2-26 ブルーエイジの指輪

文字数 5,742文字

 手の震えが止まらない。
 今はごく僅かだが、ストームに気付かれたら――あの女は自分の言う事を『はったり』だと思い信じなくなるだろう。
 それは困る。それだけは。
 
 シャインは刃を握る両手に力を込めた。
 こうなる覚悟はとっくに決めたはずだった。
 それなのに何故、この手は震えてしまうのだろう――。


 ストームの剣は本当に手入れが行き届いていた。停泊灯に照らされた刀身は、冴え冴えとした光を放つ月光のようだ。ピリピリとした痛みが走る。きっとそのせいだ。手が震えるのは。シャインはそう考えた。

 ひやりとする冷たい刃は両手に食い込んで、赤い鮮血が一筋の流れを作り、ゆるゆると甲板へ滴り落ちて行く。それに気を取られたシャインは、首筋に当たるチリッとした刃の感覚から逃れようと動く身体に気付き、必死にそれを押さえ込んだ。

 ストームは女性の割に力が強い。一瞬でも気を抜くと流れた血のせいで刃から手が滑る。早くストームの手下を下がらせなければ、いつまでこうしていられるかわからない。

『坊や。あんたは命が惜しいのかい?』
『それは勿論。やりたい事がまだ沢山ありますからね』

 ふと脳裏に、ストームの質問がよみがえった。
 その時の答えに嘘はなかった。
 どうしてそう答えたのか――シャインは自らの気持ちに気が付いた。

 だから手の震えが止まらないのだ。きっと。
 何度自分に言い聞かせても、それは、心の奥底にある想いに反する事だから。

 けれど、今はそれを優先させることではない。
 それよりももっと大切な物を守らなくてはならないから。

『守れなければ生きている意味がない。そうじゃないのか?』

 シャインはストームを見据えながら、自分自身へ問いかけた。


 ◇◇◇


 3000万リュール。彼女はただそれだけが欲しかった。
 昨日稼いだアバディーン商船の金は、そっくり頭への今月分の上納金として消えてしまったからだ。

 ストームは、ロワールハイネス号にただひとりきりになることのリスクを思った。シャインが部下に慕われているだろうということは、ずっと険悪な目つきで睨み付けている彼の副官の言動からして十分察することができる。

 おまけにあの坊やは、自らすすんで首筋に刃を当てているのだ。彼の身の安全を考えれば、おかしな行動に出る勇気はないはずだ。


 ◇◇◇


「……負けたよ。手下をあたしの船に戻らせればいいんだね?」
 ストームは眉間を寄せて渋々つぶやいた。

「そうだ」

 交渉に一切妥協は許さない。
 ストームを直視する青緑の瞳は強い意思に満ちていた。

 まずい。
 こういうのは――正直、弱い。
 相手は海軍の坊やだが、自分の信念を貫こうとする姿勢は嫌いではない。
 
 アドビス・グラヴェールの息子か。
 そう言われれば、そうかもしれない。
 あの男も決して自分の信念を曲げない人間だった――ただしそれは過去の事。

 ストームはふと過ぎ去った昔日を思い出した。
 確かに、もうそれほどの年月があれから過ぎたというのか。
 ルシータ通りに店を構えるストームのそれには、海軍の高官も出入りしている。

 彼らがよく噂していた。
 海軍に入ったアドビスの息子は、死んだリュニス人の細君に驚くほど良く似ていると。

「そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか。ただでさえこっちはいろいろあってイライラしてんだからね」

 やれやれと肩を竦めストームは、傍らに控えている黒マントの副頭領に全員船へ引き上げるよう命じた。

「船長、それは駄目だ。きっと罠に違いない」

 副頭領は口元を覆っている灰色の布を少しずらしストームへ耳打ちした。
 だが彼女はそれを一蹴した。

「わかってるよ。だから、何時でもあたしを助けられるよう近くで待機しな。あの坊やは大事な部下を助けたいだけなんだ。あの子の要望をひとつ聞いてやれば、大人しくあたしの船に乗ってくれるだろう? え?」

「そりゃそうだが……」

「言う事を聞かなければ、無理矢理にでも船に乗せるがね。ただ、余計なキズをつけたらあの子の値が下がっちまう」

「頭? アドビスの野郎に身代金を請求するんじゃ……」

「馬鹿なことを言うんじゃないよ! あの悪魔にそんなことしたら、あたしらは皆殺しさ。あの子の使い道はいくらでもある。リュニス界隈には奴隷商人が立ち寄る港がある。こんなに見目がいいんだ。いっそうちの店で働かせたら3000万ぐらい、ひと月で稼げるよ」

 副頭領と内緒話を終えたストームは、ミズンマスト付近で水兵達を見張っている手下へ声をかけた。

「みんな、船へ戻るんだよ! 早くしな! だが海軍の連中は動くんじゃないよ。おかしなマネをしたら、この坊やの首をちょん切ってやるからね!」

 ストームの手下達は、それぞれ鋭い目つきで水兵達を見回すと、ひとり、またひとりと、ロワール号の右舷に横付けしている、自分達の船へと戻って行った。

 彼らの最後に、油断なく自らの刀の柄に手をかけた副頭領が、渡り板を歩いて船に乗り込んだ。そしていつでもストームのそばにかけつけられるよう、その場に待機する。

 ちなみに渡り板は、ロワール号のメインマストとミズンマストの間の船縁へ渡されていた。ストームに何かあっても、すぐに乗り込める場所だ。ロワール号の水兵達は、憎々しげにそれを見つめていた。


◇◇◇


 シャインはストームの手下達がすべてロワールハイネス号を降り、自分達の船に乗ったことを確認した。

「おっと忘れてたよ。あんたの航海士も返さないとね。坊や、ふたりだけ誰か呼びな。へんなマネはよしとくれよ。あたしは誠意を見せてるんだから」

 ストームは凄みを帯びた笑みを浮かべてシャインに言った。

「わかった」

 シャインは小さくうなずいた。首筋にストームの刃を当てたまま。

「ジャーヴィス副長。エルマとスレインを呼んで欲しい。シルフィードをミズンマスト前まで連れて行ってもらいたいんだ」
「え、あ、はい。わかりました……」

 ジャーヴィスの声はとても低かった。
 彼は自分が呼ばれると思っていたのだろうが、シャインは敢えてそうしなかった。
 ジャーヴィスには別に頼まなくてはならないことがある。

 ジャーヴィスはいらいらと、ふたりの水兵の名を呼んで、シルフィードを連れて行くように命じた。
 エルマとスレインは大柄で、メインマスト担当の水兵だ。同じく体の大きいシルフィードを運ぶには最適だが、頭は良い方ではない。

 シルフィードの両側から腕を持って支えるエルマとスレインを、ジャーヴィスは苦々しく見つめている。
 ストームもジャーヴィスの苛立ちを察したのだろう。
 ジャーヴィスと視線をわざと合わせ、にたりと不敵に微笑した。
 どうすることもできないジャーヴィスをあざ笑うように。
 ジャーヴィスは黙ってその屈辱に耐えていた。手袋をはめた両手の拳が小刻みに震えている。

 シルフィードの左腕をエルマが肩にまわし、スレインは同じくシルフィードの体を右側から支えて、ミズンマスト前まで行こうとした。

「ちょっと……待ってくれ……」

 やっと聞き取れるようなか細い声で、シルフィードがつぶやいた。ストームの手下から受けたのだろう。殴られてすっかり腫れ上がったその痛々しい顔を、気力だけで上げているのだ。

「すみません……艦長……。俺のせいで……こんなことに……」

 一言話す事に息をつきながら、頭を垂れたシルフィードの姿は、見るに耐え難いほど苦しそうだった。シャインはこわばらせていた表情をゆるめ、伏し目がちに微笑した。
 
「俺の事は心配いらない。交渉が成立すれば一ヶ月で戻る。戻ったら……今度はちゃんと航海長の特製シチューをいただくよ。だから、それまでにしっかり体を治して欲しい」

 シルフィードの口から嗚咽が漏れた。
 シャインはスレインに、彼を連れて行くよううながした。

 縋るような目つきでこちらを見るスレインの視線を、シャインは敢えて無視した。
 シルフィードをいたわる言葉は本心だったが、果たせない約束をした自分に気付いて欲しくなかった。

 思わず俯く。またひとつ嘘をついたことに良心が痛む。
 シルフィードがそれを気にしなければいいが。

「さてと、そこにいるあんたも後ろに行ってもらおうかね。副長さん」

 シャインの自己嫌悪は、ストームのだみ声によって破られた。


 ◇◇◇


 ジャーヴィスはシャインから15歩ぐらい離れた後方で立っていた。
 有能な彼の事だ。
 隙があればストームに飛びかかって反撃する機会を伺っているのだろう。
 ただでさえ鋭いジャーヴィスの目が猟犬のように光っている。

「ストーム、待ってくれ。ジャーヴィス副長に話がある。少し時間をくれないか」
「なんだって?」

 こんなやり取りをもう何度繰り返しただろうか。
 流石のストームも苛立ちが頂点に達したようだ。
 小さな緑の瞳を見開いて、シャインに向かってまくしたてる。

「ちょっと坊や! あんた虜の身で要求なんて虫が良すぎるよ?」

 シャインは瞳を伏せて静かに頭を振った。
 その動きに合わせて月影色の金髪が波頭のように煌めく。

「悪いが聞いてもらいたい。それとも3000万リュール、ここで消えてもいいのか?」

 シャインは首筋に当てた刃へ力を込めた。しっとりとした刀身が僅かに加えた力のみで首筋に食らいついていく。脈打つ命の鼓動ははっきりとわかるのに、痛みは不思議と感じなかった。

「ば、馬鹿なことはおやめ!」

 シャインより顔色を蒼白にさせてストームが長剣を自分の方へ引き寄せる。
 だがそれはシャインの首筋から離れない。
 白い襟飾りと純白の礼装のせいか。刃を伝う真紅の雫が妙に鮮やかに見えた。

「わかった! わかったよ! 話ならさせてやるから、兎に角首から剣を外すんだよ!」

 シャインはストームを一瞥し、ゆっくりとした挙動で彼女の言う事に従った。
 一瞬視界が薄暗く感じた。シャインは何度か瞬きした。
 時間があまりないかもしれない。

「冗談じゃないよ。あたしがここまで出張ってきたのは、全部『お金』のためなんだから! 1リュールにもならない仕事は御免だよ! 全く、あんたがアドビスの息子かどうか、ホントは半信半疑だったけど、その人の足元を見るやり方、あいつにそっくりだよ!」

「……」
「何だい? 急に怖い顔して黙りこくって」

 ストームがシャインに顔を近づけて覗き込んできた。

「あたしは褒めてあげたんだよ。あんたはやっぱりアドビスの息子だって。自分の目的を達成させるためなら、どんな手も使うんだ」
「……違う」
「えっ?」

 シャインは唇が震えるのを感じた。それだけではない。
 ストームの刃を握る指にも力が込められるのがわかる。
 心臓を氷の手で掴まれたように息苦しさを感じた。
 怒りのあまり。

「俺は――あの人とは


「違うって?」

 シャインは大きく頭を振った。カッと頬に熱が集まる。

「兎に角、俺はあの人とは違うんだ。ストーム、俺が副長と話をするのはお前に捕まっている事を、彼からあの人へ伝えてもらうためだ」

「だったらそれはもう分かっている事じゃないか! 今更なんでそんなことを言うんだい。耳が無いのかい、あんたの副長は!」

「あの人は……中将は疑り深い人でね。彼の話だけではきっと信じない」

 ストームはいらついている様子だったが、シャインの意図に気付いたようだった。

「何か、身の証でも持っているのかい?」

 シャインはうなずいた。

「ああ。俺の右手にブルーエイジの指輪がはまっている。それを見せれば、中将は必ず信じる」

 ストームが言われた通りに視線をシャインの右手――人差し指に向ける。
 何の装飾もされていない一見古風な指輪が、そこに光っていた。
 停泊灯の光に、名前の通りの透き通った青い輝きがきらめいている。
 ストームが困ったように目を細めて呟いた。

「坊や……さりげなくそんな物騒なものを見せないでおくれ。ブルーエイジは『術者』が喉から手が出るほど欲しがる魔鉱石だよ。あたしゃ、ブルーエイジを持っているせいで殺された人間を何人か知ってる。真っ当な人間ならそんなもの、好んで身につけるものじゃない。ひょっとしてあんた、術者だったのかい?」

「まさか。ブルーエイジの不吉ないわれは知ってるが、失くしたくないんでね。ただ、それだけさ」

 シャインは寂し気に、が、油断なくストームへ微笑した。
 ストームは困ったように、開いている左手で頭をかいた。

 珍しい。
 がめついあの女が何かを気にしている。
 けれどあともう少し。
 ジャーヴィスに後のことを託したら、ロワールハイネス号と乗組員の安全は保障される。その後のことはどうなっても――。

 シャインは不意に胸に走った痛みに顔をしかめた。
 そして誰かの強い視線を感じた。
 誰かと問う必要はない。
 それはずっとシャインの近くで感じていたものだ。

 ロワール。

 彼女に意識を合わせてしまったら。
 彼女の声を聞いてしまったら。
 彼女の姿をほんの少しだけでも見てしまったら。
 決めた覚悟が揺らいでしまう。
 
「坊や、あたしは……あたしは海賊だけどね。今までちゃんと、あんたの要求を聞き入れてあげた。わかるかい?」
「ああ」

 ストームはそっとシャインの方へ、剣を間に入れたまま顔を寄せた。
 声のトーンを落とす。

「あんたが副長と話をして、その指輪を渡したいなら……そうさせてやるよ。だが、その際に逃げようなんて気は……起こすんじゃないよ。今この船にいるのはあたしひとりだけど、すぐに手下が乗り込んで、あんたの部下を八つ裂きにしてやるからね」
「約束する。副長に指輪を渡して後の事を頼んだら、お前の船に乗る」

 シャインはずっと握っていたストームの剣から、ゆっくりと両手を離した。
 と、ストームが鋭い刃の切っ先を、再びその喉元へと突き付けた。

「よし、あたしはあんたを信じたからね。あんたは……アドビスとは違う」

 その一言は呪文のように、シャインの脳裏へ轟いた。
 分厚い唇を歪ませてストームは再度念押しした。

「あたしを裏切ったら、あんたはあの男と同じだ。そうだろう?」
「俺は約束した。『逃げない』と」
「ようし。じゃ、早く副長と最後のお別れをしておいで」

 ストームは満足して、シャインにジャーヴィスの所へ行くようあごで指し示した。
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登場人物紹介

リーザ・マリエステル(28)


【所属】エルシーア王立海軍「ファラグレール号」艦長。階級は少佐

シャインと同様、後方支援業務に携わっている。出身地はエルシーアの真北にあるアムダリア公国。
ジャーヴィスとは士官学校の同期。彼の弱味をいろいろ握っているらしい。

勝ち気で決断が早く要領も良いので、部下から絶大な信頼を得ている。

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