同じように、前で手首を合わせる形で縛られていたが、そのロープを握っていたのは、昨夜から一睡もしていないだろう、瞳をいつもの数十倍も険しく光らせた副長ジャーヴィスだった。
「痛いじゃないか。そんなに強く握らなくてもあたしゃ逃げないよ」
「うるさい。私語は許さんと言ったはずだ」
ストームを伴って甲板に現れたジャーヴィスは、鋭くそう一喝した後、彼女をせき立てるように舷門 (船体中央部にある船の出入口)へ引っ張っていく。
そこで立っていたシャインと、ストームの視線が一瞬交わった。
親指を二つ並べたような分厚いストームの唇が、不敵に歪むのをシャインは見た。
「ストーム。俺は――」
口を開いたのはシャインの方だった。だが二の句を継ぐ前に、ジャーヴィスの鋭利な声と広い背中が強引にそれを遮った。
「ほら、立ち止まるな。行け!」
ストームはそれきりジャーヴィスとも、シャインとも目を合わせようとせず、黙ったままロワールハイネス号を下りていった。
シャインはジャーヴィスがストームを背の高い海兵隊隊長に委ねるのを見つめていた。ストームは振り返らなかった。多くの海兵隊の男達に囲まれていても取り乱す事なく、すっと背筋を伸ばし、前だけを見つめていた。その態度は実に堂々としており、これから芝居見物でも出かけようとする貴婦人の様にも見えた。
「やっと終わりましたね。グラヴェール艦長」
不意に声をかけられてシャインは我に返った。ロワールハイネス号に戻ったジャーヴィスが、流石に昨夜からの疲労を隠せなくなったのか目をこすっている。冴え冴えとした青い瞳が少し充血していた。
「そうだね」
シャインは言葉少なく返事をした。
ストーム達を海兵隊に引き渡して一番安堵しているのは、このジャーヴィスかもしれない。
ストームを捕まえた後も、彼は休む間もなく、副長として多くの仕事をこなしていた。ロワールが船を動かしてストームの海賊船に突っ込んでしまったため、船同士の帆の上げ綱やマストが絡まり、それこそ身動きが取れなくなってしまったのだ。
だがジャーヴィスは水兵達に命じて、夜明け前までに絡まった索具を切り離して修繕し、二隻の船が動かせる状態までしておいた。ストームに利き腕を折られたシルフィードのために医者を呼び、捕まえた海賊達のことも軍港へ一報を送るなど、本来ならば艦長であるシャインが命じなければならないことばかりである。
有能な部下は自ら率先して動く。しかも出しゃばらないさじ加減を心得ている。
ジャーヴィスは副長の鑑 かもしれない。
これほどの人材が、未だ中尉どまりということが、シャインには信じられなかった。
エルシーア海軍は実力主義でもあるが、戦争のない今、常に需要のある水兵に比べて、制服組の士官達の中には乗る船にあぶれる者もいる。そういうご時世だから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
またジャーヴィス自身にも問題がある。不器用なこの年上の部下は、昇進願望があるくせに、そういう所は妙に引っ込み思案だったりするので、彼が自らの実力を上層部に披露する場は本当に限られているのだ。
「ストーム捕縛の報告をしに、ツヴァイス司令官の所へ行かれるのですか?」
ジャーヴィスは船内の事以外にも、気を配る細やかさも持ち合わせている。
シャインは小さくうなずいた。
「ああ。行かなければならない」
するとジャーヴィスもうなずいた。
「あまり長くなければよいのですが」
シャインはけげんな顔をした。
「何故?」
「何故って……」
ジャーヴィスの眉間が見る間に曇った。これは良くない。
今のシャインの発言によって、ジャーヴィスは明らかに傷ついた表情をその疲れた顔に表したからだ。
「お忘れになったんですか? 今夜はストームを捕まえた祝杯と、あなたの艦長就任パーティーをしましょうと、今朝話したじゃないですか」
「あ、ああ。そうだった。でも……」
シャインは気まずげに口籠った。悪意はない。寧ろ嬉しかった。
「でも、なんです?」
ジャーヴィスの追及の声は鋭い。普段沈着冷静なジャーヴィスが、こうもあからさまに感情を表に出すのは珍しい事だ。それだけ彼も余裕がなく疲れているのだろう。
シャインは右手をあげると、ジャーヴィスの緊張をほぐすように軽くその肩を叩いた。
「いや、実はアバディーン商会にも行って、社長へストームの事を報告したいんだ。だから、これから支度をして昼食を合間にはさんだら、船に戻るのが多分夕方になると思う」
「なんだ。そうでしたか」
安堵の息と共にジャーヴィスが眉間の緊張を緩めた。
なぜだろう。こっちもすごく緊張したのだが。
シャインも唇に笑みを浮かべたが、それはとても硬いものであった。
けれどジャーヴィスの機嫌は少し回復したようである。彼は今にも鼻歌を歌い出しそうな様子で顔をあげると懐から懐中時計を取り出した。蓋を開けて確認する。
「でしたら、そうですね。18時には船の方へ戻れそうですか?」
シャインは即座にうなずいた。
「大丈夫だと思う。あ、そうだ。確かマリエステル艦長も呼ぶ予定だったね」
さっとジャーヴィスの顔に朱がさした。
彼は二、三度続けて瞬きした後、くるりとシャインへ背中を向けた。
「あ……ああ。そ、そうですね! 実はもう、商港から手紙だけは配達員に言付けて出したんです。だから後は返事待ちです」
ジャーヴィスの声が裏返っていた。照れた様子で前髪に手をやり、シャインに背を向けて後方の突堤を、あからさまにわざとらしく眺めている。
リーザ・マリエステルの乗るファラグレール号もジェミナ・クラス軍港に駐在している。ただロワールハイネス号と反対の湾にいるのでその姿をここからみることはできない。
時間にこだわるジャーヴィスの気持ちがようやくシャインにも理解できた。遅刻はするのもされるのも嫌いな彼だが、好意を寄せるリーザに今夜のパーティーのことを既に連絡した手前、開始時間を今更変更するようなことになれば、気も狂わんばかりだろう。
ならば予定の時間までに、何が何でも船に帰らなければ。
シャインは密やかに笑んで、未だ背を向けるジャーヴィスに声をかけた。
「じゃ、ツヴァイス司令への報告が済んだら、ファラグレ-ル号に寄って、マリエステル艦長に今夜来てもらえるか返事を聞いてくるよ」
「……お願いします」
振り返ったジャーヴィスは、実に照れくさそうに再び頭をかいた。
「だが俺も君に頼みがある」
シャインは両腕を組んで目を細めると、拳一つ分ほど背の高い副長を見上げた。
「あ、はい」
赤らめた顔を再び副長のそれに戻して、ジャーヴィスが畏まる。
「今のうちに少し眠っておくんだね。でないと今夜も眠れないよ?」
ロワールハイネス号は通達しておいた時間通り、ジェミナ・クラス軍港の突堤に停泊していた。昨夜捕らえた海賊ストーム一味と、
何百隻という船で賑わう商港とは違い、軍港は停泊中の船の数もまばらで、白亜の突堤を洗う波のひたひたという音が聞こえるほど静けさに満ちていた。
だが遥か沖では、エルシーアの海の玄関を警備するために、ずんぐりとした警備艦が二隻、絶えず睨みをきかせている。
突堤では海賊達を詰所の牢へ収容するため、淡い水色の制服に身を包み、白い剣帯を肩からかけた海兵隊が二十名ほど二列に並んで待ち構えていた。
「それではよろしくお願いします」
「お任せ下さい」
シャインは濃紺の平らな帽子を斜めに被った海兵隊隊長に、ストーム一味十六名を引き渡した。
ロワールハイネス号の船倉に閉じ込めていた海賊たちは、両手を前でロープに繋がれ、不満そうに鼻を鳴らしながらも、大人しく船を下りていった。
彼等の頭であるストームは、一番最後に甲板へ上がってきた。
あの大きな白い帽子は被っておらず、捕物の際に崩れた黒い巻き髪はすっかり乱れ、鳥の巣のようになってしまっている。
彼女も手下達と同じように、前で手首を合わせる形で縛られていたが、そのロープを握っていたのは、昨夜から一睡もしていないだろう、瞳をいつもの数十倍も険しく光らせた副長ジャーヴィスだった。
「痛いじゃないか。そんなに強く握らなくてもあたしゃ逃げないよ」
「うるさい。私語は許さんと言ったはずだ」
ストームを伴って甲板に現れたジャーヴィスは、鋭くそう一喝した後、彼女をせき立てるように
そこで立っていたシャインと、ストームの視線が一瞬交わった。
親指を二つ並べたような分厚いストームの唇が、不敵に歪むのをシャインは見た。
「ストーム。俺は――」
口を開いたのはシャインの方だった。だが二の句を継ぐ前に、ジャーヴィスの鋭利な声と広い背中が強引にそれを遮った。
「ほら、立ち止まるな。行け!」
ストームはそれきりジャーヴィスとも、シャインとも目を合わせようとせず、黙ったままロワールハイネス号を下りていった。
シャインはジャーヴィスがストームを背の高い海兵隊隊長に委ねるのを見つめていた。ストームは振り返らなかった。多くの海兵隊の男達に囲まれていても取り乱す事なく、すっと背筋を伸ばし、前だけを見つめていた。その態度は実に堂々としており、これから芝居見物でも出かけようとする貴婦人の様にも見えた。
「やっと終わりましたね。グラヴェール艦長」
不意に声をかけられてシャインは我に返った。ロワールハイネス号に戻ったジャーヴィスが、流石に昨夜からの疲労を隠せなくなったのか目をこすっている。冴え冴えとした青い瞳が少し充血していた。
「そうだね」
シャインは言葉少なく返事をした。
ストーム達を海兵隊に引き渡して一番安堵しているのは、このジャーヴィスかもしれない。
ストームを捕まえた後も、彼は休む間もなく、副長として多くの仕事をこなしていた。ロワールが船を動かしてストームの海賊船に突っ込んでしまったため、船同士の帆の上げ綱やマストが絡まり、それこそ身動きが取れなくなってしまったのだ。
だがジャーヴィスは水兵達に命じて、夜明け前までに絡まった索具を切り離して修繕し、二隻の船が動かせる状態までしておいた。ストームに利き腕を折られたシルフィードのために医者を呼び、捕まえた海賊達のことも軍港へ一報を送るなど、本来ならば艦長であるシャインが命じなければならないことばかりである。
有能な部下は自ら率先して動く。しかも出しゃばらないさじ加減を心得ている。
ジャーヴィスは副長の
これほどの人材が、未だ中尉どまりということが、シャインには信じられなかった。
エルシーア海軍は実力主義でもあるが、戦争のない今、常に需要のある水兵に比べて、制服組の士官達の中には乗る船にあぶれる者もいる。そういうご時世だから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
またジャーヴィス自身にも問題がある。不器用なこの年上の部下は、昇進願望があるくせに、そういう所は妙に引っ込み思案だったりするので、彼が自らの実力を上層部に披露する場は本当に限られているのだ。
「ストーム捕縛の報告をしに、ツヴァイス司令官の所へ行かれるのですか?」
ジャーヴィスは船内の事以外にも、気を配る細やかさも持ち合わせている。
シャインは小さくうなずいた。
「ああ。行かなければならない」
するとジャーヴィスもうなずいた。
「あまり長くなければよいのですが」
シャインはけげんな顔をした。
「何故?」
「何故って……」
ジャーヴィスの眉間が見る間に曇った。これは良くない。
今のシャインの発言によって、ジャーヴィスは明らかに傷ついた表情をその疲れた顔に表したからだ。
「お忘れになったんですか? 今夜はストームを捕まえた祝杯と、あなたの艦長就任パーティーをしましょうと、今朝話したじゃないですか」
「あ、ああ。そうだった。でも……」
シャインは気まずげに口籠った。悪意はない。寧ろ嬉しかった。
「でも、なんです?」
ジャーヴィスの追及の声は鋭い。普段沈着冷静なジャーヴィスが、こうもあからさまに感情を表に出すのは珍しい事だ。それだけ彼も余裕がなく疲れているのだろう。
シャインは右手をあげると、ジャーヴィスの緊張をほぐすように軽くその肩を叩いた。
「いや、実はアバディーン商会にも行って、社長へストームの事を報告したいんだ。だから、これから支度をして昼食を合間にはさんだら、船に戻るのが多分夕方になると思う」
「なんだ。そうでしたか」
安堵の息と共にジャーヴィスが眉間の緊張を緩めた。
なぜだろう。こっちもすごく緊張したのだが。
シャインも唇に笑みを浮かべたが、それはとても硬いものであった。
けれどジャーヴィスの機嫌は少し回復したようである。彼は今にも鼻歌を歌い出しそうな様子で顔をあげると懐から懐中時計を取り出した。蓋を開けて確認する。
「でしたら、そうですね。18時には船の方へ戻れそうですか?」
シャインは即座にうなずいた。
「大丈夫だと思う。あ、そうだ。確かマリエステル艦長も呼ぶ予定だったね」
さっとジャーヴィスの顔に朱がさした。
彼は二、三度続けて瞬きした後、くるりとシャインへ背中を向けた。
「あ……ああ。そ、そうですね! 実はもう、商港から手紙だけは配達員に言付けて出したんです。だから後は返事待ちです」
ジャーヴィスの声が裏返っていた。照れた様子で前髪に手をやり、シャインに背を向けて後方の突堤を、あからさまにわざとらしく眺めている。
リーザ・マリエステルの乗るファラグレール号もジェミナ・クラス軍港に駐在している。ただロワールハイネス号と反対の湾にいるのでその姿をここからみることはできない。
時間にこだわるジャーヴィスの気持ちがようやくシャインにも理解できた。遅刻はするのもされるのも嫌いな彼だが、好意を寄せるリーザに今夜のパーティーのことを既に連絡した手前、開始時間を今更変更するようなことになれば、気も狂わんばかりだろう。
ならば予定の時間までに、何が何でも船に帰らなければ。
シャインは密やかに笑んで、未だ背を向けるジャーヴィスに声をかけた。
「じゃ、ツヴァイス司令への報告が済んだら、ファラグレ-ル号に寄って、マリエステル艦長に今夜来てもらえるか返事を聞いてくるよ」
「……お願いします」
振り返ったジャーヴィスは、実に照れくさそうに再び頭をかいた。
「だが俺も君に頼みがある」
シャインは両腕を組んで目を細めると、拳一つ分ほど背の高い副長を見上げた。
「あ、はい」
赤らめた顔を再び副長のそれに戻して、ジャーヴィスが畏まる。
「今のうちに少し眠っておくんだね。でないと今夜も眠れないよ?」