第1話
文字数 1,210文字
秋も深まり野山が朱に染まる頃、シスル村は一年でもっとも忙しい季節になる。氷点下の朝に収穫して作った葡萄酒は格別に甘く、芳醇な香りと軽やかな酸味が上品な味に仕上げている。琥珀色に輝く朝焼けのような葡萄酒は質が高く、この村一番の特産品だ。昔は全くの無名だったこの村も、今や葡萄酒『シスル』のおかげで、世界で一番有名な村となった。
さらに、もう一つ、この村を有名にしたものがある。それは、神獣の伝承を残す霊峰であるエル大山だ。世界の中心に鎮座し、隣国の脅威からオレア国を守護している聖地であり、季節の移ろいごとに姿を染めかえる美しい山。これを全面に臨む景勝地ということが、大きな要因となっていた。訪れると霊験あらたかなご利益があるともいわれる場所が点在しており、小さな村はいつでも観光客で賑わっている。
「それで、いつツケを払ってくれるのかしら? 本当に元王族なの? 平民になったら、品位も貯蓄も尽きるもんなの? ねぇ、ヴァン!」
酒場の喧騒を打ち消さんとばかりに少女が大声を張り上げながら、嫌味と料理を威勢よくテーブルに並べた。季節の野菜ときのこがグリルされた鉄板に、骨がついたままのヘラジカのステーキ。ぼんやりとした燭台の灯りの中で、新鮮な香草でマリネされたサラダが彩りよく映えていた。
「しーーっ! 一応、元王族ってのはナイショなんだよ、ハンナ。それに、ご先祖さまが野に下ったのは、かなり大昔のことだぜ。俺には関係ないさ。単純に俺が貧乏なの。だから今宵も奢ってよ。ねっ」
男は、悪びれる様子もなくヘラヘラと笑っている。男の名をヴァンといい、この酒場の常連だった。
ハンナは、小さく「キモっ」と吐き捨てながら、店で一番上等の葡萄酒を注ぐ。毎回飲み代を払わない男に、なぜ年代物の貴重な酒を提供しないといけないのだろうか。いくら父に詰め寄っても、「ヴァンがいないと大変なんだよ。いろいろと」と言葉を濁すだけだ。ハンナの苛立ちは解消されるどころか、増す一方だ。父は、こんな知性も品性の欠片もないこの男に、何か弱みでも握られてしまったのだろうか。
そもそも物見遊山で訪れる観光客と違って、ヴァンはシスル村のすぐ近くにあるウィステリア高原の遊牧民だ。しかも、一族の酋長でありながら、その職務を全て息子に押しつけて、ヴァン本人は世界各地を自由気ままに放浪している。まさに、ろくでなしを地でいく最低最悪な男──、とハンナは認識していた。
ただ、ヴァンはまだ若く、目鼻立ちは麗しい。黄ばんだ麻の粗末な衣服に身を包み、持ち物はどれもボロ布に巻かれていて清潔感は感じられない。それでも、肉にかぶりつくヴァンには、意味ありげな目線があちらこちらから飛んでくるのだ。彼は身なりを整えれば間違いなく美丈夫だし、そうでなくとも、どこか隠しきれないオーラがあった。それが、ハンナにはたまらなく腹立たしい。
(こんな男の、何がいいんだか──)
さらに、もう一つ、この村を有名にしたものがある。それは、神獣の伝承を残す霊峰であるエル大山だ。世界の中心に鎮座し、隣国の脅威からオレア国を守護している聖地であり、季節の移ろいごとに姿を染めかえる美しい山。これを全面に臨む景勝地ということが、大きな要因となっていた。訪れると霊験あらたかなご利益があるともいわれる場所が点在しており、小さな村はいつでも観光客で賑わっている。
「それで、いつツケを払ってくれるのかしら? 本当に元王族なの? 平民になったら、品位も貯蓄も尽きるもんなの? ねぇ、ヴァン!」
酒場の喧騒を打ち消さんとばかりに少女が大声を張り上げながら、嫌味と料理を威勢よくテーブルに並べた。季節の野菜ときのこがグリルされた鉄板に、骨がついたままのヘラジカのステーキ。ぼんやりとした燭台の灯りの中で、新鮮な香草でマリネされたサラダが彩りよく映えていた。
「しーーっ! 一応、元王族ってのはナイショなんだよ、ハンナ。それに、ご先祖さまが野に下ったのは、かなり大昔のことだぜ。俺には関係ないさ。単純に俺が貧乏なの。だから今宵も奢ってよ。ねっ」
男は、悪びれる様子もなくヘラヘラと笑っている。男の名をヴァンといい、この酒場の常連だった。
ハンナは、小さく「キモっ」と吐き捨てながら、店で一番上等の葡萄酒を注ぐ。毎回飲み代を払わない男に、なぜ年代物の貴重な酒を提供しないといけないのだろうか。いくら父に詰め寄っても、「ヴァンがいないと大変なんだよ。いろいろと」と言葉を濁すだけだ。ハンナの苛立ちは解消されるどころか、増す一方だ。父は、こんな知性も品性の欠片もないこの男に、何か弱みでも握られてしまったのだろうか。
そもそも物見遊山で訪れる観光客と違って、ヴァンはシスル村のすぐ近くにあるウィステリア高原の遊牧民だ。しかも、一族の酋長でありながら、その職務を全て息子に押しつけて、ヴァン本人は世界各地を自由気ままに放浪している。まさに、ろくでなしを地でいく最低最悪な男──、とハンナは認識していた。
ただ、ヴァンはまだ若く、目鼻立ちは麗しい。黄ばんだ麻の粗末な衣服に身を包み、持ち物はどれもボロ布に巻かれていて清潔感は感じられない。それでも、肉にかぶりつくヴァンには、意味ありげな目線があちらこちらから飛んでくるのだ。彼は身なりを整えれば間違いなく美丈夫だし、そうでなくとも、どこか隠しきれないオーラがあった。それが、ハンナにはたまらなく腹立たしい。
(こんな男の、何がいいんだか──)