第13話
文字数 2,267文字
※※
あまりにも懐かしい記憶に、ヴァンの目頭が熱くなる。見上げていた藤の花は、元の紫の布へと戻り、常春の空気は晩秋のひんやりとした空気となって、ヴァンの身体を包んだ。
「あの子のこと、思い出したの?」
リーファンが薬草を煮出した熱い茶を差し出しながら、問う。鼻にすっと抜ける香りが、ヴァンを現実に引き戻した。
「ありがとう。……ああ、思い出していたよ。リアンのこと」
「……リアンは幸せ者だわ。逝ってしまっても、あなたに愛されて」
「……。もちろんだ。俺にとって彼女はずっと特別だ。命を賭してリンガを残してくれた。そして何より、君をここに留めてくれた。君と結婚して、レグナも生まれた。……俺こそ果報者だよ」
「そういう自覚があったのですね」
「あったさ。……ありすぎるくらいだ。だけど、幸せは多すぎると、手から溢れていくんだ」
ヴァンは掌を見つめる。
剣を振るう荒れた手には、ところどころに血まめの跡ができている。昔は剣なんて振るわずに、羊と山羊を飼って一生高原でのんびり暮らしていくのだと思っていた。
十年前のある日。
祖父は亡くなる直前に、物置から埃をかぶった一振の剣を取り出し、ヴァンに託した。
「これはな、先祖代々、我らファルカス家に伝わる宝剣じゃ。いつ、誰が作ったのかもわからん。名前もない。ただ、ひとつ謂れがあってな。……これは、神獣エルの牙から作られたと言われてておる……。なぜ、そんなたいそうなものが、我が家に伝わっとるんじゃろうなぁ。ご先祖は、エルに縁があったのかもしれんのぉ」
祖父は少年のような目をしながら、「ほれ」とヴァンに宝剣を手渡した。
刀身は黒曜石のような漆黒、そこに玉蟲色の偏光を纏う美しい剣だ。柄は先祖代々という年代物のわりに、瀟洒な作りになっていた。鞘の鮮やかな組紐にくくりつけられた宝玉は、これまた綺麗な躑躅色だ。まるで、リーファンの瞳のようだと、思った。
そこで、ヴァンは、リアンの言っていた秘密のことをふと思い出した。
世界がひっくり返る、二人の秘密──。
それはにわかに信じ難いものだったが、それが真実であるということが、思わぬ形で発露した。
酒場の娘、ハンナが魔獣に襲われた、あのとき。
──レグナが魔術に目覚めた、あの瞬間。
なんでこうも、自分の周りで神話にまつわる異変が起こるのだろうか。これが普通だとは、どうしても思えなかった。何かの予兆なのではと、不安になって眠れない日もあった。
まるで見えない糸に絡め取られ、操り人形にされているような居心地の悪さを、ヴァンは感じていた。それは、やはりあの精霊と出会ってからだ。
「"白い月"──か」
それは、リンガが森の精霊につけた名だ。
彼がもし、メギ族なのであれば、この気持ち悪い現象の正体を知っているかもしれない。精霊なのだから、神に近い存在のはずだ。偶然だ、と一蹴されるかもしれないが、聞きたいことはたくさんある。
リーファンは、リンガが精霊を迎えに行くのは、来春だと言った。それまでに、何が起ころうとしているのかを、知っておきたい。
ヴァンは、リーファンが淹れた茶をいっきに飲み干し、立ち上がる。
「悪い。また行ってくる」
「もう少しゆっくりして、あの子たちと……、と言っても、行くのでしょうね」
「本当にすまない。もう少しで、何かが掴めそうなんだ。……レグナをよく見ておいてくれ。リンガは……、まぁ大丈夫だろう。あいつは、根っこが俺に似てるから」
「はぁ……。リアン、あなたが愛した人は、いつもこうよ」
リーファンは、祭壇に飾られた髪飾りに向かってため息をついた。まるで、そこにリアンがいるかのように。
「リーファン、拗ねないでくれよ」
「拗ねてません!」
リーファンは、眉間に深い皺を寄せてヴァンを睨んだ。ヴァンは、この顔より怖い表情を知らない。
「誤解しないでくれ。俺は、君も愛してる。本当だ。だから、君と平穏な日々を迎えるために、あちこち回ってるんだよ。俺はリアンと約束したんだ。君を幸せにするって」
「知ってます」
「わかった、わかったよ。もう一日、泊まるから。怒らないでくれよ。君が不貞腐れたら、もう立つ瀬がない」
「だから、不貞腐れてません!」
リーファンは、怒ってそっぽを向いてしまったが、その横顔に少し綻びが見え、ヴァンはほっとする。
「リンガとレグナと、ゆっくり話をしてください。二人とも、あなたの帰りを待ってたんですから。……私も、リアンも」
リーファンはそう呟きながら、台所に立ち、背を向けたまま二杯目の茶を注ぐ。ヴァンは、その後ろ姿を不思議な気持ちで見ていた。
ほどなくして、外から人の話し声が聞こえてきた。声の主が、リンガとレグナだということは、すぐにわかった。なにやら楽しそうに談笑している。本当に仲がいいな、とヴァンは嬉しくなる。
螢草の舞う季節に、青い顔をして生まれてきたリンガは、すっかり逞しい青年になった。弟のレグナは反抗期真っ盛りだけれど、リーファンに似て心根は優しく、気持ちがまっすぐな子だ。二人は、間違いなくヴァンの自慢の息子だった。
「父さんまだいたの。珍しいね」
天幕に入ってきた、リンガの嬉しそうな声に、心が暖かくなる。
「げ……」
レグナの嫌そうな表情は、なんだか愛おしかった。
息子二人にヴァンは、微笑みながら手を掲げる。
「ただいま」、と。
そして、リンガとレグナは、おどろいたように顔を見合せたあと、声をそろえて言った。
「「おかえり」」
あまりにも懐かしい記憶に、ヴァンの目頭が熱くなる。見上げていた藤の花は、元の紫の布へと戻り、常春の空気は晩秋のひんやりとした空気となって、ヴァンの身体を包んだ。
「あの子のこと、思い出したの?」
リーファンが薬草を煮出した熱い茶を差し出しながら、問う。鼻にすっと抜ける香りが、ヴァンを現実に引き戻した。
「ありがとう。……ああ、思い出していたよ。リアンのこと」
「……リアンは幸せ者だわ。逝ってしまっても、あなたに愛されて」
「……。もちろんだ。俺にとって彼女はずっと特別だ。命を賭してリンガを残してくれた。そして何より、君をここに留めてくれた。君と結婚して、レグナも生まれた。……俺こそ果報者だよ」
「そういう自覚があったのですね」
「あったさ。……ありすぎるくらいだ。だけど、幸せは多すぎると、手から溢れていくんだ」
ヴァンは掌を見つめる。
剣を振るう荒れた手には、ところどころに血まめの跡ができている。昔は剣なんて振るわずに、羊と山羊を飼って一生高原でのんびり暮らしていくのだと思っていた。
十年前のある日。
祖父は亡くなる直前に、物置から埃をかぶった一振の剣を取り出し、ヴァンに託した。
「これはな、先祖代々、我らファルカス家に伝わる宝剣じゃ。いつ、誰が作ったのかもわからん。名前もない。ただ、ひとつ謂れがあってな。……これは、神獣エルの牙から作られたと言われてておる……。なぜ、そんなたいそうなものが、我が家に伝わっとるんじゃろうなぁ。ご先祖は、エルに縁があったのかもしれんのぉ」
祖父は少年のような目をしながら、「ほれ」とヴァンに宝剣を手渡した。
刀身は黒曜石のような漆黒、そこに玉蟲色の偏光を纏う美しい剣だ。柄は先祖代々という年代物のわりに、瀟洒な作りになっていた。鞘の鮮やかな組紐にくくりつけられた宝玉は、これまた綺麗な躑躅色だ。まるで、リーファンの瞳のようだと、思った。
そこで、ヴァンは、リアンの言っていた秘密のことをふと思い出した。
世界がひっくり返る、二人の秘密──。
それはにわかに信じ難いものだったが、それが真実であるということが、思わぬ形で発露した。
酒場の娘、ハンナが魔獣に襲われた、あのとき。
──レグナが魔術に目覚めた、あの瞬間。
なんでこうも、自分の周りで神話にまつわる異変が起こるのだろうか。これが普通だとは、どうしても思えなかった。何かの予兆なのではと、不安になって眠れない日もあった。
まるで見えない糸に絡め取られ、操り人形にされているような居心地の悪さを、ヴァンは感じていた。それは、やはりあの精霊と出会ってからだ。
「"白い月"──か」
それは、リンガが森の精霊につけた名だ。
彼がもし、メギ族なのであれば、この気持ち悪い現象の正体を知っているかもしれない。精霊なのだから、神に近い存在のはずだ。偶然だ、と一蹴されるかもしれないが、聞きたいことはたくさんある。
リーファンは、リンガが精霊を迎えに行くのは、来春だと言った。それまでに、何が起ころうとしているのかを、知っておきたい。
ヴァンは、リーファンが淹れた茶をいっきに飲み干し、立ち上がる。
「悪い。また行ってくる」
「もう少しゆっくりして、あの子たちと……、と言っても、行くのでしょうね」
「本当にすまない。もう少しで、何かが掴めそうなんだ。……レグナをよく見ておいてくれ。リンガは……、まぁ大丈夫だろう。あいつは、根っこが俺に似てるから」
「はぁ……。リアン、あなたが愛した人は、いつもこうよ」
リーファンは、祭壇に飾られた髪飾りに向かってため息をついた。まるで、そこにリアンがいるかのように。
「リーファン、拗ねないでくれよ」
「拗ねてません!」
リーファンは、眉間に深い皺を寄せてヴァンを睨んだ。ヴァンは、この顔より怖い表情を知らない。
「誤解しないでくれ。俺は、君も愛してる。本当だ。だから、君と平穏な日々を迎えるために、あちこち回ってるんだよ。俺はリアンと約束したんだ。君を幸せにするって」
「知ってます」
「わかった、わかったよ。もう一日、泊まるから。怒らないでくれよ。君が不貞腐れたら、もう立つ瀬がない」
「だから、不貞腐れてません!」
リーファンは、怒ってそっぽを向いてしまったが、その横顔に少し綻びが見え、ヴァンはほっとする。
「リンガとレグナと、ゆっくり話をしてください。二人とも、あなたの帰りを待ってたんですから。……私も、リアンも」
リーファンはそう呟きながら、台所に立ち、背を向けたまま二杯目の茶を注ぐ。ヴァンは、その後ろ姿を不思議な気持ちで見ていた。
ほどなくして、外から人の話し声が聞こえてきた。声の主が、リンガとレグナだということは、すぐにわかった。なにやら楽しそうに談笑している。本当に仲がいいな、とヴァンは嬉しくなる。
螢草の舞う季節に、青い顔をして生まれてきたリンガは、すっかり逞しい青年になった。弟のレグナは反抗期真っ盛りだけれど、リーファンに似て心根は優しく、気持ちがまっすぐな子だ。二人は、間違いなくヴァンの自慢の息子だった。
「父さんまだいたの。珍しいね」
天幕に入ってきた、リンガの嬉しそうな声に、心が暖かくなる。
「げ……」
レグナの嫌そうな表情は、なんだか愛おしかった。
息子二人にヴァンは、微笑みながら手を掲げる。
「ただいま」、と。
そして、リンガとレグナは、おどろいたように顔を見合せたあと、声をそろえて言った。
「「おかえり」」