第13話 〈萌えキャラ〉とポップ・アイコン
文字数 3,552文字
ここまで八〇年代の〈少女〉について語ってきた理由は、ゼロ年代に登場した〈涼宮ハルヒ〉という存在が、オタク文化の一表象ではなく、実は八〇年代初期における薬師丸ひろ子や原田知世といった存在に近い性質を持っていることを指摘したかったからです。
冒頭でも述べた通り、谷川流の〈涼宮ハルヒ〉シリーズは、オタク文化と密接な関係を持つライトノベルの代表作であり、主要登場人物の〈長門有希〉も〈朝比奈みくる〉も、その造形及び設定は、典型的な〈萌えキャラ〉として描かれています。
しかし、〈涼宮ハルヒ〉だけは違います。
美少女という設定でこそあるものの、前述したように〈涼宮ハルヒ〉は、〈長門有希〉や〈朝比奈みくる〉と較べて明らかに〈萌え要素〉が不足しています。いや、本人があえて〈萌え〉の対象となることを避けているような
例を挙げましょう。高校入学当初、〈ハルヒ〉が毎日髪型を変えて登校してきたというエピソードがそれに当たります。以下、引用です。
髪型が毎日変わる。何となく眺めているうちにある法則性があることに気付いたのだが、それはつまり、月曜日のハルヒはストレートのロングヘアを普通に背中に垂らして登場する。次の日、どこから見ても非のうちどころのないポニーテールでやって来て、それがまたいやになるくらい似合っていたのだが、その次の日、今度は頭の両脇で髪をくくるツインテールで登校し、さらに次の日になると三つ編みになり、そして金曜日の髪型は頭の四ヶ所を適当にまとめてリボンで結ぶというすこぶる奇妙なものになる 。※1
東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で、「触角のように刎ねた髪 」※2を「萌え要素」の一例として紹介していますが、髪型というのは確かに、オタク文化におけるキャラクター設定上、重要な〈萌え要素〉の一つになります。それ故に、髪型は基本的にキャラクター属性として固定されることになり、もし変更されることがあるとすれば、男性主人公の嗜好に合わせる場合で、所謂〈ツンデレ型ヒロイン〉に多いパターンだと言えます。
〈涼宮ハルヒ〉シリーズにおいても、例えば〈長門有希〉は、〈キョン〉に「してないほうが可愛いと思うぞ」と言われると、それ以来二度とメガネをしなくなるのですが、ライトノベルにおける暗黙のルールから見れば、毎日目まぐるしく髪型を変える〈ハルヒ〉よりも、〈長門有希〉の方が典型的な登場人物だということになります。
そんな〈ハルヒ〉が、
硬い椅子にどっかと腰を下ろし、俺はハルヒの顔をうかがった。耳の上から垂れる髪が横顔を覆っていて表情が解りにくい。ただ、まあ、あんまり上機嫌ではなさそうだ。少なくとも、顔の面だけは。
「ハルヒ」
「なに?」
窓の外から視線を外さないハルヒに、俺は言ってやった。
「似合ってるぞ」 ※3
といういかにも「ツンデレ」的な展開でありながら、これに続く〈エピローグ〉に、「その昼にはあっさり髪をほどいて元のストレートヘアに戻してしまった」とあるように、ハルヒは自らが〈ツンデレ型ヒロイン〉になりかけると、そうした
この作品が優れてメタフィクション的である所以 は、主人公の〈ハルヒ〉が、物語内における己の役割を自覚し、読者の反応を予想、あるいは想定した行動をとる点にあります。〈ハルヒ〉が〈朝比奈みくる〉を強引に「SOS団 」※4に入団させる場面に、それがかなり明確に描かれています。
ハルヒは指を朝比奈みくるさんの鼻先に突きつけ彼女の小さい肩をすくませて、
「めちゃめちゃ可愛いでしょう」
アブナイ誘拐犯のようなことを言い出した。と思ったら、
「あたしね、萌えってけっこう重要なことだと思うのよね」
「……すまん、何だって?」
「萌えよ萌え。いわゆる一つの萌え要素。基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」※5
「何かおかしな事件が起こるような物語」という〈ハルヒ〉の言葉は、自分を〈物語〉の登場人物と認めているかのような発言であり、更にその種の〈物語〉の読者が〈オタク〉と呼ばれる層に属し、彼らがどんな〈萌え要素〉を求めているかまで知悉していることを示しています。「萌えってけっこう重要なことだ」というのは、自分にとっての重要さではなく、
〈涼宮ハルヒ〉シリーズは、確かにオタク層にアピールするように創られています。
しかし、主人公の〈ハルヒ〉自身はオタクを理解しながらも、オタクに媚びません。この点は注意する必要があります。
なぜなら、〈ハルヒ〉が〈萌え要素〉的に特化された存在でないために、そのイメージは謂 わば〈ふつうにかわいい〉のであり、だからこそ、八〇年代初期の薬師丸ひろ子や原田知世と同じく、特定の層にとらわれぬ、より広く大衆にアピールするポップ・アイコンとなり得たからです。
また〈ハルヒ〉は、自らがポップ・アイコンとなるだけでなく、作中で〈朝比奈みくる〉という〈萌えキャラ〉をプロデュースする役割 も担っています。作中で、一種のパターンと化しているところの、〈ハルヒ〉が〈朝比奈みくる〉を
文化祭用の自主映画を撮ることにした〈ハルヒ〉は、〈朝比奈みくる〉を主役に据え、自らは〈超監督〉として、正に〈萌え要素〉のみを繋ぎ合わせたような映画を撮るのですが、ここではライトノベルそのものが戯画化されると同時に、その読者であるオタクたちは、合わせ鏡でも見るように自らの姿を客観視させられることになります。
つまり、〈ハルヒ〉は自らは〈萌えキャラ〉化することなく、自分の身近にいる登場人物を〈萌えキャラ〉としてプロデュースすることによって、読者であるオタク層を満足させるのです。こうした〈ハルヒ〉の立ち位置は、極めてメタフィクション的だと言えます。
ポップ・アイコンとしての〈ハルヒ〉の力は、東日本大震災の折の活動の中でも十分に示されました。原作者である谷川流と、〈涼宮ハルヒ〉という〈少女〉に具体的イメージを賦与したイラストレーターいとうのいぢが、震災の一か月後、2011年4月に行った対談の一部を以下に引用します。
いとう:「ハルヒの力って本当にすごい」って思ったのが、今回の東日本大震災の時。色んな方に見て頂けて、「元気が出ました」って嬉しいお言葉も沢山頂きました。許可もなくハルヒを描いてしまって申し訳なかったんですけど……。
谷川:全然問題ないです。
いとう:ありがとうございます。チャリティで描かせてもらったイラストも、みんなハルヒ大好きなんだなっていう反響が伝わってきて。このパワーはいったいどこから!? と 。※6
「色んな方に見て頂けて」、「みんなハルヒ大好きなんだなっていう反響が伝わってき」た等の言葉は、〈ハルヒ〉の人気が決してオタク的ファンに限定されたものではないことを表しています。
しかも、いとうのいぢが「許可もなくハルヒを描いてしまって」と言っているように、そのイメージが背景にある〈物語〉から切り離され、独り歩きしている状況は、正に時代を代表するポップ・アイコンとしての地位を〈ハルヒ〉が築き上げていることの証明でもあります。
※1 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、二三頁。
※2 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、二〇〇一年、六六頁―六七頁。
※3 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、二九二頁―二九三頁。
※4 「SOS団」とは「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」の略であり、その活動内容は「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」だが、既にその団員たち(語り手であるキョンを除く)が、長門有希=宇宙人、朝比奈みくる=未来人、古泉一樹=超能力者という構成になっている。しかし、涼宮ハルヒだけがその事実を知らず、所謂「平凡な日常」を疑わない点がアイロニーになっている。
※5 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、六〇頁―六一頁。
※6 スニーカー文庫編集部編『涼宮ハルヒの観測』、角川スニーカー文庫、二〇一一年、一五八頁。
冒頭でも述べた通り、谷川流の〈涼宮ハルヒ〉シリーズは、オタク文化と密接な関係を持つライトノベルの代表作であり、主要登場人物の〈長門有希〉も〈朝比奈みくる〉も、その造形及び設定は、典型的な〈萌えキャラ〉として描かれています。
しかし、〈涼宮ハルヒ〉だけは違います。
美少女という設定でこそあるものの、前述したように〈涼宮ハルヒ〉は、〈長門有希〉や〈朝比奈みくる〉と較べて明らかに〈萌え要素〉が不足しています。いや、本人があえて〈萌え〉の対象となることを避けているような
ふし
さえあるのです。例を挙げましょう。高校入学当初、〈ハルヒ〉が毎日髪型を変えて登校してきたというエピソードがそれに当たります。以下、引用です。
髪型が毎日変わる。何となく眺めているうちにある法則性があることに気付いたのだが、それはつまり、月曜日のハルヒはストレートのロングヘアを普通に背中に垂らして登場する。次の日、どこから見ても非のうちどころのないポニーテールでやって来て、それがまたいやになるくらい似合っていたのだが、その次の日、今度は頭の両脇で髪をくくるツインテールで登校し、さらに次の日になると三つ編みになり、そして金曜日の髪型は頭の四ヶ所を適当にまとめてリボンで結ぶというすこぶる奇妙なものになる 。※1
東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で、「触角のように刎ねた髪 」※2を「萌え要素」の一例として紹介していますが、髪型というのは確かに、オタク文化におけるキャラクター設定上、重要な〈萌え要素〉の一つになります。それ故に、髪型は基本的にキャラクター属性として固定されることになり、もし変更されることがあるとすれば、男性主人公の嗜好に合わせる場合で、所謂〈ツンデレ型ヒロイン〉に多いパターンだと言えます。
〈涼宮ハルヒ〉シリーズにおいても、例えば〈長門有希〉は、〈キョン〉に「してないほうが可愛いと思うぞ」と言われると、それ以来二度とメガネをしなくなるのですが、ライトノベルにおける暗黙のルールから見れば、毎日目まぐるしく髪型を変える〈ハルヒ〉よりも、〈長門有希〉の方が典型的な登場人物だということになります。
そんな〈ハルヒ〉が、
珍しく
〈キョン〉のために、わざわざポニーテールの髪型で登校してくる場面があります。『涼宮ハルヒの憂鬱』の末尾近くです。硬い椅子にどっかと腰を下ろし、俺はハルヒの顔をうかがった。耳の上から垂れる髪が横顔を覆っていて表情が解りにくい。ただ、まあ、あんまり上機嫌ではなさそうだ。少なくとも、顔の面だけは。
「ハルヒ」
「なに?」
窓の外から視線を外さないハルヒに、俺は言ってやった。
「似合ってるぞ」 ※3
といういかにも「ツンデレ」的な展開でありながら、これに続く〈エピローグ〉に、「その昼にはあっさり髪をほどいて元のストレートヘアに戻してしまった」とあるように、ハルヒは自らが〈ツンデレ型ヒロイン〉になりかけると、そうした
オタク的期待を裏切って
、さっと身を翻してしまうのです。この作品が優れてメタフィクション的である
ハルヒは指を朝比奈みくるさんの鼻先に突きつけ彼女の小さい肩をすくませて、
「めちゃめちゃ可愛いでしょう」
アブナイ誘拐犯のようなことを言い出した。と思ったら、
「あたしね、萌えってけっこう重要なことだと思うのよね」
「……すまん、何だって?」
「萌えよ萌え。いわゆる一つの萌え要素。基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」※5
「何かおかしな事件が起こるような物語」という〈ハルヒ〉の言葉は、自分を〈物語〉の登場人物と認めているかのような発言であり、更にその種の〈物語〉の読者が〈オタク〉と呼ばれる層に属し、彼らがどんな〈萌え要素〉を求めているかまで知悉していることを示しています。「萌えってけっこう重要なことだ」というのは、自分にとっての重要さではなく、
読者にとっての
重要さである点は言うまでもないでしょう。〈涼宮ハルヒ〉シリーズは、確かにオタク層にアピールするように創られています。
しかし、主人公の〈ハルヒ〉自身はオタクを理解しながらも、オタクに媚びません。この点は注意する必要があります。
なぜなら、〈ハルヒ〉が〈萌え要素〉的に特化された存在でないために、そのイメージは
また〈ハルヒ〉は、自らがポップ・アイコンとなるだけでなく、作中で〈朝比奈みくる〉という〈萌えキャラ〉をプロデュースする役割 も担っています。作中で、一種のパターンと化しているところの、〈ハルヒ〉が〈朝比奈みくる〉を
いじる
過程において、〈萌え要素〉が手を替え品を替え現れるのは、その理由に拠ります。こうした〈萌えキャラ〉プロデューサーとしての〈ハルヒ〉の一面が最も強く出たと考えられるのは、第二作『涼宮ハルヒの溜息』(2003年)でしょう。文化祭用の自主映画を撮ることにした〈ハルヒ〉は、〈朝比奈みくる〉を主役に据え、自らは〈超監督〉として、正に〈萌え要素〉のみを繋ぎ合わせたような映画を撮るのですが、ここではライトノベルそのものが戯画化されると同時に、その読者であるオタクたちは、合わせ鏡でも見るように自らの姿を客観視させられることになります。
つまり、〈ハルヒ〉は自らは〈萌えキャラ〉化することなく、自分の身近にいる登場人物を〈萌えキャラ〉としてプロデュースすることによって、読者であるオタク層を満足させるのです。こうした〈ハルヒ〉の立ち位置は、極めてメタフィクション的だと言えます。
ポップ・アイコンとしての〈ハルヒ〉の力は、東日本大震災の折の活動の中でも十分に示されました。原作者である谷川流と、〈涼宮ハルヒ〉という〈少女〉に具体的イメージを賦与したイラストレーターいとうのいぢが、震災の一か月後、2011年4月に行った対談の一部を以下に引用します。
いとう:「ハルヒの力って本当にすごい」って思ったのが、今回の東日本大震災の時。色んな方に見て頂けて、「元気が出ました」って嬉しいお言葉も沢山頂きました。許可もなくハルヒを描いてしまって申し訳なかったんですけど……。
谷川:全然問題ないです。
いとう:ありがとうございます。チャリティで描かせてもらったイラストも、みんなハルヒ大好きなんだなっていう反響が伝わってきて。このパワーはいったいどこから!? と 。※6
「色んな方に見て頂けて」、「みんなハルヒ大好きなんだなっていう反響が伝わってき」た等の言葉は、〈ハルヒ〉の人気が決してオタク的ファンに限定されたものではないことを表しています。
しかも、いとうのいぢが「許可もなくハルヒを描いてしまって」と言っているように、そのイメージが背景にある〈物語〉から切り離され、独り歩きしている状況は、正に時代を代表するポップ・アイコンとしての地位を〈ハルヒ〉が築き上げていることの証明でもあります。
※1 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、二三頁。
※2 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、二〇〇一年、六六頁―六七頁。
※3 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、二九二頁―二九三頁。
※4 「SOS団」とは「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」の略であり、その活動内容は「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」だが、既にその団員たち(語り手であるキョンを除く)が、長門有希=宇宙人、朝比奈みくる=未来人、古泉一樹=超能力者という構成になっている。しかし、涼宮ハルヒだけがその事実を知らず、所謂「平凡な日常」を疑わない点がアイロニーになっている。
※5 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』、角川スニーカー文庫、二〇〇三年、六〇頁―六一頁。
※6 スニーカー文庫編集部編『涼宮ハルヒの観測』、角川スニーカー文庫、二〇一一年、一五八頁。