第12話 置き換えられる〈少女〉

文字数 2,499文字

 少女はずっと存在していました。
 しかし、置き換えられる存在としての〈少女〉が

のは、八〇年代の初期だと言えます。

 川の流れのような、継続的且つ連続的な時間認識を前提とした、未成熟な女としての〈小娘〉ではなく、そうした時間認識から切り離され、それ以上成熟も変化もしない〈少女〉――〈セーラー服と機関銃〉の薬師丸ひろ子や〈時をかける少女〉の原田知世が、新しいポップ・アイコンの座を獲得したのです。
 彼女たちが同じく八〇年代の『うる星やつら』の〈ラム〉や、九〇年代の〈新世紀エヴァンゲリオン〉における〈綾波レイ〉らと異なるのは、消費者にとって、彼女たちは単なる〈萌え〉の対象ではなく、むしろ〈現実〉の〈わたしたち〉と置き換え可能な存在だった点です。

 なぜそれが〈少女〉だったかと言えば、ゴジラとなって破壊するより、〈健さん〉となって殴り込みをかけるより、楽しく自由でいられるような気がしたからに他なりません。この「

」というのが、八〇年代におけるわたしたちの心的態度を決定づけるキーワードだったのです。
 こうした〈少女〉のイメージは、八〇年代のサブカルチャーをごく普通に消費していた最大多数の人々にとって、筒井康隆原作の『時をかける少女』より、むしろ大林宣彦監督の映画〈時をかける少女〉によって、あるいは松任谷由美が作詞・作曲した主題歌によって形成されていたのではないでしょうか。
 ここで映画の主題歌〈時をかける少女〉の歌詞のサワリの部分を見てみましょう。

 時をかける少女
 愛は輝く舟
 過去も未来も星座も超えるから
 抱きとめて

「過去も未来も星座も超え」てしまうという乙女チックな飛躍。なんだかひどく自由で楽しげで、それでいて一人でどこかへ飛んでいってしまうほど〈独立した存在〉ではなく、「抱きとめて」と男に甘えてくれる、そんないかにも男性目線的なかわいらしい存在が、この時期のポップ・アイコンとしての〈少女〉のイメージだったのです。
 たとえその場所が、〈システムの

〉に設けられた遊園地に過ぎなくても、少なくともその場所に留まっている限り、それなりに楽しくやっていくことができました。
 派手に機関銃を撃とうが超能力を使おうが、所詮は遊園地のアトラクションにすぎず、そして、アトラクションである限りはどんな行為も許されたからです。

 システムを築いたのはアメリカであっても、そのシステムの中の、実際に

ところで偉そうにしていたのは同じ日本人であり、更に言えば頭の禿げかけ、腹の突き出た〈オジサン〉たちでした。そうした相手を機関銃でちょっとおどかしてみるのは、そのシステムに従わざるを得ない最大公約数にとっては痛快であり、システム側にいる者たちにしても、それが

何の力も持たぬアトラクションであるが故に、一緒に笑っていられたのです。

 ノスタルジーの問題にしても同じことです。六〇年代の任侠映画をノスタルジーの観点から捉えれば、それは〈古き良き日本〉に対する愛惜の念でした。
 もし戦前の日本を懐かしむなら、どうしてもそれを断絶させたアメリカ、及びそのアメリカが築いた戦後のシステム――つまり、〈大きな物語〉を批判せざるを得ません。

 しかし、八〇年代の〈わたしたち〉は、既に日本がアメリカなしでは立ち行かぬことを十分に理解していましたし、「ヤンキー、ゴー、ホーム」のシュプレヒコールがいかに虚しく滑稽であるかも身にしみて知っていました。
 だからこそ、〈健さん〉は十七歳の薬師丸ひろ子に置き換えられなければならなかったし、また断絶を挟んだ遠い〈戦前〉を懐かしむのではなく、ついこの間自分が出てきた場所としての〈学園生活〉を懐かしむという、ごく狭い個人史に限定されたノスタルジー映画〈時をかける少女〉が人気を博すことになったのです。

 波戸岡景太は『ラノベのなかの現代日本―ポップ/ぼっち/ノスタルジア』の中で、大江健三郎『万延元年のフットボール』と村上春樹『1973年のピンボール』におけるノスタルジーの質の違いについて興味深い指摘を行っています。

 一九八〇年に雑誌発表された村上春樹の第二長編が、『一九七三年のピンボール』(書籍名は『1973年のピンボール』)という題をとり、『万延元年のフットボール』が抱え込もうとした一世紀という歳月を、たった十年にも満たない「近過去」へのノスタルジアとしてまとめあげてしまった(後略)※1

 波戸岡は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を、「四国の森における前近代的社会の革命史を、現代の学生運動の挫折とオーバーラップさせ」た作品であるとし、そしてこの「前近代的社会」は、「高度成長の果てのノスタルジアとして立ち現れてきた」ものだと述べます。一方、村上春樹の『1973年のピンボール』という題が示すものは、1980年時点から1973年を眺めてもノスタルジーを感じることができるという感覚であり、そこに両者の違いがあると指摘しているのです。
 この時の村上春樹の感覚が、やはり

と言えるのは、今の〈わたしたち〉が一般的にノスタルジーの物語と言う時、「一世紀」前の〈古き良き日本〉ではなく、「近過去」――それも極めて個人的且つ無害な、甘酸っぱい〈学園生活〉をイメージしてしまうことに端的に現われています。

〈わたしたち〉は、ゴジラであろうとすることをやめ、〈健さん〉であろうとすることをやめました。それは、あくまでシステムの

で、楽しく、自由にやっていくことを選択したことを意味していました。

 その選択のために必要だったもの――
 それが、〈少女〉だったのです。

 システムの側にいるオジサンにちょっと悪戯(おいた)をしても、

許されてしまう少女。
 無害で、甘酸っぱいノスタルジーの象徴としての、可憐で透明感のある〈少女〉。
 そうしたイメージで、わたしたちは自らの〈現実〉を置き換えようとしたのです。

※1 波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本――ポップ/ぼっち/ノスタルジア』、講談社現代新書、二〇一三年、一五八頁―一五九頁。
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