第12話
文字数 2,338文字
こういったごたごたの中で、一族にリアンを紹介したせいか、彼女が"星詠みの巫女"という事実が、軽く流されてしまった。どうやら、伝説を真に受けていたのはヴァンだけだったようだ。みなの反応にはがっかりしたが、一人の少女として生きていくことを選んだリアンにとっては、都合がよかった。
その中で、信心深い祖父だけは大いに喜び、ヴァンとリアンが夫婦になることを祝福してくれた。
その数ヶ月後の冬。
拠点をシスル村に移し、二人が、春になったらすぐに海を目指そう、と話をしている最中だった。夫婦になったばかりの二人に、命が宿った。
『こればっかりは仕方ないわね』と言うリアンは、とても幸せそうな顔をしていた。
「海には、生まれてくる子と一緒に行こう」
ヴァンがそう提案すると、リアンはいっそう喜んだ。二人は海原に浮かぶ月影や、天の川が立ちのぼる水平線を想像し、恋焦がれた。
その日が来ることを楽しみに、二人は日々を大切に生き、慈しんだ。
何もかもが順調で、あとは夏を待つだけだった。
しかし、その願いは叶わなかった。
初夏の夜。
ウィステリア高原に戻ってきていたヴァンは、馬を走らせ迷いの森へ向かっていた。
リアンが、臨月を待たずして急に産気づいたのだ。それだけではなく、大量の出血をともない、リアンは意識朦朧とし、ヴァンの呼びかけにも応えない。このままでは、赤子もろとも助からない。産婆にそう告げられ、ヴァンの頭は真っ白になった。
『リーファン! 白い精霊! リアンを助けてくれ!』
ヴァンは、ありったけの大声で何度も叫んだ。じっとして、村の医者を待つことはできなかった。目の前で苦しむリアンをなんとしても助けたくて、産婆にリアンを託して、家を飛び出した。
喉が裂けて、喉に苦い味が広がる。
こんな痛みは、リアンに比べたら大したことはないと、歯を食いしばった。
迷いの森に辿り着くと同時に、懐かしい鳴き声が頭上から聞こえた。リアンの使い魔だった。その背には、一年ぶりに会うリーファンの姿があった。
「リアンの元へ案内して!」
あの冷静なリーファンが、明らかに動揺していた。リーファンは馬に乗り継ぐと、ヴァンの背中で『"星の子"エルよ、ララの子、リアンをお助けください』と何度も唱えていた。
二人が天幕に戻ると、生気のないリアンが寝台の上に横たわっていた。
「生まれたよ」
産婆から手渡された赤子はあまりにも小さく、青白い顔をしていたが、辛うじて生きていた。つらそうな呼吸をしていたが、ヴァンの指を握る力には逞しさがあった。
「自分の命を賭して、この子を救ったんやねぇ」
産婆は悲痛な面持ちで「やれることだけはやったよ」とつけ加え、天幕を出ていった。
残されたヴァンは、なす術もなくただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。その横で、リーファンは泣きそうな顔をしながら、リアンに魔術を施している。
ヴァンは、「逝かないで。まだ早いわ。あなたが幸せにならなくてどうするのよ!」と、泣くリーファンを眺めながら、リアンがもう助からないと覚悟した。
リーファンによる夜通しの処置のおかげで、リアンはなんとか一命を取り留めることができたが、それも長くないことは誰が見ても明白だった。リアンが目を覚ましたのは、それから三日後だった。
赤子には、リンガという名をつけた。
産まれる前に、リアンと決めていた名だ。太陽のように明るく、一隅を照らす光になるように、とつけた名だ。
『温かい……。可愛いね』
リアンはリンガを胸に抱き、愛おしそうにつぶやく。
『リーファン……。来てくれたのね』
「当たり前よ」
血の気が失せて真っ青な顔をしながらも、リアンは懸命に微笑んでいた。
『最期に会えてよかった……』
「馬鹿なこと言わないで!」
リーファンは涙をこらえて叫んだ。
『ふふ。あたしも、"星詠みの巫女"なのよ。最期くらいわかるわ……。ねぇ、ヴァン。リンガとリーファンを……よろしくね』
「うん。二人のことは任せて。心配しなくていいよ」
驚くほどに、ヴァンは落ち着いていた。
リアンが目を覚まさない三日三晩、最期のリアンに何がしてあげられるかずっと考えていた。その答えが、リンガとリーファンを幸せにすることだった。
『……ありがとう。……ねぇ、ヴァン。星を見たいの』
リアンは、遠くを見つめながら言った。
透き通る瞳には、何かが見えているようだった。
草の上に座るヴァンの膝に、リアンは横たわっている。
夜風は心地よく、優しい。
砂粒を撒いたような星空に、白い三日月が地平線の端っこに浮かんでいた。
リアンがか細い声で歌う。
金色の瞳に、もう躑躅色の光は灯らない。
それでも、美しい旋律はヴァンの胸に響いた。自分に向けた鎮魂歌。
きっと、もう聞くことのない美しい歌。
風が丘を吹き抜けるたび、萌木色の飛沫が草原に舞った。
波のように寄せては返す、淡い光。
地平線の際から続く、銀河の回廊。
三日月が、舟のように星空を渡っていく。
ざあっと、風が吹く。
リアンは、はっと目を見開いた。
『これが海なのね』
優しい、穏やかな声だった。
ヴァンがリアンの顔を覗き込むと、そこには安らかな表情をしてリアンが眠っていた。
リアンは、永遠に覚めない夢に、ひとりで旅立ってしまった。
「先に、ひとりで逝くなんて……」
ヴァンは、押し殺していた感情を解き放ち、泣き崩れた。リアンの頬に、ぽたぽたと涙が落ちた。
──本物の海を見せてやりたかったのに。
そう、約束したのに!
耳に残るリアンの歌声が、偽りの潮騒にかき消されないように、ヴァンは必死に叫んでいた。
その中で、信心深い祖父だけは大いに喜び、ヴァンとリアンが夫婦になることを祝福してくれた。
その数ヶ月後の冬。
拠点をシスル村に移し、二人が、春になったらすぐに海を目指そう、と話をしている最中だった。夫婦になったばかりの二人に、命が宿った。
『こればっかりは仕方ないわね』と言うリアンは、とても幸せそうな顔をしていた。
「海には、生まれてくる子と一緒に行こう」
ヴァンがそう提案すると、リアンはいっそう喜んだ。二人は海原に浮かぶ月影や、天の川が立ちのぼる水平線を想像し、恋焦がれた。
その日が来ることを楽しみに、二人は日々を大切に生き、慈しんだ。
何もかもが順調で、あとは夏を待つだけだった。
しかし、その願いは叶わなかった。
初夏の夜。
ウィステリア高原に戻ってきていたヴァンは、馬を走らせ迷いの森へ向かっていた。
リアンが、臨月を待たずして急に産気づいたのだ。それだけではなく、大量の出血をともない、リアンは意識朦朧とし、ヴァンの呼びかけにも応えない。このままでは、赤子もろとも助からない。産婆にそう告げられ、ヴァンの頭は真っ白になった。
『リーファン! 白い精霊! リアンを助けてくれ!』
ヴァンは、ありったけの大声で何度も叫んだ。じっとして、村の医者を待つことはできなかった。目の前で苦しむリアンをなんとしても助けたくて、産婆にリアンを託して、家を飛び出した。
喉が裂けて、喉に苦い味が広がる。
こんな痛みは、リアンに比べたら大したことはないと、歯を食いしばった。
迷いの森に辿り着くと同時に、懐かしい鳴き声が頭上から聞こえた。リアンの使い魔だった。その背には、一年ぶりに会うリーファンの姿があった。
「リアンの元へ案内して!」
あの冷静なリーファンが、明らかに動揺していた。リーファンは馬に乗り継ぐと、ヴァンの背中で『"星の子"エルよ、ララの子、リアンをお助けください』と何度も唱えていた。
二人が天幕に戻ると、生気のないリアンが寝台の上に横たわっていた。
「生まれたよ」
産婆から手渡された赤子はあまりにも小さく、青白い顔をしていたが、辛うじて生きていた。つらそうな呼吸をしていたが、ヴァンの指を握る力には逞しさがあった。
「自分の命を賭して、この子を救ったんやねぇ」
産婆は悲痛な面持ちで「やれることだけはやったよ」とつけ加え、天幕を出ていった。
残されたヴァンは、なす術もなくただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。その横で、リーファンは泣きそうな顔をしながら、リアンに魔術を施している。
ヴァンは、「逝かないで。まだ早いわ。あなたが幸せにならなくてどうするのよ!」と、泣くリーファンを眺めながら、リアンがもう助からないと覚悟した。
リーファンによる夜通しの処置のおかげで、リアンはなんとか一命を取り留めることができたが、それも長くないことは誰が見ても明白だった。リアンが目を覚ましたのは、それから三日後だった。
赤子には、リンガという名をつけた。
産まれる前に、リアンと決めていた名だ。太陽のように明るく、一隅を照らす光になるように、とつけた名だ。
『温かい……。可愛いね』
リアンはリンガを胸に抱き、愛おしそうにつぶやく。
『リーファン……。来てくれたのね』
「当たり前よ」
血の気が失せて真っ青な顔をしながらも、リアンは懸命に微笑んでいた。
『最期に会えてよかった……』
「馬鹿なこと言わないで!」
リーファンは涙をこらえて叫んだ。
『ふふ。あたしも、"星詠みの巫女"なのよ。最期くらいわかるわ……。ねぇ、ヴァン。リンガとリーファンを……よろしくね』
「うん。二人のことは任せて。心配しなくていいよ」
驚くほどに、ヴァンは落ち着いていた。
リアンが目を覚まさない三日三晩、最期のリアンに何がしてあげられるかずっと考えていた。その答えが、リンガとリーファンを幸せにすることだった。
『……ありがとう。……ねぇ、ヴァン。星を見たいの』
リアンは、遠くを見つめながら言った。
透き通る瞳には、何かが見えているようだった。
草の上に座るヴァンの膝に、リアンは横たわっている。
夜風は心地よく、優しい。
砂粒を撒いたような星空に、白い三日月が地平線の端っこに浮かんでいた。
リアンがか細い声で歌う。
金色の瞳に、もう躑躅色の光は灯らない。
それでも、美しい旋律はヴァンの胸に響いた。自分に向けた鎮魂歌。
きっと、もう聞くことのない美しい歌。
風が丘を吹き抜けるたび、萌木色の飛沫が草原に舞った。
波のように寄せては返す、淡い光。
地平線の際から続く、銀河の回廊。
三日月が、舟のように星空を渡っていく。
ざあっと、風が吹く。
リアンは、はっと目を見開いた。
『これが海なのね』
優しい、穏やかな声だった。
ヴァンがリアンの顔を覗き込むと、そこには安らかな表情をしてリアンが眠っていた。
リアンは、永遠に覚めない夢に、ひとりで旅立ってしまった。
「先に、ひとりで逝くなんて……」
ヴァンは、押し殺していた感情を解き放ち、泣き崩れた。リアンの頬に、ぽたぽたと涙が落ちた。
──本物の海を見せてやりたかったのに。
そう、約束したのに!
耳に残るリアンの歌声が、偽りの潮騒にかき消されないように、ヴァンは必死に叫んでいた。