第9話 〈萌えキャラ〉とポップ・アイコン

文字数 1,805文字

 映画〈時をかける少女〉のようなノスタルジックな〈学園もの〉において、〈少女〉は不可欠な存在であり、その〈少女〉の魅力が作品の商業的成功の鍵を握ることになります。

 ですが、1983年の〈時をかける少女〉に主演した十六歳の原田知世――〈セーラー服と機関銃〉における十七歳の薬師丸ひろ子にしても同様なのですが――を現代人の視線で眺めた場合、確かに非常にかわいらしい〈少女〉である点を認めるのに(やぶさ)かではないものの、それだけと言えばそれだけであり、八〇年代前半、彼女らがあれほど熱狂的且つ広範な支持を集めたことに、正直なところ(いささ)か不思議の念を禁じ得ません。

 その原因を九〇年代以降のオタク用語で表現すれば、所謂〈萌え要素〉の不足ということになるのではないでしょうか。
 九〇年代における〈萌えキャラ〉の代表的存在である〈新世紀エヴァンゲリオン〉の〈綾波レイ〉、いや、そこまで時代が下らなくても構いません。〈セーラー服と機関銃〉や〈時をかける少女〉と同じく八〇年代の二次元少女――例えば、高橋留美子のマンガ『うる星やつら』及びそのアニメ作品のヒロインである〈ラム〉――らと較べてみても、当時生身の少女であった薬師丸ひろ子や原田知世は、〈萌え〉の対象としては少々頼りなく思われるのです。

 生身の少女と二次元少女との比較を強引だと見るむきもあるかもしれませんが、『うる星やつら』のファンがヒロインを〈ラムちゃん〉と、〈ちゃん付け〉で呼ぶ心理と、六〇年代の仁侠映画ファンがスクリーンの主人公を〈健さん〉と、〈さん付け〉で呼ぶ心理の間には、一体どれほどの違いがあるのでしょうか。
 消費者にとっては、マンガであろうがアニメであろうが、はたまた実写であろうが、ただ自分が好む作品を選択して消費するだけの話であり、表現媒体の違いなど実は瑣末な問題に過ぎないのです。

『うる星やつら』を例として挙げた場合、ヒロインのラムは〈萌えキャラ〉として、誰でも簡単に特徴を抽出できる存在です。
 これは東浩紀の言葉を借りれば、〈萌え要素のデータベース化 〉ということになるのですが、設定年齢からは不自然すぎる成熟した肢体、セクシーな衣装、アクセサリーのような頭部の角、語尾に「だっちゃ」を付ける独特の言葉遣い等がそれに当たります。

 他にもよく知られた例を挙げれば、〈綾波レイ〉や、〈涼宮ハルヒ〉シリーズの〈長門有希〉に共通する〈無口属性〉、また同じく〈涼宮ハルヒ〉シリーズの〈朝比奈みくる〉における〈巨乳〉、〈どじっ子〉、〈メイド服〉等、オタク文化において人気を博するキャラクターは必然的にこうした〈データベース化〉され得る〈要素〉や〈属性〉を備えているのであって、俗に言う〈キャラ立ち〉とは、

の意味であると定義しても大きな間違いではない筈です。※1

 筆者が言いたいのは、上述の如き明確な特徴を、当時十七歳の薬師丸ひろ子や十六歳の原田知世は必ずしも持ち合わせていなかったのではないか、ということなのです。
 彼女たちを表現するのによく用いられた〈透明感〉があるという言葉は、言い換えれば、彼女たちが実は、

事実を示しているのではないでしょうか。

 ここで当然ながら、一つの疑問が生じます。

 ――それではなぜ彼女たちは、社会現象になるほどの人気を獲得することができたのだろうか?

 実は、八〇年代の『うる星やつら』や九〇年代の〈新世紀エヴァンゲリオン〉のヒロインと、〈セーラー服と機関銃〉や〈時をかける少女〉のヒロインは、最初からその存在意義が異なっていたのです。
 簡単に言えば、〈ラム〉や〈綾波レイ〉はオタクと呼ばれる特定の層にアピールする〈萌え〉の対象として捉え得るのですが、薬師丸ひろ子扮する〈星泉〉や原田知世扮する〈芳山和子〉は、オタク的な〈萌えキャラ〉というより、もっと大衆的な存在、すなわちポップ・アイコンであり、更に言えば八〇年代の〈わたしたち〉だったということになります。

 そう、ポップ・アイコンとしての〈少女〉は、〈わたしたち〉自身だったのです。
 かつて〈ゴジラ〉が、〈わたしたち〉であったのと同じように。

※1 正直に告白すると、筆者には〈萌え要素〉なるものが実感としてよくわからないのですが、こういう〈要素〉や〈属性〉に強い反応を示す層が存在するという点は理解できる気がします。
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