第7話 ノスタルジーのメカニズム

文字数 2,216文字

〈涼宮ハルヒ〉シリーズはライトノベルとされているが、SF的首尾結構は整っているし、センス・オブ・ワンダーにもSF的合理主義精神にも欠けるところはない。※1

 以上は、筒井康隆の『創作の極意と掟』からの引用です。
 このように筒井康隆は谷川流の〈涼宮ハルヒ〉シリーズー―とりわけ第四巻『涼宮ハルヒの消失』を高く評価しています。
 引用した一節は、タイトル部分を『時をかける少女』と入れ換えれば、そのまま筒井自身の作品の解説になっているように見えます。つまり――

『時をかける少女』はジュブナイルとされているが、SF的首尾結構は整っているし、センス・オブ・ワンダーにもSF的合理主義精神にも欠けるところはない。

 この作品は、筒井康隆が書いた小説『時をかける少女』(1965年~1966年)より、むしろそれを原作とした1983年の映画〈時をかける少女〉(原田知世主演・大林宣彦監督)の方が有名ですが、原作を映画と切り離して読んでも、中篇のSF小説として、今読んでも十分におもしろい作品だと思います。
 ただ、ここで問題にしたいのは、筒井康隆の原作は〈SF的首尾結構の整った〉、〈センス・オブ・ワンダーにもSF的合理主義精神にも欠けるところはない〉作品であるものの、必ずしも

という点です。

 一方の、大林宣彦監督の映画〈時をかける少女〉(混乱を避けるために、原作小説のタイトルは『』で、映画版は〈〉で表します)は、むしろノスタルジックな学園ものとしての性格を強調した作品であり、商業映画としての成功はこのノスタルジー要素に負うところが多かったように感じられます。

 大林宣彦監督作品として見れば、〈時をかける少女〉は所謂〈尾道三部作〉の二作目にあたります。
 大林が〈尾道〉という自身の故郷を繰り返し映像化したことはよく知られていますが、なぜ〈尾道〉の古びた町並みをうつした映像が、その土地を故郷とする大林本人だけでなく、土地自体には縁もゆかりもない多数の観客の心にまでノスタルジーを覚えさせるのでしょうか。

 ノスタルジーというのは、詰まるところ〈後ろ向きの距離感〉から生じます。
 例えば、愛するものが遠くへ去ってしまった時、人の心にはある痛切な感情が生じるわけですが、筒井康隆の『時をかける少女』の中で、主人公の〈芳山和子〉が、〈深町一夫〉は実は西暦2660年から来た未来人であると知った時に感じるものは、いくら痛切であってもノスタルジーとは言えません。
 ノスタルジーとは、〈深町一夫〉が未来において、芳山和子及び彼女と共に過ごした日々を回想した時に初めて生じるものだからです。
 ここで、『涼宮ハルヒの消失』から次のような一節を引用してみましょう。

 もう少し時間的余裕がある、と朝比奈さん(大)は腕時計を見せながら言って、SOS団での思い出を懐かしそうに語った 。※2

 これは主人公〈キョン〉が、未来人である〈朝比奈さん大人バージョン〉と再会するシーンですが、ここに端的に示されているように、〈懐かしさ〉を感じるのは未来人の〈朝比奈さん〉の方であり、現代人の〈キョン〉ではありません。

 ただ興味深いのは、人間は〈後ろ向きの距離感〉でさえあれば、かなり容易にノスタルジーを感じてしまうことができる動物だという点です。

 たとえあなたが〈尾道〉になど行ったことがなく、それどころか緑さえろくにない都会に生まれ育ったとしても、いやだからこそかえって一層痛切に〈懐かしさ〉を感じてしまうのです。
 それは古い、歴史のある町並みといった要素だけに起因するのではありません。

〈舗装されていない土の道〉
〈樹齢をかさねた大樹〉
〈和服の装い〉
 ……
 といった簡単な記号を、〈わたしたち〉はノスタルジーと結びつけて認識することができます。
 だから、例えば漆原友紀の漫画『蟲師 』や、そのアニメ作品のような、近世と近代が混じり合った印象の、現実の歴史の中には到底存在し得ない不可思議な世界にも、ごく自然に〈懐かしさ〉を感じることができるのです。

 こうした視座から所謂〈学園もの〉にカテゴリーされる物語を見てみれば、そこには最大公約数的なノスタルジーを喚起させる条件が揃っていることがわかります。

〈学園もの〉はほぼ例外なく、高校を舞台にしていますが、それは現代の日本社会において高校に通わない人は殆どおらず、また日本のどこで高校生活を送ろうと、学校とはどこも同じような形をした器であり、その中で毎日同じような日常が繰り返されているからに他なりません。
 学校の中で着用を義務づけられている服装も、細かいデザインの違いはあるものの、一見して〈制服〉と規定できる共通性を持っています。だから、〈わたしたち〉は〈制服〉という記号が提示されさえすれば、それが現実の学校に属するものであろうと架空の世界のものであろうと、いや、他のアジアの国の作品中に現われるそれ(例えば、台湾の侯孝賢監督の映画〈戀戀風塵〉のような作品)に対してさえ、やはりノスタルジーを感じてしまいます。

〈わたしたち〉がノスタルジーを感じるメカニズムは、実はことほどさように大雑把なものなのです。
 ノスタルジーのメカニズムについて、もう少し考えてみましょう。

※1 筒井康隆『創作の極意と掟』、講談社、二〇一四年、一一〇頁。
※2 谷川流『涼宮ハルヒの消失』、角川スニーカー文庫、二〇〇四年、一七八頁。
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