第3話

文字数 1,113文字


ふいに店の外が騒がしくなった。明瞭ではないものの、人々の怒鳴り声と地鳴りのような低い唸り声であることはわかった。
 
 「魔獣だ」

ヴァンが、ぽつりと呟いた。それとほぼ同じくて、店の戸が乱暴に開けられた。外にいた人たちが、慌てた様子で小さな酒場になだれ込んでくる。テーブルに並べられた料理や食器が次々と床に落ちる。グラスが割れる音と人々の悲鳴、踏み潰される料理。店内は一瞬にして阿鼻叫喚の大惨事となった。あまりのできごとに、ハンナは呆然と立ちつくすことしかできない。
 
「きゃっ」
 店内の光景に気を取られていると、パニックになった客に背後から弾き飛ばされ、ハンナは悲鳴をあげた。
「大丈夫か」
 すぐさま誰かに抱きとめられ、顔を上げる。すると、そこにいたのは、さっきまで酒を浴びるように飲んでいたヴァン、その人だった。真剣な表情で外をうかがっているその様子は、まるで別人のようだ。その落差が、この状況が異常事態であるであることを明らかにしていた。店の手伝いをするようになって、酔っ払いに絡まれたことは幾度かあっても、このように状況が判別できないことなど今までなかった。ハンナの足は小刻みに震え、全身に悪寒が走った。
 
「リンガ、レグナ」
「うん」
「なに」
ヴァンはそばに立っていた息子たちに何やら目配せする。
「今年の羊、村長に高く買ってもらえよ」
 そう言うと、ヴァンはハンナからそっと離れ、振り返ることなく人々の間を縫って外に出ていった。その後ろ姿はどこか頼もしく、ハンナの不安は少しだけ解けた。そこに、「……おれも行くよ」とリンガがヴァンの後を追おうとした。しかし、意外なことにレグナがそれを制止する。

「いや、兄さんは残って。今、弓も剣もないでしょ。

じゃ役に立たないよ。おれが行くから」
 線の細い少年は、凛とした態度できっぱりと言った。傍から見れば、役に立ちそうなのリンガの方なのだけど、レグナの口調に迷いはなかった。リンガは何か言いたげに心配そうな表情を浮かべていたけれど、レグナがそれを視界に入れることはない。彼にとって、一度自分が決めたことは絶対なのだろう。目線はすでに外へ向いている。

 「兄さんは、店を」
そう言い残すとレグナもヴァンに続き、すぐさま店の外へ出て行ってしまった。

「あの……」
「……はあ。レグナはね、ああ見えて、おれより頼りになるから大丈夫。外は二人に任せて、おれたちはみんなを宥めよっか」

 リンガは少し困ったような微笑みをハンナに向けた。やはり、心配しているのだろう。
 外から聞こえる唸り声は、もうすぐそこまで来ている。
 ハンナは窓から微かに見えるエル大山を見つめながら、出て行った二人の無事を祈った。



 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ヴァン


薄い金髪に藤色の目をしている。

飄々とした性格をしていて、掴みどころがない。

薄汚い格好をしているが、実は美丈夫だという噂がある。推定36歳。


亡き妻とのあいだにリンガ、現在の妻とのあいだにレグナをもうけている。

仲間のディーマとは幼馴染。


本名を嫌っており、通称の「ヴァン」を名乗っている。

元王族の末裔。代々伝わる宝刀を携えて旅をしている。


本人には旅の目的があるようだが……。

リアン


"星詠みの巫女" 最後の少女

リンガの母


明るくお転婆な少女。

リーファンを姉のように慕い、尊敬している。

海に憧れ、外に連れ出してくれる人を待っていたところ、ヴァンと出会った。


リンガを産み、数日後に他界。

リーファン


"星詠みの巫女"の侍女

レグナの母


冷静で毒舌だが、優しい性格をしている。

リアン亡き後、リンガの強い要望によりヴァンと結婚した。

そのことを、ときどき後悔している。


ディーマ


商人の息子


恰幅のいい、大男。

ヴァンとは幼なじみで、今は旅の仲間として一緒に行動している。

商人のくせに、計算は苦手。


サーリヤ


復讐を誓う呪術師

ヴァンの仲間


故郷を焼かれ、生き残った少年。

ヴァンに保護されてからは、彼の従者となった。

ヴァンに心酔している節がある。

頭には常に包帯が巻かれているため、素顔を見たものはいない。

ネージュ



聖ルブス公国出身の女性剣士。

元貴族の令嬢。


男装の麗人で、性格もさっぱりしている。

男装は動きやすさを重視しているためであるが、本人の好みでもある。

ヴァンの剣の師匠。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み