第10話 かつて〈ゴジラ〉であった〈わたしたち〉
文字数 1,672文字
高橋敏夫は『ゴジラが来る夜に』の中で「ゴジラとは誰なのか」と問いかけました。
いったい、ゴジラとは誰なのか。
ゴジラとは、1954年当時の人々であった。
そして、ゴジラは、1954年当時を生きていたわたしたちであるとともに、その時代からはじまった高度成長によって区切られた時代に属するわたしたちでもある、ということになるだろう。 ※1
高橋敏夫は「ゴジラとは誰なのか」という自ら発した問いに対し、それは〈わたしたち〉であると答えています。
なぜ、あのお世辞にもスマートとは言い難い外観を持つ〈怪獣〉が〈わたしたち〉なのでしょうか?
それは、〈わたしたち〉の中に、ゴジラの圧倒的な破壊を見て、「快楽を感じる」部分があるからだ、と高橋は言います。
工場を破壊し、鉄橋を破壊し、銀座の街を破壊し、走る列車を破壊し、テレビ塔を破壊し、パトカーを破壊し、防衛庁を潰滅し、国会議事堂を破壊する。その「恐怖のゴジラ」の、ひとつひとつの破壊に、人々は「快楽としてのゴジラ」を感じていたのである。※ 2
その「快楽としてのゴジラ」は、高度成長時代に築かれた様々なシステムに対する一種の違和感、嫌悪感と無縁ではありません。そして、その源は高度成長時代前の6年8か月に及ぶ被占領時代へ、更に敗戦直後の時代へと遡るのです。
北杜夫は『どくとるマンボウ青春記』の中で、以下のように書いています。
私は幼児そのままの皇国不敗の信念のなかで青春期の入口に達した。その日本は木っ端微塵に敗れた。すると、それまで聞いたこともないデモクラシーとかいうものがやってきた。一体、どこの国のどこの州の名前かと戸惑うほどである。デモクラシーでなければ一切がいけなく、日本が戦ったことは野蛮な軍国主義で、生命を賭けて戦った者はもとより、それに協力した者も一切がいけないとされた。父はもちろん戦犯候補者である。※3
北杜夫がドイツの文豪トーマス・マンに傾倒していたことはよく知られていますが、最初に文学に対する眼を開いてくれたのは、トーマス・マンではなくむしろ父・斎藤茂吉である、と北杜夫自身がエッセイの中で繰り返し語っています。引用部は、意識的にあえて〈政治〉を語ろうとしなかった北杜夫が、父を戦犯候補者にした〈政治〉に対し、激しい怒りを表明した稀有 な例であり、敗戦直後の世相に対する嫌悪感がいかに強烈なものであったかが窺われます。
多くの歴史書が、敗戦後の日本に起こった価値観の急激な変化、あるいは顚覆を、一般の日本人はさしたる混乱もなく、速やかに受け入れたと述べています。
しかし、世相に対する嫌悪感や違和感が、この時代の深層に存在していなかったとは言えません。
例えば、ゴジラがスクリーンに初登場したのと同じ1954年に発表された小島信夫の『アメリカン・スクール 』には、アメリカン・スクールを見学するために「六粁」の道を拷問のように延々と歩かされる教師たちが描かれています。
また、その四年後の1958年に発表された大江健三郎の『人間の羊 』における、バスの中でズボンを下ろされ、後ろ向きになって尻を晒すことを米兵に強要される日本人青年の姿のうちにも、アメリカに対して当時の日本人が抱いていた、あるどうしようもない屈辱感と劣等感が描き出されています。
こうした深層的な負の感情が、ただひたすら破壊し続ける怪獣であるゴジラの姿に呼び覚まされ、共鳴し、そこに一種の暗い「快楽」を見出したのだと考えられます。
六〇年代の学園紛争は、アメリカ、またはアメリカ〈指導〉の下に構築された様々なシステムに対する表層化した拒否反応であり、それを一言で要約すれば、「ヤンキー、ゴー、ホーム」ということになります。
※1 高橋敏夫『ゴジラが来る夜に――「思考をせまる怪獣」の現代史』、集英社文庫、一九九九年、四二頁。
※2 高橋敏夫『ゴジラが来る夜に――「思考をせまる怪獣」の現代史』、集英社文庫、一九九九年、一四八頁。
※3 北杜夫『どくとるマンボウ青春記』、新潮文庫、二〇〇〇年、二六〇頁―二六一頁。
いったい、ゴジラとは誰なのか。
ゴジラとは、1954年当時の人々であった。
そして、ゴジラは、1954年当時を生きていたわたしたちであるとともに、その時代からはじまった高度成長によって区切られた時代に属するわたしたちでもある、ということになるだろう。 ※1
高橋敏夫は「ゴジラとは誰なのか」という自ら発した問いに対し、それは〈わたしたち〉であると答えています。
なぜ、あのお世辞にもスマートとは言い難い外観を持つ〈怪獣〉が〈わたしたち〉なのでしょうか?
それは、〈わたしたち〉の中に、ゴジラの圧倒的な破壊を見て、「快楽を感じる」部分があるからだ、と高橋は言います。
工場を破壊し、鉄橋を破壊し、銀座の街を破壊し、走る列車を破壊し、テレビ塔を破壊し、パトカーを破壊し、防衛庁を潰滅し、国会議事堂を破壊する。その「恐怖のゴジラ」の、ひとつひとつの破壊に、人々は「快楽としてのゴジラ」を感じていたのである。※ 2
その「快楽としてのゴジラ」は、高度成長時代に築かれた様々なシステムに対する一種の違和感、嫌悪感と無縁ではありません。そして、その源は高度成長時代前の6年8か月に及ぶ被占領時代へ、更に敗戦直後の時代へと遡るのです。
北杜夫は『どくとるマンボウ青春記』の中で、以下のように書いています。
私は幼児そのままの皇国不敗の信念のなかで青春期の入口に達した。その日本は木っ端微塵に敗れた。すると、それまで聞いたこともないデモクラシーとかいうものがやってきた。一体、どこの国のどこの州の名前かと戸惑うほどである。デモクラシーでなければ一切がいけなく、日本が戦ったことは野蛮な軍国主義で、生命を賭けて戦った者はもとより、それに協力した者も一切がいけないとされた。父はもちろん戦犯候補者である。※3
北杜夫がドイツの文豪トーマス・マンに傾倒していたことはよく知られていますが、最初に文学に対する眼を開いてくれたのは、トーマス・マンではなくむしろ父・斎藤茂吉である、と北杜夫自身がエッセイの中で繰り返し語っています。引用部は、意識的にあえて〈政治〉を語ろうとしなかった北杜夫が、父を戦犯候補者にした〈政治〉に対し、激しい怒りを表明した
多くの歴史書が、敗戦後の日本に起こった価値観の急激な変化、あるいは顚覆を、一般の日本人はさしたる混乱もなく、速やかに受け入れたと述べています。
しかし、世相に対する嫌悪感や違和感が、この時代の深層に存在していなかったとは言えません。
例えば、ゴジラがスクリーンに初登場したのと同じ1954年に発表された小島信夫の『アメリカン・スクール 』には、アメリカン・スクールを見学するために「六粁」の道を拷問のように延々と歩かされる教師たちが描かれています。
また、その四年後の1958年に発表された大江健三郎の『人間の羊 』における、バスの中でズボンを下ろされ、後ろ向きになって尻を晒すことを米兵に強要される日本人青年の姿のうちにも、アメリカに対して当時の日本人が抱いていた、あるどうしようもない屈辱感と劣等感が描き出されています。
こうした深層的な負の感情が、ただひたすら破壊し続ける怪獣であるゴジラの姿に呼び覚まされ、共鳴し、そこに一種の暗い「快楽」を見出したのだと考えられます。
六〇年代の学園紛争は、アメリカ、またはアメリカ〈指導〉の下に構築された様々なシステムに対する表層化した拒否反応であり、それを一言で要約すれば、「ヤンキー、ゴー、ホーム」ということになります。
※1 高橋敏夫『ゴジラが来る夜に――「思考をせまる怪獣」の現代史』、集英社文庫、一九九九年、四二頁。
※2 高橋敏夫『ゴジラが来る夜に――「思考をせまる怪獣」の現代史』、集英社文庫、一九九九年、一四八頁。
※3 北杜夫『どくとるマンボウ青春記』、新潮文庫、二〇〇〇年、二六〇頁―二六一頁。