2-8 天使のパンケーキ
文字数 3,407文字
「おかわりはいかがです? マリエステル艦長」
シャインは自分のティーカップに三杯目の紅茶を注ぎながら言った。
「いただきます。まさか、ここで今年のシルヴァンティーが飲めるなんて思いませんでしたわ。だって、アスラトルの商店にはまだ入荷していないそうよ」
リーザはデザートのプディングをぱくついていた。
シャインは続けてリーザのカップに黄金色の茶を注いだ。
「気に入ってもらえてよかった。実は『海原の司 』リオーネさんがこのお茶が好きで、毎年送ってくれるんです。どんなに忙しくても、自分の時間をお茶を飲むほんの少しの間でいいから、持ちなさいって」
シャインはやわらかな湯気を立てているシルヴァンティーを一口すすった。リンゴを思わせる甘酸っぱい香りと甘味が、口の中に広がる。そのさっぱりした味は、朝にもってこいのお茶だ。
「まぁ……素敵。私、リオーネ様にお会いした事ないけれど、とってもきれいな人だって聞いてるわ。風を操る能力にも長けていらっしゃって、何度も艦隊の窮地を救って下さってるって……。やっぱり、グラヴェール家ってすごいのね。そんな方とお知り合いなんですもの」
リーザが感心するように何度もうなずく。
「マリエステル艦長。リオーネ様は、艦長のお母上の妹にあたる方なんですよ」
シャイン達に同席を求められ、一緒に朝食の卓についていたジャーヴィスが微笑を浮かべて言った。
「えっ、そうだったの?」
リーザは驚いて、交互にシャインとジャーヴィスの顔を見比べた。
シャインはうなずいたものの、少しけげんな表情をしてジャーヴィスを見た。
「君に話した覚えはないんだけど、何故それを?」
ジャーヴィスが真っ青な瞳を細めた。
それはいつになく穏やかな光をたたえている。
「お父上……グラヴェール中将閣下からお聞きして。あなたの副長への推挙を頂いた時に、自らいろいろと話して下さったのです」
「推挙? ああそうか……。いろいろ……ねぇ……」
シャインは気まずそうに顔をしかめた。
あの厳格なアドビスがそんな話をするのは、よほど機嫌がよかったか、あるいは、ジャーヴィスを気に入ったかのどちらかだ。
「すみません。出過ぎたまねをしました」
「いや、いいんだ。知っている人は、知っていることだから」
シャインは紅茶を一気に飲み干した。
内心どうもすっきりしない。自分のことはともかく、他人に興味を示さないアドビスが、ジャーヴィスにどうして身内の話をしたのだろう。
やはりあの男のことは理解できない。
「どうも、ごちそうさまでした。久しぶりに美味しい朝食をいただきましたわ」
リーザが両手を合わせて一礼した。
「いいえ、たいしたお構いもできなくて恐縮です」
「そんなことないわ。あの『天使のパンケーキ』は、ぜひうちでも、朝食のメニューに加えさせるわ。生地がふわっふわでバターの香りが口の中で広がるのに、舌の上で雪のようにすっと溶けてしまうの~クリームの甘味も絶妙で素敵」
リーザは咎めるように卓上を見つめた。
「あら。グラヴェール艦長。あまりお食べになっていないようだけど」
リーザの指摘通り、シャインは彼女が絶賛する『天使のパンケーキ』には手をつけず、シルヴァンティーとデザートの葡萄をつまんだだけだった。
「ああ――寝不足のせいか、今朝はあまり食欲がなくて」
シャインは強ばった笑みを唇に浮かべた。
正直、誰かが話しかけてくれないと瞼が再び下がってきそうになる。
「残すなんて勿体無い。いけませんわよ。ちゃんと食べないと」
「そうです。マリエステル艦長の言う通りです!」
シャインは二人の視線を遮るように右手で額を押さえた。
「今はいい。すまない、ジャーヴィス副長。折角君が料理の腕をふるってくれたのに」
「えっ……ええーっ!」
リーザはきょとんとして、思わずその動きを止めた。
シャインの言う事が本当かどうか見定めるために、ジャーヴィスをまじまじと見つめている。
「これ、あなたが作ったの?」
ジャーヴィスが静かに頷いた。その目つきは暗澹としている。
「自慢ではありませんが、パンケーキを焼くのは得意です。グラヴェール艦長、お気に召さないなら、お好みの具で作り直して参ります。ご希望を仰って下さい。私は百種類のパンケーキを焼くことができます」
「
ジャーヴィスには悪いが、シャインは今日の予定を脳裏に浮かべた。
アバディーン商会の社長との面会が確か十時前だったような気がする。そろそろ支度をしなければ間に合わない。
「そっか、あなたが作ってくれたのか」
リーザが紅を引いた唇に笑みを浮かべた。その視線は対面に座るジャーヴィスへと向けられている。
「時が過ぎれば変わるものね……。うちにも料理ができて、仕事もできる副長が欲しいわ~」
どうも彼女は本気のようだ。惚れ惚れとジャーヴィスに熱い視線を送っている。それに危機感を感じたシャインはすかさず釘をさした。
「あげませんよ。彼がいなくなったら、このロワールハイネス号は無法地帯になってしまいますからね」
「そんなぁ~諦めるのは辛すぎるわ……」
コホン! と、ジャーヴィスが咳をした。
「私はやれと言われたことはやりますが、雑用係はごめんです。できればそのような仕事の為に、あなたの所へ行くつもりはありませんよ。マリエステル艦長」
それを聞いたリーザは吹き出した。
ジャーヴィスが至って真面目な顔で言ったからだ。
「あなたも冗談を言うのね。『雑用係』だなんて。あなたをそんな使い方したらバチが当たるわ。でもね、ジャーヴィス。あなたなら、うちの船の事一切を仕切ってもらってもいいかなって、本気で思ったのよ」
「リーザ……」
勝ち気な性格がうかがえる表情をにこやかな微笑に変えて、リーザはゆっくりとうなずいた。彼女に見つめられて、ジャーヴィスは肩をすくめ、照れくさそうに笑みを返した。
「ふたりはとっても仲がいいんだね。結婚式には是非呼んでほしいな」
彼らの微笑ましい光景を見ながらシャインは目を細め、ぽつりとつぶやいた。
「どうしてそうなるんですっ!」
ジャーヴィスとリーザが同時に叫んだ。
ただしそれは、驚くほどぴったりと息があっていたが。
◇◇◇
ひとしきり談笑し、また今夜最終確認をする約束をしてリーザは帰っていった。彼女もまた一般人を装っているので、自分の船はアノールの港に待機させ、ジェミナ・クラスに宿をとって泊まりこんでいるのだった。
シャインは水夫の服装からいつもの濃紺の航海服へと着替えた。その上から深緑のマントを羽織り、それが見えないように隠す。そしてジャーヴィスから手渡された幅広の黒い帽子を受け取ると、目深にそれを被った。
「じゃ、これからアバディーン商船へ行ってくるよ。いくつか他の用事を済ませて、夕方マリエステル艦長に会いにいくから、何時に帰艦するかはっきり言えない」
「では、クラウスを連れていったらどうです? 何かあった場合、あなた一人では動きがとれなくなりますよ」
シャインは首を振った。
「大丈夫だよ。それに、ひとりの方が目立たないしね。それより船の事は頼んだよ。みんなには商船のフリをしているってことを、ちゃんと意識させてほしい」
「もちろんです……あの、艦長」
「なんだい?」
艦長室の扉に行きかけたシャインは、けげんな顔をして立ち止まった。
「アバディーン商船の船を芝居で襲う事になったこと……。皆に説明しておいた方が良いと思うのですが。私同様、海賊ジャヴィールの噂を広める事で、ストームをおびきだす、と思っているはずですから」
「そうだね。いつかは、言わなくてはと思っていたんだけれど」
シャインはジャーヴィスの言葉に深く頷いた。
水兵達の反感を買うのは二度とごめんである。
彼らはロワールハイネス号の処女航海で、一度は転属届を置いて船から出ていったのだ。ジャーヴィスの言う通り、事前に説明をしたほうがいいに決まっている。
「じゃ、君に頼んでいいかい? ジャーヴィス副長。ただしこれはストームを捕らえるための
「わかりました。明日こんなこと聞いていない、と、ごねる者がいたら面倒ですから、ちゃんと皆に理解させます」
ジャーヴィスは微笑して艦長室の扉を開いた。
シャインは自分のティーカップに三杯目の紅茶を注ぎながら言った。
「いただきます。まさか、ここで今年のシルヴァンティーが飲めるなんて思いませんでしたわ。だって、アスラトルの商店にはまだ入荷していないそうよ」
リーザはデザートのプディングをぱくついていた。
シャインは続けてリーザのカップに黄金色の茶を注いだ。
「気に入ってもらえてよかった。実は『海原の
シャインはやわらかな湯気を立てているシルヴァンティーを一口すすった。リンゴを思わせる甘酸っぱい香りと甘味が、口の中に広がる。そのさっぱりした味は、朝にもってこいのお茶だ。
「まぁ……素敵。私、リオーネ様にお会いした事ないけれど、とってもきれいな人だって聞いてるわ。風を操る能力にも長けていらっしゃって、何度も艦隊の窮地を救って下さってるって……。やっぱり、グラヴェール家ってすごいのね。そんな方とお知り合いなんですもの」
リーザが感心するように何度もうなずく。
「マリエステル艦長。リオーネ様は、艦長のお母上の妹にあたる方なんですよ」
シャイン達に同席を求められ、一緒に朝食の卓についていたジャーヴィスが微笑を浮かべて言った。
「えっ、そうだったの?」
リーザは驚いて、交互にシャインとジャーヴィスの顔を見比べた。
シャインはうなずいたものの、少しけげんな表情をしてジャーヴィスを見た。
「君に話した覚えはないんだけど、何故それを?」
ジャーヴィスが真っ青な瞳を細めた。
それはいつになく穏やかな光をたたえている。
「お父上……グラヴェール中将閣下からお聞きして。あなたの副長への推挙を頂いた時に、自らいろいろと話して下さったのです」
「推挙? ああそうか……。いろいろ……ねぇ……」
シャインは気まずそうに顔をしかめた。
あの厳格なアドビスがそんな話をするのは、よほど機嫌がよかったか、あるいは、ジャーヴィスを気に入ったかのどちらかだ。
「すみません。出過ぎたまねをしました」
「いや、いいんだ。知っている人は、知っていることだから」
シャインは紅茶を一気に飲み干した。
内心どうもすっきりしない。自分のことはともかく、他人に興味を示さないアドビスが、ジャーヴィスにどうして身内の話をしたのだろう。
やはりあの男のことは理解できない。
「どうも、ごちそうさまでした。久しぶりに美味しい朝食をいただきましたわ」
リーザが両手を合わせて一礼した。
「いいえ、たいしたお構いもできなくて恐縮です」
「そんなことないわ。あの『天使のパンケーキ』は、ぜひうちでも、朝食のメニューに加えさせるわ。生地がふわっふわでバターの香りが口の中で広がるのに、舌の上で雪のようにすっと溶けてしまうの~クリームの甘味も絶妙で素敵」
リーザは咎めるように卓上を見つめた。
「あら。グラヴェール艦長。あまりお食べになっていないようだけど」
リーザの指摘通り、シャインは彼女が絶賛する『天使のパンケーキ』には手をつけず、シルヴァンティーとデザートの葡萄をつまんだだけだった。
「ああ――寝不足のせいか、今朝はあまり食欲がなくて」
シャインは強ばった笑みを唇に浮かべた。
正直、誰かが話しかけてくれないと瞼が再び下がってきそうになる。
「残すなんて勿体無い。いけませんわよ。ちゃんと食べないと」
「そうです。マリエステル艦長の言う通りです!」
シャインは二人の視線を遮るように右手で額を押さえた。
「今はいい。すまない、ジャーヴィス副長。折角君が料理の腕をふるってくれたのに」
「えっ……ええーっ!」
リーザはきょとんとして、思わずその動きを止めた。
シャインの言う事が本当かどうか見定めるために、ジャーヴィスをまじまじと見つめている。
「これ、あなたが作ったの?」
ジャーヴィスが静かに頷いた。その目つきは暗澹としている。
「自慢ではありませんが、パンケーキを焼くのは得意です。グラヴェール艦長、お気に召さないなら、お好みの具で作り直して参ります。ご希望を仰って下さい。私は百種類のパンケーキを焼くことができます」
「
百
って――いやいい。外出の時間が迫っているから、戻ったら食べるよ」ジャーヴィスには悪いが、シャインは今日の予定を脳裏に浮かべた。
アバディーン商会の社長との面会が確か十時前だったような気がする。そろそろ支度をしなければ間に合わない。
「そっか、あなたが作ってくれたのか」
リーザが紅を引いた唇に笑みを浮かべた。その視線は対面に座るジャーヴィスへと向けられている。
「時が過ぎれば変わるものね……。うちにも料理ができて、仕事もできる副長が欲しいわ~」
どうも彼女は本気のようだ。惚れ惚れとジャーヴィスに熱い視線を送っている。それに危機感を感じたシャインはすかさず釘をさした。
「あげませんよ。彼がいなくなったら、このロワールハイネス号は無法地帯になってしまいますからね」
「そんなぁ~諦めるのは辛すぎるわ……」
コホン! と、ジャーヴィスが咳をした。
「私はやれと言われたことはやりますが、雑用係はごめんです。できればそのような仕事の為に、あなたの所へ行くつもりはありませんよ。マリエステル艦長」
それを聞いたリーザは吹き出した。
ジャーヴィスが至って真面目な顔で言ったからだ。
「あなたも冗談を言うのね。『雑用係』だなんて。あなたをそんな使い方したらバチが当たるわ。でもね、ジャーヴィス。あなたなら、うちの船の事一切を仕切ってもらってもいいかなって、本気で思ったのよ」
「リーザ……」
勝ち気な性格がうかがえる表情をにこやかな微笑に変えて、リーザはゆっくりとうなずいた。彼女に見つめられて、ジャーヴィスは肩をすくめ、照れくさそうに笑みを返した。
「ふたりはとっても仲がいいんだね。結婚式には是非呼んでほしいな」
彼らの微笑ましい光景を見ながらシャインは目を細め、ぽつりとつぶやいた。
「どうしてそうなるんですっ!」
ジャーヴィスとリーザが同時に叫んだ。
ただしそれは、驚くほどぴったりと息があっていたが。
◇◇◇
ひとしきり談笑し、また今夜最終確認をする約束をしてリーザは帰っていった。彼女もまた一般人を装っているので、自分の船はアノールの港に待機させ、ジェミナ・クラスに宿をとって泊まりこんでいるのだった。
シャインは水夫の服装からいつもの濃紺の航海服へと着替えた。その上から深緑のマントを羽織り、それが見えないように隠す。そしてジャーヴィスから手渡された幅広の黒い帽子を受け取ると、目深にそれを被った。
「じゃ、これからアバディーン商船へ行ってくるよ。いくつか他の用事を済ませて、夕方マリエステル艦長に会いにいくから、何時に帰艦するかはっきり言えない」
「では、クラウスを連れていったらどうです? 何かあった場合、あなた一人では動きがとれなくなりますよ」
シャインは首を振った。
「大丈夫だよ。それに、ひとりの方が目立たないしね。それより船の事は頼んだよ。みんなには商船のフリをしているってことを、ちゃんと意識させてほしい」
「もちろんです……あの、艦長」
「なんだい?」
艦長室の扉に行きかけたシャインは、けげんな顔をして立ち止まった。
「アバディーン商船の船を芝居で襲う事になったこと……。皆に説明しておいた方が良いと思うのですが。私同様、海賊ジャヴィールの噂を広める事で、ストームをおびきだす、と思っているはずですから」
「そうだね。いつかは、言わなくてはと思っていたんだけれど」
シャインはジャーヴィスの言葉に深く頷いた。
水兵達の反感を買うのは二度とごめんである。
彼らはロワールハイネス号の処女航海で、一度は転属届を置いて船から出ていったのだ。ジャーヴィスの言う通り、事前に説明をしたほうがいいに決まっている。
「じゃ、君に頼んでいいかい? ジャーヴィス副長。ただしこれはストームを捕らえるための
作戦
であって、船を襲うのは当然芝居だし、積荷もこちらがちゃんと僚船で搬送する事を伝えて欲しい」「わかりました。明日こんなこと聞いていない、と、ごねる者がいたら面倒ですから、ちゃんと皆に理解させます」
ジャーヴィスは微笑して艦長室の扉を開いた。