【第2話・後日談】奇跡の赤(2)
文字数 4,084文字
◇◇◇
シャインはジャーヴィスと別れ、着替えをするため艦長室に戻るべく、後部甲板に向かって歩いていた。
水兵の半数は非番にしたので、彼等は死んだように下の甲板で眠り込んでいる。
現在当直中の8名も、昨夜寝ずに船の整備にいそしんだせいか眠そうであった。
しかしシャインが彼等の側を通り過ぎると、不満を顔に表している者は誰もいなかった。
水兵たちは皆、フォアマストを左右から支える横静索 が傷んでいるので、甲板に座り込み、ロープをよってそれを修繕する作業にかかっている。
白いシャツに濃紺のズボンという、水兵の制服に身を包んだ見張りのエリックさえも、時折目をこすりつつ、鼻歌を小さく口ずさみながら、ロープの組み継ぎ作業をやっている。
シャインの視線に気付いた彼は、片手を額の前にあげて挨拶をした。
円になって作業していた他の水兵達もそれにならう。
「ありがとう。君達が頑張って船を直してくれたから、無事にストームを引き渡すことができたよ」
水兵達は一瞬目を丸くして、まじまじとシャインの顔を見つめた。
彼等が驚くのも無理はない。
完全な縦社会である海軍において、船が大きかろうが小さかろうが艦長の存在は絶対であり法でもある。それに反する者は容赦なく罪人として裁かれる。航海中なら裁くのも艦長だ。そうしなければ船内の秩序と統率が守れない。
其れ故最下層の身分である水兵に、作業が遅いと叱責をくれる艦長は数多くいれど、労いの言葉をかけるそれはほとんどいない。
彼等の仕事は重労働の上、操船に欠かせないことばかりだが、そのために集められた人員なので、できて当たり前。いまさらほめることではない。
――確かにそうではあるが。
ここはロワールハイネス号なのだ。
だからシャインはシャインのやり方で船内を掌握する。
身を持って経験したのは、人は率先して動く者に強い信頼感を覚えるということだ。階級など関係ない。
シャインは今必要だと自分が思う事を実行するのみだ。
結果はその後ついてくる。きっと。
「非番まであと5分の辛抱だ。エリック」
シャインは手にした懐中時計の蓋を閉めた。
水兵達の顔色がみるみる明るくなる。
船では船尾にある船鐘を30分ごとに決められた数だけ打って時を告げる。
船鐘の側には30分計れる砂時計が置いてある。全ての砂が落ち切ったら、当直の者がそれを再びひっくりかえし、そして鐘を鳴らすのだ。
見張りのエリックはちらちらと砂時計を見ていた。もっとも彼等はメインマストの方を向いているので、遥か後方の船尾にある砂時計を見る事はできない。作業の手を休めて立ち上がらなくてはならないからだ。
シャインはそこで特別に残りの時間を口にした。
「ありがとうございます。艦長」
エリックがはにかんだ笑みを浮かべて下を向いた。
イヒヒと隣で作業していた大男のエルマが忍び笑いを漏らす。
「笑うな! タコ!」
ぽかりとエリックが拳でエルマの丸刈りの頭を殴った。
そこでどっと他の水兵達が笑い声をあげた。シャインもたまらず笑う。
いや、つられた。
「艦長までなんで笑うんですか! 俺、何か変ですかー?」
殴られたのはエルマのはずなのに。エリックの方が何故か涙目になっている。
「いや、すまなかった。つい。悪かった、作業を続けてくれ」
あまり騒ぐとジャーヴィスが何事かを気にしてこちらへやってくる。
シャインは彼の仕事をこれ以上増やす事は得策ではないと思い、水兵達に一瞥をくれると後部ハッチを開けて下甲板へと下りた。
背中ごしに水兵達が談笑を続ける声が聞こえてくる。
「艦長、元気そうでよかったな」
「だな。あの人が来なかったら、今頃どうなってただろうな」
「俺にはあんな啖呵はきれねぇよ。命がいくつあっても足りないぜ」
「というか、お前ん家はただの農家だろ。お前の身代金なんてせいぜい阿呆豆が一袋ってとこだなー」
「ひでーな。殴るぞ、タコ」
「そういや副長が言ってた。今夜はぱーてぃーするんだって」
「そうそう。今夜あの女海賊を捕まえたお祝いをするんだとよ」
「じゃ、今夜は飲み放題か?」
「そうみたいだぜ。クラウスさんが副長のお使いで出かけて行った」
「酒の手配かな」
「だろうな」
「やったぜー。今夜は飲むぞー」
再び水兵達が笑う声がしたかと思うと、カカーンと澄んだ張りのある鐘の音が響いてきた。
正午だ。
急がなくては。
シャインはそそくさと艦長室に入った。右舷側のクローゼットに近付き扉を開け、ケープのついた濃紺の航海服を取り出す。
ジャーヴィスには言わなかったが、シャインは外出したついでに、他にもやっておきたいことがあった。
「シャイン。出かけるの?」
航海服を着込んで、乱れた髪を編み直していた時、軽やかな少女の声がシャインの耳をくすぐるように響いてきた。
このロワールハイネス号に宿る船の魂・ロワールが、鮮やかな紅の長い髪を揺らしながら、艦長室の扉を背にして立っている。
「ああ。ちょっと出てくる」
クローゼットの扉の内側についた小さな鏡をのぞきこみ、シャインは薄紫の襟飾りの乱れを直した。その時、両手に巻かれた包帯に気付いた。
「……何か痛いと思ってたんだ」
鏡を覗き込んだシャインは小さく嘆息した。思い出した。
昨夜ストームとのやり取りの際に、あの女の刃を素手で握っていたため手のひらを切ってしまったのだった。
刃物の鋭利な傷口は半日そこらでは塞がらない。消毒液のおかげか、ずきずきと疼くような痛みは大分薄らいではいるが。
けれどこの痛みがシャインに教えてくれている。
今、こうして生きているということを。
自分をこの船に留めてくれたのは、ロワールやジャーヴィス達のおかげに他ならない。
「ロワール。ちょっと君に聞きたい事があるんだけどいいかい?」
クローゼットの扉を閉めて、シャインはロワールの方へ顔を向けた。
空のように透き通った瞳を輝かせてロワールが微笑んでいる。
「何?」
シャインはロワールを手招きした。
そのまま船尾の窓がある執務机まで呼び寄せる。
「何よ、シャイン」
「しっ。大きな声を出すと甲板まで聞こえる」
シャインは口の前に人差し指を当てると、本当に耳をすませなければ聞き取れないくらいの小さな声でつぶやいた。
「ジャーヴィス副長って、何が好きだろう?」
「……えっ?」
ロワールは拍子抜けしたように口を丸く開いてシャインを凝視している。
「どういうこと?」
まじまじとこちらを見つめるロワールへ、シャインは困ったように眉間を寄せた。
「ごめん。説明不足だったね。いや、今回彼にはいろいろ迷惑をかけたから、そのお詫びに何か贈り物をしようと思ってるんだ。でも、俺は彼のことをよく知らない。どんなものを選べば喜んでもらえるか、ひょっとしたら君なら知ってるんじゃないかと思って……」
ロワールは両手を組んでシャインを見上げた。
「どうして私なんかに聞くの? 直接あの人から聞けばいいじゃない」
シャインは駄目だといわんばかりに首を振った。
「そんなこと聞いたら、彼が驚いてしまうじゃないか! さりげなく渡したいんだ。でないとあのジャーヴィスのことだから、遠慮して絶対受け取ってもらえない」
ロワールは目眩に襲われたかのように額に手をやると、ううと顔を歪ませた。
「シャイン……あなたの言う事、ちょっと理解に苦しむわ。副長に贈り物をしたいという気持ちはわかったけど、どうして私に聞くの? 私だってあの人が何が好きかなんてさっぱりわからないわ」
「えっ。本当にわからないのかい? だって、君は船のレイディだろ? この船にいる限り、君にはすべてが見えているし、聞こえているんだ」
シャインはすがるような目でロワールに訴えかけた。
「誰かとの会話で、ジャーヴィスがそういう話をしたのを聞いた事はないかい?」
するとロワールはいかにも気分を害した様子で頬を膨らませた。小さな唇を尖らせてシャインをきっと見上げている。
「シャイン、それって最低よ。まるで私が何時でも皆の会話を盗み聞きしているみたいじゃない!」
「違う、ロワール。俺は……」
ロワールは肩をつかもうとしたシャインの手を振り払った。
「私だっていつでも『聞いて』いるんじゃないわ。『聞く』だけだったら、こうしてあなたの前に姿を現わす必要なんかないでしょ?」
「……ごめん」
シャインはロワールに謝った。
ロワールが怒るのは当然だ。
「悪かった。君を利用しようとしていたことは本当だ。でも、ジャーヴィスと仲の良いシルフィード航海長は療養所に行ってていないし、他に彼の好みを知っていそうな人がいないんだ」
「あの人は?」
ぽつりとロワールが口を開いた。
「ほら、一度船にきたじゃない。黒い髪でちょっときつい目の女艦長さん」
「ひょっとしてマリエステル艦長のことかい?」
ロワールはこっくりとうなずいた。
「そう。あの人、副長と知り合いなんでしょ。彼女に聞いてみたらどうなの?」
「マリエステル艦長か……そうだな。彼女はジャーヴィスと士官学校で同期だったと言っていたし。ありがとう、ロワール。そうしてみるよ」
「うふふー。シャインの役に立ててうれしいわ」
シャインはそそくさと艦長室の扉へと急いだ。
こうしている間にも時は過ぎていく。
「じゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃいー」
機嫌を直したロワールの満面の笑みで見送られながら、シャインは部屋を後にした。それにしても。
盗み聞きしているみたいに思われるのが嫌な癖に、ロワールはちゃっかりと自分達の会話を聞いている。
まあ、今回は知らないふりをしておこう。
シャインは肩をそびやかし、急いで階段を駆け上がった。
甲板に出ると船首の小さな煙突から薄い煙が昇っているのが見えた。
今日の昼食当番はミズンマストを担当するスレイン達の班だ。
焼き魚なのか、ちょっと焦げ臭いそれが周囲にたちこめている。
昼食はしばしおあずけだ。まずは詰所に行ってツヴァイス司令官にストームのことを報告しなければならない。シャインは一人、ロワールハイネス号を後にした。
シャインはジャーヴィスと別れ、着替えをするため艦長室に戻るべく、後部甲板に向かって歩いていた。
水兵の半数は非番にしたので、彼等は死んだように下の甲板で眠り込んでいる。
現在当直中の8名も、昨夜寝ずに船の整備にいそしんだせいか眠そうであった。
しかしシャインが彼等の側を通り過ぎると、不満を顔に表している者は誰もいなかった。
水兵たちは皆、フォアマストを左右から支える
白いシャツに濃紺のズボンという、水兵の制服に身を包んだ見張りのエリックさえも、時折目をこすりつつ、鼻歌を小さく口ずさみながら、ロープの組み継ぎ作業をやっている。
シャインの視線に気付いた彼は、片手を額の前にあげて挨拶をした。
円になって作業していた他の水兵達もそれにならう。
「ありがとう。君達が頑張って船を直してくれたから、無事にストームを引き渡すことができたよ」
水兵達は一瞬目を丸くして、まじまじとシャインの顔を見つめた。
彼等が驚くのも無理はない。
完全な縦社会である海軍において、船が大きかろうが小さかろうが艦長の存在は絶対であり法でもある。それに反する者は容赦なく罪人として裁かれる。航海中なら裁くのも艦長だ。そうしなければ船内の秩序と統率が守れない。
其れ故最下層の身分である水兵に、作業が遅いと叱責をくれる艦長は数多くいれど、労いの言葉をかけるそれはほとんどいない。
彼等の仕事は重労働の上、操船に欠かせないことばかりだが、そのために集められた人員なので、できて当たり前。いまさらほめることではない。
――確かにそうではあるが。
ここはロワールハイネス号なのだ。
だからシャインはシャインのやり方で船内を掌握する。
身を持って経験したのは、人は率先して動く者に強い信頼感を覚えるということだ。階級など関係ない。
シャインは今必要だと自分が思う事を実行するのみだ。
結果はその後ついてくる。きっと。
「非番まであと5分の辛抱だ。エリック」
シャインは手にした懐中時計の蓋を閉めた。
水兵達の顔色がみるみる明るくなる。
船では船尾にある船鐘を30分ごとに決められた数だけ打って時を告げる。
船鐘の側には30分計れる砂時計が置いてある。全ての砂が落ち切ったら、当直の者がそれを再びひっくりかえし、そして鐘を鳴らすのだ。
見張りのエリックはちらちらと砂時計を見ていた。もっとも彼等はメインマストの方を向いているので、遥か後方の船尾にある砂時計を見る事はできない。作業の手を休めて立ち上がらなくてはならないからだ。
シャインはそこで特別に残りの時間を口にした。
「ありがとうございます。艦長」
エリックがはにかんだ笑みを浮かべて下を向いた。
イヒヒと隣で作業していた大男のエルマが忍び笑いを漏らす。
「笑うな! タコ!」
ぽかりとエリックが拳でエルマの丸刈りの頭を殴った。
そこでどっと他の水兵達が笑い声をあげた。シャインもたまらず笑う。
いや、つられた。
「艦長までなんで笑うんですか! 俺、何か変ですかー?」
殴られたのはエルマのはずなのに。エリックの方が何故か涙目になっている。
「いや、すまなかった。つい。悪かった、作業を続けてくれ」
あまり騒ぐとジャーヴィスが何事かを気にしてこちらへやってくる。
シャインは彼の仕事をこれ以上増やす事は得策ではないと思い、水兵達に一瞥をくれると後部ハッチを開けて下甲板へと下りた。
背中ごしに水兵達が談笑を続ける声が聞こえてくる。
「艦長、元気そうでよかったな」
「だな。あの人が来なかったら、今頃どうなってただろうな」
「俺にはあんな啖呵はきれねぇよ。命がいくつあっても足りないぜ」
「というか、お前ん家はただの農家だろ。お前の身代金なんてせいぜい阿呆豆が一袋ってとこだなー」
「ひでーな。殴るぞ、タコ」
「そういや副長が言ってた。今夜はぱーてぃーするんだって」
「そうそう。今夜あの女海賊を捕まえたお祝いをするんだとよ」
「じゃ、今夜は飲み放題か?」
「そうみたいだぜ。クラウスさんが副長のお使いで出かけて行った」
「酒の手配かな」
「だろうな」
「やったぜー。今夜は飲むぞー」
再び水兵達が笑う声がしたかと思うと、カカーンと澄んだ張りのある鐘の音が響いてきた。
正午だ。
急がなくては。
シャインはそそくさと艦長室に入った。右舷側のクローゼットに近付き扉を開け、ケープのついた濃紺の航海服を取り出す。
ジャーヴィスには言わなかったが、シャインは外出したついでに、他にもやっておきたいことがあった。
「シャイン。出かけるの?」
航海服を着込んで、乱れた髪を編み直していた時、軽やかな少女の声がシャインの耳をくすぐるように響いてきた。
このロワールハイネス号に宿る船の魂・ロワールが、鮮やかな紅の長い髪を揺らしながら、艦長室の扉を背にして立っている。
「ああ。ちょっと出てくる」
クローゼットの扉の内側についた小さな鏡をのぞきこみ、シャインは薄紫の襟飾りの乱れを直した。その時、両手に巻かれた包帯に気付いた。
「……何か痛いと思ってたんだ」
鏡を覗き込んだシャインは小さく嘆息した。思い出した。
昨夜ストームとのやり取りの際に、あの女の刃を素手で握っていたため手のひらを切ってしまったのだった。
刃物の鋭利な傷口は半日そこらでは塞がらない。消毒液のおかげか、ずきずきと疼くような痛みは大分薄らいではいるが。
けれどこの痛みがシャインに教えてくれている。
今、こうして生きているということを。
自分をこの船に留めてくれたのは、ロワールやジャーヴィス達のおかげに他ならない。
「ロワール。ちょっと君に聞きたい事があるんだけどいいかい?」
クローゼットの扉を閉めて、シャインはロワールの方へ顔を向けた。
空のように透き通った瞳を輝かせてロワールが微笑んでいる。
「何?」
シャインはロワールを手招きした。
そのまま船尾の窓がある執務机まで呼び寄せる。
「何よ、シャイン」
「しっ。大きな声を出すと甲板まで聞こえる」
シャインは口の前に人差し指を当てると、本当に耳をすませなければ聞き取れないくらいの小さな声でつぶやいた。
「ジャーヴィス副長って、何が好きだろう?」
「……えっ?」
ロワールは拍子抜けしたように口を丸く開いてシャインを凝視している。
「どういうこと?」
まじまじとこちらを見つめるロワールへ、シャインは困ったように眉間を寄せた。
「ごめん。説明不足だったね。いや、今回彼にはいろいろ迷惑をかけたから、そのお詫びに何か贈り物をしようと思ってるんだ。でも、俺は彼のことをよく知らない。どんなものを選べば喜んでもらえるか、ひょっとしたら君なら知ってるんじゃないかと思って……」
ロワールは両手を組んでシャインを見上げた。
「どうして私なんかに聞くの? 直接あの人から聞けばいいじゃない」
シャインは駄目だといわんばかりに首を振った。
「そんなこと聞いたら、彼が驚いてしまうじゃないか! さりげなく渡したいんだ。でないとあのジャーヴィスのことだから、遠慮して絶対受け取ってもらえない」
ロワールは目眩に襲われたかのように額に手をやると、ううと顔を歪ませた。
「シャイン……あなたの言う事、ちょっと理解に苦しむわ。副長に贈り物をしたいという気持ちはわかったけど、どうして私に聞くの? 私だってあの人が何が好きかなんてさっぱりわからないわ」
「えっ。本当にわからないのかい? だって、君は船のレイディだろ? この船にいる限り、君にはすべてが見えているし、聞こえているんだ」
シャインはすがるような目でロワールに訴えかけた。
「誰かとの会話で、ジャーヴィスがそういう話をしたのを聞いた事はないかい?」
するとロワールはいかにも気分を害した様子で頬を膨らませた。小さな唇を尖らせてシャインをきっと見上げている。
「シャイン、それって最低よ。まるで私が何時でも皆の会話を盗み聞きしているみたいじゃない!」
「違う、ロワール。俺は……」
ロワールは肩をつかもうとしたシャインの手を振り払った。
「私だっていつでも『聞いて』いるんじゃないわ。『聞く』だけだったら、こうしてあなたの前に姿を現わす必要なんかないでしょ?」
「……ごめん」
シャインはロワールに謝った。
ロワールが怒るのは当然だ。
「悪かった。君を利用しようとしていたことは本当だ。でも、ジャーヴィスと仲の良いシルフィード航海長は療養所に行ってていないし、他に彼の好みを知っていそうな人がいないんだ」
「あの人は?」
ぽつりとロワールが口を開いた。
「ほら、一度船にきたじゃない。黒い髪でちょっときつい目の女艦長さん」
「ひょっとしてマリエステル艦長のことかい?」
ロワールはこっくりとうなずいた。
「そう。あの人、副長と知り合いなんでしょ。彼女に聞いてみたらどうなの?」
「マリエステル艦長か……そうだな。彼女はジャーヴィスと士官学校で同期だったと言っていたし。ありがとう、ロワール。そうしてみるよ」
「うふふー。シャインの役に立ててうれしいわ」
シャインはそそくさと艦長室の扉へと急いだ。
こうしている間にも時は過ぎていく。
「じゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃいー」
機嫌を直したロワールの満面の笑みで見送られながら、シャインは部屋を後にした。それにしても。
盗み聞きしているみたいに思われるのが嫌な癖に、ロワールはちゃっかりと自分達の会話を聞いている。
まあ、今回は知らないふりをしておこう。
シャインは肩をそびやかし、急いで階段を駆け上がった。
甲板に出ると船首の小さな煙突から薄い煙が昇っているのが見えた。
今日の昼食当番はミズンマストを担当するスレイン達の班だ。
焼き魚なのか、ちょっと焦げ臭いそれが周囲にたちこめている。
昼食はしばしおあずけだ。まずは詰所に行ってツヴァイス司令官にストームのことを報告しなければならない。シャインは一人、ロワールハイネス号を後にした。