2-17 作戦中止
文字数 2,585文字
アバディーンは入って来た時とは対照的に、とても静かに部屋から出ていった。
甲板へはこの階段を上がるのか? と尋ねる声に、エリックが「こちらです」と答えるのが聞こえる。水兵達が艦長室の外で立ち聞きしていたのは間違いない。
さて、これからどうする。
シャインはアバディーンが出て行った扉を呆然と見つめていた。
これですべては白紙に戻った。
今まで、一体何をしてきたのだろう?
こうなることを俺は一番怖れていたのに。
“その時”が来ても大丈夫なように、他の手を考えておくべきだったのに。
今までが予定通りにいっていたから、備えを
「グラヴェール艦長……大丈夫ですか?」
ジャーヴィスがこちらを心配そうに見つめていた。
だがシャインは副長に返事をする気力すら湧かないのを感じていた。
シャインはふらりと応接用の長椅子に腰を下ろした。そのまま両手で頭を抱える。
今の自分はきっと青ざめている。ジャーヴィスがいぶかしむような。
それを考えただけで、シャインは顔を上げられずうつむいた。髪を結んでいないので、それが両脇から滑り落ちてこの情けない表情を隠してくれた。
君ならわかるだろ……?
今俺が、どうして欲しいか。
いいや――。
シャインは自分のわがままに気付き、ぐっと唇を噛みしめた。
ジャーヴィスは自分の指示を待っている。
アバディーン商船の協力を得られなくなったのだ。これからどうするのか早急に言わなくてはならない。
かといって……。
重苦しい沈黙の中、シャインにはひとつしか浮かばなかった。
取りあえず、急がなくてはならないのは――。
「ジャーヴィス副長、君でもいい。誰か軍港へ人をやって、マリエステル艦長に作戦の中止を伝えて欲しい」
ジャーヴィスがこちらへ近付く気配がした。
「艦長。それは早急では」
「もういいんだ。それと……これからのことは今から考える。だから、少しひとりにさせて欲しい」
シャインは顔を上げた。
ジャーヴィスの――こんなに不安げな表情は見た事がなかった。
自分の言い方が悪かったせいだ。
シャインは努めて明るい表情を浮かべようとした。笑ってみたかった。
確かに失敗してしまったけれど、きっとなんとかなる。
そう言って、彼の不安を取り除きたかった。
けれどそう思えば思う程、顔が引きつるのを感じた。
そんなこと思えるはずがない。
これからどうしたらいいのか自分もわからないのに。
嘘をついてまで笑うことなんか、できっこない。
「わかりました、おっしゃる通りにいたします。マリエステル艦長に、協力はもう不要だと言えばよろしいのですね?」
「ああ。そうして欲しい」
シャインは再び俯いた。
もう顔をあげられそうにない。
限界だ。これ以上、話を続けることはできない。
ジャーヴィス、頼むから早く
「ご自分をあまり責めないで下さい。あなたは間違った事をしていません。ただ運がなかっただけです。我々が諦めない限り、ストームは必ず出て来ます。その機会を待ちましょう」
ジャーヴィスの言葉はとても優しかった。
彼とはいろいろと言い争いをしてきたが、励ましてもらったということはない。
今はその気持ちにとても応えられないけれど。
「ありがとう……」
ジャーヴィスはそれ以上何も言わず、そっと部屋から出ていった。
扉が閉まる音と共にシャインは長椅子に背中をあずけた。
やる気はすっかり失せていた。
ひと呼吸するたびに、気力がどんどん萎えていくのだ。
ストームを捕まえるための希望の光が見えなかった。今はただ、先の見通しがきかない闇の中へひとり置き去りにされた気分だった。
その闇はシャインの上にのしかかり、身動きがとれなくなるような重圧感に満ち満ちていた。
いや――自分が本当に恐れているのは。
その重圧感の正体は。
ストームを捕らえることができなかった時。
捕縛命令を出したツヴァイスの気が変わって、ひょっとしたらこのロワールハイネス号から降ろされることにならないかという事だ。そもそもツヴァイスはシャインがロワールハイネス号に乗ることを気に入らないようだった。理由はさっぱりわからないが。
シャインは急に重みを感じた体を長椅子に横たえると、気だるげに瞳を閉じた。
「ロワール……君とは短い付き合いになりそうだよ」
気配がした。
誰かが傍らにきて、顔にかかった乱れ髪を優しく払ってくれた。
「ごめんね、シャイン。私がセレディア号を見つけたせいで」
君らしくない。そんな弱気な声。
俺がさっき言った事。君は聞いていなかったのかい?
俺は後悔していないって。今だってその気持ちに変わりはない。
ただちょっと戸惑っているだけなんだ。
「自分だって辛いのに、私の事を気遣ってくれるの? どうして優しくできるの?」
優しくなんか……ない。
俺は常にそうありたいと思っているだけ。
優しさというものは、甘い砂糖に包まれたような言葉を紡ぐことじゃない。
生温い言葉で……お互いを慰め合うことじゃない。
何をして欲しいのか、それを理解して実行することだ。
「わかったわ。もうあなたの邪魔はしない」
ロワール。
……すまない。これから考えることが……沢山……あるんだ……。
君ともう少し長くいられるように。
「うん。でも無理はしないで。あなたはこんなにもがんばってるんだもの。泣きたかったら泣けばいい。私はそれを全部受け止めて、あなたの笑顔を取り戻す。私はいつでもあなたのそばにいるわ」
シャインは目を開けた。
深い深い水色の――玻璃のような瞳が、自分を優しく見つめていた。
そのロワールの瞳を見ていると、今まで感じていた重荷が取り去られ、焦っていた気持ちも水のように溶けてなくなっていくようだった。
シャインは伸ばされたロワールの手を取ると、それを自らの頬に当てた。
じんわりと伝わる温かさに救われるような気がした。
「やっぱり、しばらくそばにいてくれるかい? ……俺が眠るまで。君がいると、なんだかすごく楽になったんだ」
彼女はゆっくりとうなずいた。
その顔はいつものわがまま娘のものではなく、落ち着いた大人びた表情だった。
「そう。今は何も考えずに眠るの。私があなたの眠りを守ってあげるから」
そこでロワールは、くすりと微笑した。
「いつも邪魔する、あの副長 からもね」
甲板へはこの階段を上がるのか? と尋ねる声に、エリックが「こちらです」と答えるのが聞こえる。水兵達が艦長室の外で立ち聞きしていたのは間違いない。
さて、これからどうする。
シャインはアバディーンが出て行った扉を呆然と見つめていた。
これですべては白紙に戻った。
今まで、一体何をしてきたのだろう?
こうなることを俺は一番怖れていたのに。
“その時”が来ても大丈夫なように、他の手を考えておくべきだったのに。
今までが予定通りにいっていたから、備えを
怠って
しまった。「グラヴェール艦長……大丈夫ですか?」
ジャーヴィスがこちらを心配そうに見つめていた。
だがシャインは副長に返事をする気力すら湧かないのを感じていた。
シャインはふらりと応接用の長椅子に腰を下ろした。そのまま両手で頭を抱える。
今の自分はきっと青ざめている。ジャーヴィスがいぶかしむような。
それを考えただけで、シャインは顔を上げられずうつむいた。髪を結んでいないので、それが両脇から滑り落ちてこの情けない表情を隠してくれた。
君ならわかるだろ……?
今俺が、どうして欲しいか。
いいや――。
シャインは自分のわがままに気付き、ぐっと唇を噛みしめた。
ジャーヴィスは自分の指示を待っている。
アバディーン商船の協力を得られなくなったのだ。これからどうするのか早急に言わなくてはならない。
かといって……。
重苦しい沈黙の中、シャインにはひとつしか浮かばなかった。
取りあえず、急がなくてはならないのは――。
「ジャーヴィス副長、君でもいい。誰か軍港へ人をやって、マリエステル艦長に作戦の中止を伝えて欲しい」
ジャーヴィスがこちらへ近付く気配がした。
「艦長。それは早急では」
「もういいんだ。それと……これからのことは今から考える。だから、少しひとりにさせて欲しい」
シャインは顔を上げた。
ジャーヴィスの――こんなに不安げな表情は見た事がなかった。
自分の言い方が悪かったせいだ。
シャインは努めて明るい表情を浮かべようとした。笑ってみたかった。
確かに失敗してしまったけれど、きっとなんとかなる。
そう言って、彼の不安を取り除きたかった。
けれどそう思えば思う程、顔が引きつるのを感じた。
そんなこと思えるはずがない。
これからどうしたらいいのか自分もわからないのに。
嘘をついてまで笑うことなんか、できっこない。
「わかりました、おっしゃる通りにいたします。マリエステル艦長に、協力はもう不要だと言えばよろしいのですね?」
「ああ。そうして欲しい」
シャインは再び俯いた。
もう顔をあげられそうにない。
限界だ。これ以上、話を続けることはできない。
ジャーヴィス、頼むから早く
出ていってくれ
。「ご自分をあまり責めないで下さい。あなたは間違った事をしていません。ただ運がなかっただけです。我々が諦めない限り、ストームは必ず出て来ます。その機会を待ちましょう」
ジャーヴィスの言葉はとても優しかった。
彼とはいろいろと言い争いをしてきたが、励ましてもらったということはない。
今はその気持ちにとても応えられないけれど。
「ありがとう……」
ジャーヴィスはそれ以上何も言わず、そっと部屋から出ていった。
扉が閉まる音と共にシャインは長椅子に背中をあずけた。
やる気はすっかり失せていた。
ひと呼吸するたびに、気力がどんどん萎えていくのだ。
ストームを捕まえるための希望の光が見えなかった。今はただ、先の見通しがきかない闇の中へひとり置き去りにされた気分だった。
その闇はシャインの上にのしかかり、身動きがとれなくなるような重圧感に満ち満ちていた。
いや――自分が本当に恐れているのは。
その重圧感の正体は。
ストームを捕らえることができなかった時。
捕縛命令を出したツヴァイスの気が変わって、ひょっとしたらこのロワールハイネス号から降ろされることにならないかという事だ。そもそもツヴァイスはシャインがロワールハイネス号に乗ることを気に入らないようだった。理由はさっぱりわからないが。
シャインは急に重みを感じた体を長椅子に横たえると、気だるげに瞳を閉じた。
「ロワール……君とは短い付き合いになりそうだよ」
気配がした。
誰かが傍らにきて、顔にかかった乱れ髪を優しく払ってくれた。
「ごめんね、シャイン。私がセレディア号を見つけたせいで」
君らしくない。そんな弱気な声。
俺がさっき言った事。君は聞いていなかったのかい?
俺は後悔していないって。今だってその気持ちに変わりはない。
ただちょっと戸惑っているだけなんだ。
「自分だって辛いのに、私の事を気遣ってくれるの? どうして優しくできるの?」
優しくなんか……ない。
俺は常にそうありたいと思っているだけ。
優しさというものは、甘い砂糖に包まれたような言葉を紡ぐことじゃない。
生温い言葉で……お互いを慰め合うことじゃない。
何をして欲しいのか、それを理解して実行することだ。
「わかったわ。もうあなたの邪魔はしない」
ロワール。
……すまない。これから考えることが……沢山……あるんだ……。
君ともう少し長くいられるように。
「うん。でも無理はしないで。あなたはこんなにもがんばってるんだもの。泣きたかったら泣けばいい。私はそれを全部受け止めて、あなたの笑顔を取り戻す。私はいつでもあなたのそばにいるわ」
シャインは目を開けた。
深い深い水色の――玻璃のような瞳が、自分を優しく見つめていた。
そのロワールの瞳を見ていると、今まで感じていた重荷が取り去られ、焦っていた気持ちも水のように溶けてなくなっていくようだった。
シャインは伸ばされたロワールの手を取ると、それを自らの頬に当てた。
じんわりと伝わる温かさに救われるような気がした。
「やっぱり、しばらくそばにいてくれるかい? ……俺が眠るまで。君がいると、なんだかすごく楽になったんだ」
彼女はゆっくりとうなずいた。
その顔はいつものわがまま娘のものではなく、落ち着いた大人びた表情だった。
「そう。今は何も考えずに眠るの。私があなたの眠りを守ってあげるから」
そこでロワールは、くすりと微笑した。
「いつも邪魔する、あの