第4話 〈大きな物語〉は衰退したのか

文字数 1,810文字

〈昭和残侠伝〉シリーズの、〈

〉という言葉は、既に時代遅れとなった任侠の世界の最後の生き残りといったニュアンスを持ちます。
 敗戦と、それに続く連合国の占領下にあった6年8か月の間に、日本は政治的にも経済的にも、そして文化的にも、アメリカ無しでは立ちゆかなくなってしまいました。そうした世相を批判的な眼で眺めた場合、その心情が容易にノスタルジーと結びついてしまうのは想像に難くありません。

〈残侠〉という設定には、川の流れのような歴史が敗戦を挟んで断絶し、古き良き日本は失われてしまったという認識が前提としてある筈で、その点において、その一年前の1964年に始まった〈日本侠客伝〉シリーズよりも、ことタイトルに関しては意識的にノスタルジックであったと言えるかもしれません。

 とは言え、この二つのシリーズが同一の世界観を共有しているのは自明のことであり、七〇代の初頭、相前後して終了したのも、ある意味当然だったと言えましょう。
 この二つのシリーズの打ち切りは、健さんが体現する義理と人情の世界を、〈虚構〉としてさえ受け入れられなくなった日本社会の〈現実〉を反映しているのです。

 東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で、次のように述べています。

 近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した 。※1

 東浩紀に拠れば、「大きな物語」とは「一八世紀より二〇世紀半ばまで」の間に、近代国家で構築された「システムの総称」であり、七〇年代は「大きな物語」の衰退していく時代だということになります。

 ――果たして、そうなのでしょうか?

 七〇年代の日本を「大きな物語」が衰退していく時代と捉える東の説に、筆者は少々疑問を禁じ得ません。
 第二次大戦後の世界に、連合国(実質的にはアメリカ)主導で築き上げられたシステムがいかに強固なものであったか――つまり、そうした新しい「大きな物語」を、日本人が身にしみて理解したのが七〇年代だったのではないでしょうか。

 実際、『動物化するポストモダン』発表後、東のもとには、このような疑問、反論がかなり寄せられたようです。そこで東は「動物化するポストモダン2」というサブタイトルのついた『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、そうした疑問や反論は「誤解」であるとして、以下のように述べます。

「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。しかし、その反論は誤解に基づいている。というのも、ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する

の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである 。※2(傍点部原著者)


 確かに先進諸国――特にアメリカにおいては、1975年まで続いたベトナム戦争等により、システムの様々な綻びや欺瞞、問題点が顕在化し、「特定の物語の共有化圧力」は低下したと言えます。
 戦後日本社会におけるシステムが、アメリカによって産み落とされたものだとするなら、親鳥の揺らぎは当然卵に、あるいはそこから出てきた雛の方にも伝わるわけであり、七〇年代の日本社会が一種の混沌状態にあった点は間違いないでしょう。

 でも、そうした混沌の中で、いつの間にか一種の〈暗黙のルール〉とでも呼ぶべきものが日本社会全体を覆い出したこともまた事実だと思われます。

 それは、あるいは〈物語〉と呼ぶほど構造的なものではなかったかもしれませんが、八〇年代初期に至り、はっきりと形をなすに至ります。
 そのルールの内容を的確に言語化したのが、村上春樹の短篇小説『蛍』だったと筆者は考えています。

 では次に、村上春樹の短篇小説全体の中でも特に人気の高い『蛍』というテクストについて見ていくことにしましょう。

※1 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、二〇〇一年、四四頁。
※2 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、二〇〇七年、一九頁。
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